サブレとポッポの往復書簡 "レゾンデートルの祈り" 2026年9月26日

レゾンデートルの祈り
レゾンデートルの祈り
ふすい,
楪一志
注) 以下、ネタバレを含めて、重めの感想になります。 『レゾンデートル』は、日本語で『存在意義』あるいは『存在理由』を意味するフランス語です。 安楽死制度が合法化された近未来の日本を背景に、様々な理由から自ら安楽死を選んだ当事者と、制度で規定された期間のある限り、当人の思いに、そして自分自身の思いに対して、真剣に、また懸命に向き合い続ける新米アシスター(人名幇助者)の物語が、連作で5編綴られています。 アシスターとなった眞白は、自分なりの使命感と死生観を持って、安楽死希望者たちと面会を重ねて、心の距離を少しずつでも縮めていこうと奮闘します。 彼らは彼女との面談を重ねるうちに、抱える気持ちにもそれぞれ変化が生じてきます。待ち人の言葉を嘘にさせないため、大切な人と分かち合った色を再び見出だし、それぞれ安楽死を取り下げた人たち、生きたい理由より、死んでもいい理由の側にに天秤を傾けた人、最後だからと自分をいっそ変えようと思いがけない行動を起こした人、いつも側に居てくれる眞白の中に、自分の存在理由を見出だした人。生か死か、結末は違えど皆に共通していたのは、自分自身の存在意義を量る天秤を持っていること。違うのは、それが生に傾いていたのか、死に傾いていたのかだけのこと。そして、眞白は天秤の傾きをどちらに向けたいのか、本人たちにその気付きを与えるための役割をアシスターとして担っているんだなっていうのが、私の率直な感想です。 その役割は、エピローグでも改めて語られていて、すごく自然にすとんと腑に落ちた感覚を覚えました。そして同時にタイトルに続く祈りでもあったのかな、とも。 死生観について、眞白と接する日々の中で、改めて生き直すことを決めた人もいれば、それでも安楽死を選んだ人もいた。けれど、その選択を一律に善いか悪いかでジャッジすることは出来ないというのは、読んでいて何度も考えさせられました。 一般的に、私たちが死に対して抱くイメージは、概ね良いものではないことが多いと思います。特に自殺や安楽死のような、自ら死を選ぶような考え方やそれを否定しない姿勢ともなると、無条件に『自殺はみんなで防がないといけないもの』『死ぬことを自分から考えることはタブー』という空気感が現実としてそこにあることは、私自身も感じています。 それでも、この本を読んでいると、自殺や安楽死に限らず、一般的な死と生についてさえも、それを世間の物差しや自分の考える価値基準だけで、善いか悪いかと一律に線引きしてしまうこと自体そもそも無理なのではと、改めて思うのです。それが、例え自死や安楽死といった、自ら死を望んだ行為の結果であったとしても、です。 何故なら、その死にたいや生きたいという思いに至った人の数だけ、自分にはない、当人しか知り得ない背景や事情、歴史があるのだから…。一方的に『自分で自分の死を決めること』は、単純に十把一絡げに否定されるべきではない、と。 だからこそ私はこう思うのです。 死にたいと思う気持ちに対しては『否定してあげる』でもなく『流してあげる』でもなく『そっか、そうなんだね』と、ただ、ありのままに受け止めてあげたいなって。 それは、私自身が、五人の安楽死希望者のそれぞれの気持ち、特に後半三人の気持ちに対して、色々な過去と重ね合わせて、より深く共感したからなのかもしれません。 本作中にある『生きたくても生きられない人だっている。でもそれは安楽死希望者に対しては、決して口にしてはいけない言葉です』というのは、まさにそれを言い当てていると思います。 第三者の視点からみたら、確かにそうかもしれない。でも、当の本人は、安楽死と未来の生を天秤にかけて悩み、苦しんでいるのも事実です。 海璃が最後に眞白に感謝の言葉を掛けたのも、彼の中の天秤の傾きを見て、人には見えない希死念慮の存在を否定せず、事実として受け止めてくれたからだったのかもしれない… もちろん自死を手放しで肯定する気持ちや考え方で言っているのではありません。ただ、実際には、行動に移せなくても、そう思ってしまう気持ちの自由まで、悪意のない善意で、皮肉にも塞がないで欲しいなと思うだけなのです。 あと、エピローグの『お守りを失くした訪問者』 ってことは、きっと御守りのあったところが代わりになって、本人自身のことを守ってくれたんだろうなって、思いがけず嬉しい気持ちになりました。
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