ケイ "魔の山 下" 2026年9月24日

ケイ
ケイ
@flyingkei
2026年9月24日
魔の山 下
魔の山 下
トーマス・マン,
望月市恵,
関泰祐
連休中はゆっくり読めなかった『魔の山』…これを読むには静けさが必要。 122〜215ページ 決まったルーティンに時間を溶け込ませることで変化をなきもののように扱うのがベルクホーフに暮らす人びとの不文律、しかし、カストルプ青年がここへ来て一年が経ったころ、なきものとして扱うことのできない変化が訪れる。従兄ヨーアヒムが完治の宣告を待たず下山、念願の軍隊生活へと身を投じたのである。軽症のハンス・カストルプも一緒に帰らされるところであったが、魔の山での水平生活と精神の陣取り遊びがすでに深く身に染み付いたカストルプ青年は、従兄を見送り一人ベルクホーフに残る。山から戻らない彼の様子を見に「下界」から来た叔父も、良識と下界への憧れを持ち続けていたヨーアヒムという歯止めを失ってベルクホーフのルーティンとますます強固に結びついたカストルプ青年には太刀打ちできず、むしろ自身もこの山の魔性の魅力に惹き込まれそうになり慌てて逃げ出したのだった。 従兄と離れたカストルプ青年は、相変わらずセテムブリーニとナフタの論争に耳を傾け、両者の頑固さ・極端さを楽しみながら時折自身の意見も述べてみる。ナフタの過激な二元論は常軌を逸しているが、ナフタの激烈な意見を前にすると自主独立や平等や進歩を語るセテムブリーニの真っ当な論理が表面的な、スローガン的なものに響くのも事実だ。 国家と結びついたカトリックのありようから「政治的なるもの=カトリック的」とし、神と個人の関係を重んじるプロテスタントを「神秘主義」と評するナフタの言説は論理的ではなく、言葉遊びのようなものでしかない。本来必ずしも対立の位置にあるわけではないものをも二元論に落とし込み、肉体VS精神の拡張として健康VS病、道徳VS宗教という構図を描き出すナフタがどこまで本気なのか、主張が極端すぎてもはやわからない。カストルプ青年もすべてを本気には取りはしないが、セテムブリーニの反発と嘆きだけは本物である。
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