雨垂 "ケアの倫理" 2026年9月24日

雨垂
@amadare__
2026年9月24日
ケアの倫理
ケアの倫理
岡野八代
​「ケア」とは何なのか、勉強のために読んだ。 ​まず衝撃だったのは、ケア(ケア労働)とは介護や子育てなど「他者の生存に直接関わる行為」を指すという点だ。てっきり最近よく耳にする「セルフケア」のイメージから、日常のちょっとした気遣い程度のことだと思っていた(もちろん気遣いもケアの一部ではあるんだろうけど)。 ​本書は数十年前のアメリカにおけるフェミニズム運動から現代までの流れを整理した内容であり、歴史の記述として淡々と受け止めた。実際のケア労働やフェミニストの主張に行き過ぎた面があるとしても、ケアの倫理そのものは「社会において他者を尊重する気持ちは大切だ」という理念であり、それは真理だと思う。対置される「正義の倫理」も「正しいことをするのは大切だ」という理念であり、どちらも当然のことだ。ただ、その当然のケアの倫理がわざわざ唱えられるのは、これまで正義の倫理ばかりが重視され、ケアの倫理が見過ごされ見下されてきた歴史があるからなのだろう。 ​介護や子育てのように、誰かが必ずやらなければ社会が回らない労働に従事する人が、なぜ見下されるのか。確かに不思議だ。学校で差別の歴史(えた・ひにん)を習った際にも、「生活に不可欠で誰もが嫌がる仕事を引き受けてくれているのだから、むしろ感謝すべきではないか」と感じた記憶がある。 ​だが、この差別構造は「誰もがやりたくない労働であり、当事者すらやりたくないと思っている」という点に起因するのかもしれない。自ら志願して従事するなら尊敬を集めるかもしれないが、「押し付け合いの末に断れず引き受けさせられた」という経緯があるならば、役割そのものが軽視され、差別へつながっていくプロセスにも納得がいく。 ​そう考えると、ケア労働も本音では「やりたくない仕事」の部類に入りそうだ。肉体労働としての効率を考えれば、基本的には体力や筋力のある男性が担った方が理にかなっている。それにもかかわらず女性にその役割が固定化されてきたのは、身体的な都合(妊娠や生理による体調の変化)から「人目を気にせず休める家の中で働く方が合理的だった」という背景があったからではないか。 ​「女性には母性がありケアに向いている」という言説は誇張に過ぎないが、そうした物語を受け入れなければ居場所を失ってしまうため、生存戦略として受け入れてきた側面がある……のかもしれない。 ​ここで難しいのは、現代の雇用や社会システムにおいても「効率」や「合理性」だけを追求すれば、生理や妊娠のリスクがない男性を優先する選択は理解できる。経営上のリスクを避けたい会社側の理屈も一概に全否定はできない。しかし、その効率性を突き詰めた結果、女性が社会進出できず誰かに依存せざるを得なくなる構造は、どう考えても健全ではない。 ​「効率やシステムのために誰かが我慢を強いられる構造」に対し、「人間にはそれぞれの権利があり、互いの弱さや違いを補い合うべきだ」と抗う姿勢こそが、ケアの倫理の本来の意図なのかもしれない。だが、そうした変革や気遣いができるのは、そもそも経済的・精神的に「余裕」がある組織や個人だけだ。競争に追われる社会にはその余裕がなく、結果として合理性の名のもとに誰かが弾き出され続けている。 本書でマルクスが言及されていた理由も、ここにつながるのだと気づいた。資本主義や競争社会が人々の余裕を奪い、効率ばかりを追い求めさせる構造そのものを批判しなければ、ケアの倫理を打ち立てることはできないからだ。読んでいる最中は「ここでマルクスが出てくるんだ」とやや唐突に感じていたが、要するに「余裕を奪う社会構造そのものへの抗い」としてケアの倫理と資本主義批判は地続きなのだと納得がいった。 このように「全員に余裕が足りていない」という現実に目を向けたとき、本書で紹介されるジョアン・トロントのケアの実践(①注意深く見る、②責任を担う、③やり通す、④敏感に応答する)には大きなハードルを感じざるを得ない(p.260)。 これらを読んだとき、単純に「難しすぎる」と感じた。これらの資質は成熟した成人に求められるものであり、現代社会にそこまでの精神的余裕を持った「大人」がどれほどいるだろうか。先進国で暮らす「私」たちは、物質的には恵まれていても、精神的には満たされない発展途上国の子供のような状態にあるのではないか。実際にはケアを実践する余裕などなく、一方的にケアを必要としている立場なのだ。このような弱さを露呈すれば「テイカーだ」「傲慢だ」と批判されるのがオチだ。ケア労働において、弱さを認め合うのをやっていくのは大事なんだろうし、ケアの倫理を元に活動する人は相談してくれと言うのかもしれないが……できない。なぜなら、道徳的な人たちだから。道徳的な人たちに、こんなこと言えないよ〜〜(言えないことがまた問題なんだろうけど)。 ​さらに違和感を覚えたのは、「ケアとは世界を維持し、継続させ、修復させるためのすべての活動である」というトロントの定義だ(p.256)。著者は読者がこの広大さに困惑すると予想しているが、個人的にはそれは序章の時点で承知できていた。それよりも、問題は、「私」たちは、この世界を維持し修復したいなどとは思っていない。むしろ、何もかもを壊してしまいたいとさえ感じている点だ。 ​本書には「子の発する普遍的な欲求──『生きさせろ』」(p.206)という記述があるが、それにも同意しきれない。「死にたい」「消えたい」という思いを抱えながら、生まれてきてしまったがゆえに生理的欲求を他者に求めざるを得ないのが現実だ。もし育てる側がその訴えをすべて無視してくれるなら、これ以上他者に負担をかけることなく消えることができるのに、とすら思うことがある。 ​他者への気遣いの末に他者を死に至らしめることは、ケアには含まれないのだろうか。倫理や道徳というものは、どこまで行っても「社会を存続させるためのシステム」に過ぎないのだろうか。少なくとも、著者やトロントが語るケアの倫理の視界には、壊れてしまいたいと願う「私」のような存在は含まれていないように思えてならない。 いや、ケアの倫理やそれに伴う活動を否定したいわけではない! 道徳的に生きる・生きようとすることは素晴らしいことだと思う。他者にそのような生き方を提示するのは押し付けではないし、提示されることで「そういう生き方もあるのだ」と救われることもあるし。 でもなぁ……ここまで文章を割いて説明されているにも関わらず、ケアの輪郭が私には掴めないのだ。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved