
ケイ
@flyingkei
2026年9月28日
アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
フィリップ・K・ディック,
土井宏明,
浅倉久志
読み終わった
最後まで映画『ブレードランナー』とは全然違った! 映画は湿度高めで叙情的だけど、個人的には種としての絶望感高めな原作の世界観が好き。
地球が放射能で汚染され、生殖能力のある適格者たちはそのほとんどが火星へと移住し、廃墟と灰の中でわずかな残存者が暮らしている近未来のサンフランシスコ。火星で人間の暮らしを支えるために開発され使用されてきたアンドロイドは、今や人間と見分けがつかないレベルの高性能ヒューマノイドとなっているが、火星での暮らしを嫌い地球に逃亡してくる者が後を絶たない。そうした反社会的アンドロイドを「廃棄処理」し賞金を稼ぐことで生計を立てているリックは、新たに最新型ヒューマノイド6体の処理を任される。死んでしまった羊の代わりに飼っている電気羊とは違う、その多くが絶滅し今や貴重なものとなっている本物の動物を買うためにも、リックはアンドロイドたちを追うが―――
人間を人間たらしめるもの。生命を生命たらしめるもの。それはその身を構成する有機的な組織、神経の反射なのか? それとも、他者に、他の生命に共感し感情移入する情動なのか? では、人間と同じ有機的な身体を持ち、かつ、仲間と連帯する情動を持つアンドロイドは、人間とどこが違うのか? 生命ある一つの種ではないのか?
本作はこの問いに、否、と答える。代謝の限界で短い寿命しか持てない有機物であっても、怒りや怯えという感情や、夫婦という関係性を結ぶことさえできたとしても、アンドロイドはアンドロイドであり、彼らは生命を理解しない。人間から虫まで、生命あるものすべてがその生の中に内包している奇跡のような誕生の過程、その尊さに対する畏怖や崇敬の思いを持たない。
では、だが、人間は? 人間は生命を畏怖し崇敬し、尊んでいるだろうか。自らが汚し環境を破壊した母星を捨て、種の存続に不要な者たちを切り捨て置き去りにし、高性能アンドロイドに労働を肩代わりさせて新たな社会を作ろうとしている本作における近未来の人間たちは、生命の尊厳を尊んでいるとはとうてい思えない。そこに、人間とアンドロイドの境界線の曖昧さが生まれる。アンドロイドが人間に寄るのではなく、人間が非人間に寄っていくディストピア世界である。
人間を含めあらゆる生き物が灰の中で死んでいく世界において、本物の動物たちは貴重であり、高値で取り引きされている。生き残った生命を少しでも守っていくというモラル的な志向もさりながら、値が付く商品として当然のごとくステータスを示すためのものとして、動物たちはもてはやされる。大切にしていた、けれど抱き上げたことはない猫が死んで、代替として電気猫が届けられたら――飼い主は気づくのだろうか?
蜘蛛の足を顔色変えず興味本位でハサミで切り落とすアンドロイドの行為は、空恐ろしさを感じさせる。しかし、素晴らしい歌声を持ち絵画を鑑賞する心を持ったアンドロイドを、あるいはついさっきまで上司として共に働いていたアンドロイドを、問答無用で銃で撃ち破壊することができる人間に、彼らアンドロイド以上の「人間性」があるのだろうか。アンドロイドたちは、人間の非人間性までも写し取っただけなのではないだろうか。
そうした揺らぐ境界線の狭間で、リックは翻弄され、アンドロイドに強く共感もし、強く忌避感を持ちもする。本物の動物、本物の生命を強く求めるリックの思いは、血が通うもののために生きたい、他の生命のために生きたいというレーゾンデートルに関わる必死の欲求である。けれど彼は、彼の世界は、彼に本物の動物を与えない。アンドロイド処理の賞金で購入した本物の山羊は失われ、結局彼の手に残るのは電気動物だけである。
人間たちの信じる「融合精神」、キリストの受難と救済を思わせる苦行の神マーサーと機械を介して繋がり、機械に接続している者同士が共感力によって互いの喜びや悲しみや期待を混ぜ合わせ、先の見えない時代にあっても明日に向かう勇気を支え合って奮い起こすための大いなる幻影を、アンドロイドは打ち壊そうとする。けれど、人間は夢見ることをやめない。やめられない。電気羊を抱いて本物の生命を夢見ながら、すぐ隣りにいる人を抱きしめることを忘れる。そんな、愚かで夢見る人間たちの、愚かさと儚い夢が、アンドロイドには生み出せ得ない人間らしさそのものなのかもしれない。


