
ハツ
@camellia_no7
2026年9月19日
幽冥の岸 十二国記
小野不由美
買った
読み終わった
紙の本
首都圏での発売から遅れること二日。開いたが最後、あっと言う間もなく物語に引き込まれて一気に読んでしまうのはわかっていたので、勿体ながって短編ひとつずつ、セルフ焦らしプレイしながら読んだ。最初の一行目で「そうそう、これこれ〜〜〜!」という没入感。これですよ、これぞ十二国記。
いつしか十二国記シリーズと呼ばれるようになった一連の物語の中で、前作の『白銀〜』は本編、今回の『幽冥の岸』は番外編と分類されているように思うけど、読み終えて思ったのは、これも“本編”なんだ、ということ。前に小野不由美さんが「戦が起きて数千人が死んだ、と書かれた時、その一人一人を描くことはできない。でも本当は一人一人にそれぞれ異なる生の営みがある」というような話をされているのを何かで読んだ。確かに泰麒や陽子に焦点を当てて展開していく物語の中で名前も出てこない市井の人や大勢の兵卒の生き様・死に様に言及するのは難しい。でも、『白銀〜』はその一人一人によりスポットを当てて描かれていたと思うし、その中には描ききれなかった誰かの話をまとめたのが今作なら、やっぱり『幽冥の岸』は本編なのだと思う。むしろ、『幽冥の岸』まで読んでやっと本当に戴の長すぎる冬が終わったのではないか、と思う。
十二国記は人が生きる話だ。この世界に生まれて、ただ自分として生きる。自分が何を見て何を知り何を感じ、その一方で、何を見ず何に気づかず何を知らないまま生きるのか。歴史に名前が残ろうと残るまいと関係なく人は生きてやがて死ぬ。その中でそれぞれに起こる波乱には大小があるだろうけれど、大きいから意味があるわけでも、小さいから瑣末なわけでもない。日々寝て、起きて、食べて、働き、また眠る、それを繰り返しながら波乱をどう受け止め、どう向き合うのか。そうして幾多数多の名も知らない人たちが各々営む生活があって、王がいる。王がいて国があり民が生きるのではない。民が生きるところに国があり王が存在する。民を背負い国を営む重責を共に担うものとして麒麟がいる。
王や麒麟を中心として物語が紡がれる時、一人一人に焦点があたらない民衆は『無辜の民』と描かれることが多い。それはある意味で事実であるけれど、民の間に立てば正しいとは言えない。特に平和を享受できない状況において、生きること、生き続け生き抜くことを第一にする時、選ばざるを得ずに負う罪もある。それはやがて苦境を抜けた時に、「本当にそうするしかなかったのか」という問いを投げかけてくる。その時、その人は『無辜の民』なのだろうか。それを描いたのが『戦場南』で、小野不由美さんがその視点を失わないからこそ、十二国記シリーズは「あなたの物語」と言われるのだと思う。
……などということをつらつらと考えてしまう読書でした!!まとめるのに一週間もかかっちゃった!!もっかい読もう!!!