本を食べない山羊 "身体の美学入門" 2026年9月24日

身体の美学入門
感性は「徴(しるし)」を挙げられずに五感で味合わせるしかないものに働く。たとえば「赤」は「赤」以上に説明しようがない。「ポストの色」や「信号の止まれの色」では具体例をあげているだけで「徴」の説明ではない。  感性には保守的な感性と逸脱的な感性、個人の感性と社会の感性がある。知性は言語化できる光の領域で、感性は言語化できないはっきりしない闇の領域である。感性の中には「私の中の他者」が宿る。  身体に対する美的判断は道徳的なところより深いところで、その身体の持主との出会い方を決定する。リベラルな社会≠リベラルな感性。感性は、鏡の役割を果たし、周りの人の自分の体に対する反応が自分のふるまいを決定づける。  感性による差別化=集団の求心力の強化(ポジ)  感性による他者化=集団の境界線を画定(ネガ)  これはともに歴史的に作られている。  「醜」による他者化。ルーベンスは「知的な男性は食欲のような感覚的な欲望に身を任せるべきではない」と考えていた。このような考えから西洋では太っている=知性がない=醜と考えるようになった。それがアフリカ系の人(体が大きい)への差別にもつながった。他者化されると声を上げてもきいてもらえない。(バラバラな世界を共に生きる、でも同じような話が合った)感性は世代を超えた価値の再生産装置であり、「醜」とは嫌悪をかき立てるような感性的性質の総称である。「醜」が他者化と差別を生む。  (アメリカ的規範には「依存した存在は醜い」という感性があるらしく……高額医療費制度の見直しなどもこういう感性によるものなのではないかと思った。自分が自立をするために貯蓄や投資をするのはいいのだけれど、それを国から強制されたくはないんだよなぁ……。)  美による差別化。黒人(見た目で差別を受けてきた)にとっても美による差別化=自分の身体に居心地のよさを感じ主体性を取り戻すために必要なもの。  逸脱する感性=個別的・具体的な対象に魅了される。うっとりする。タグやラベルを越えたところにある、目的がそれ自体にある、対象のうちに未知を発見するもの。障碍者の権利を主張するデモで、デモに参加した人が目の前にいる人のくるぶしに感動したというエピソード。なんか「刺青」みたいだな。  社会的な感性の変化。ヨーロッパでは山が「人類の罪のせいでできた突起(本当はつるつるなのが好ましい)」から「多様性を構成するのに不可欠な要素」というものに変化する。  スタイルは人工物であり、観察可能なものと言語化不可能なもの、具体的なものと抽象的なものをつなぐ認知によって感知される、ある制約のもとでなされる一連の選択の結果である。  感性によって今ここでおきていることを味わい魅力を感じる、その対象を知り、思いをはせる、すると真の人格の承認につながり、それが愛になる……が、スタイル≠個人の表出、スタイルは本人を守る逃げ場にもなっている。他者はブラックボックスである。スタイル=ラベルへの抵抗として感性がある。  伊藤亜紗はVUGA(ブーカ)Volatility不安定 Uncertainty不確実 Complexity複雑 Ambiguity曖昧)という言葉に感性を連想した。  感性は「違いがわかる」ことで、違いをうまく扱う知恵がなければ多様性は容易に対立を生む。   うまく言語化できないけれど、『バラバラな世界で共に生きる』の直後にこの本を読んでよかったかも。 風、薫るの、「今ここにあること」が看護、という考えにも何となくつながる気がした。
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