活字畑でつかまえて "セリーヌの作品〈第1巻〉夜の..." 2026年10月6日

セリーヌの作品〈第1巻〉夜の果てへの旅
「勇気を出すんだ、フェルディナン、とおれは自分に言い聞かせて、なんとか気持を奮いたたせようとした。いたる所で閉め出しを食ってりゃあ、きっとそのうちに奴らを人でなしどもを一人残らず、震え上がらせる手を見つけられるだろうぜ、その手は夜の果てにあるに違いない。それで奴らは夜の果てへ行こうとしねえんだきっと、連中は!」それからあとの車ん中の二人の間はなんとも冷たい限りだった。過ぎてく通りという通りは、果てしなく高い石の天辺まで武装した沈黙で、その沈黙のすべてをもって宙吊りの洪水みたいにひとを威圧してた。」 「おれは彼女が好きだった。ほんとうだ、けれどもおれは自分の悪癖の方がもっと大事だった、なんかわからないものを索めていたる所から逃げ出したくなるんだ、おそらくは愚かな思い上がりのせい、優越性みたいなものへの確信のせいだろう。」 「人生、それこそはほんとうの男たちにとってのほんとうの恋人なのに。」 「路地の両側にどれも見分けのつかない住居が並んでた。明け方の小雨に濡れた石畳に朝日があたって青く光る。電車の連れたちは自分の影を抱えて消えてゆく。日の光りに目をつぶって。この影帽子たちに話しかけてもまず答えは返ってこない。疲れきってて。でも彼らはこぼしたりしない。閉店後、夜の間に街中の店という店を、会社を、掃除するのは彼らだ。おれたちほど、昼間の人間ほど不安そうじゃない。たぶん彼らはみんなもう人と物との一番下へたどり着いちまってるからだろう。」 「あなたのそれは、いつでももっと余計に知りたいってのはあなたの病気なのよね、つまり…•・・・どっちにしても、それがあなたの道なんだわ・…!たった一人の道.••一人っきりの旅行者がいちばん遠くまで行けるんだって言うじゃない…••••で、もうじき発つの?」 「おれは誰でも彼でもあとへ残して行っちまうんだ。」 「生涯を通じてひとが追い求めるものはたぶんこれなんだ、ただただこれだけなんだ、この世におさらばするまえにほんとうの自分になるための、もうぎりぎりの悲しみ。」 「彼女を置いてくるなんてよっぽど頭が狂ってたに違いない、それもなんて下劣で残酷な狂いかただ。その代わりぼくはいままでこの魂を守ってきたし、もしあしたあの世のお迎えがきたとしても、おれは確信できる、おれはそのとき決してほかのみんなほど冷たくも、浅ましくも、重たくもないだろう、それはみんなあのアメリカでの何か月かのあいだにモリーが贈物としてくれた優しさと夢のおかげだ。」 「男ってのは流れてくる水を前にしてると物想いに誘われるもんだ。水夫たちみたいに、いわば、永遠の気分を抱いて放尿する。」 「朝はそれで電車が群衆を地下鉄に詰めこみに運んでく。みんながこっから逃げ出してくさまを見てると、アルジャントゥーユの方で何か大災難があって、自分の土地が炎上してるかなんかみたいだ。毎日のように明方をすぎるとおんなじことの繰り返しだ、みんな群をなしてステップや手摺にしがみつく。大敗走だ。これがみんなパリへ雇主のもとへ、飢え死にから救ってくれる人間のもとへ行くためだ、そいつを失うよりこわいことはないんだ、この意気地なしどもには。ところがはした金と引代えに滅茶滅茶汗を絞らされる。十年も二十年もまだその上も汗のにおいがついてまわる。楽じゃない。」 「まったくモリーの言ったとおりだった、彼女の言ったことがやっとわかりはじめてた。教育は人を支える、人に自導心を与える。人生の真諦にわけ入るためにはそこを通過しなきゃならない。以前にはただまわりを回ってただけた。いっぱしの無頼のつもりでいながら愚にもつかないことにすぐつまずく。夢の見すぎだ。言葉の上っつらを滑ってんだ。これじゃ駄目だ。そんなのはつもりだけだ、見てくれだけだ。腹を決めた人間には別のものが必要だ。医学でもってこのおれは、特別才に恵まれてるわけじゃあないけどともかくおかげで人間に、動物に、あらゆるものに近づくことができたんだ。いまやもう人間たちん中へ思い切って入ってくしかない。死が追いかけて来る、急がなくちゃ、それに探してるあいだにも食わなくちゃだし何よりも戦争の下をくぐり抜けなくちゃだ。しなきゃなんないことが山ほどだ。容易じゃない。」 「誰かを要さなくちゃならないんなら、大人よりは子供の方が危険が少ない、ともかく将来おれたちみたいなろくでなしんなるんじゃないよと希うことだけはできる。どうなるかはわかりゃしないけど。 まっさおな顔にいつものように踊ってる純粋な優しいほほ笑みをおれは決して忘れることができない。宇宙をもおおう明るさだ。 二十歳をすぎてまだこういう気の置けない優しさを持ってる人間はめったにいるもんじゃない、動物の優しさだ。こんな世界だと思っちゃいなかったもんな!そうとも!面つきだって変るだろうさ!あたりまえよ!間違えたんだもんな!そこであっというまに冷血漢に早変りだ!二十歳をすぎておれたちの顔に残ってるものはそれだけだ!間違いだけだ!われわれの顔は間違いだ。」 「おれは誰にでも気安すぎた。自分でもそれはよくわかってた。誰も払ってくれなかった。とりわけ好奇心から、おれはロハで診察した。 これは良いことじゃない。人は親切の借りに仕返しをする。ベベールの叔母もみんなとおんなじようにおれの思い上がった無欲さにつけこんだ。それも汚ないまでに濫用した。おれは黙ってだまされてた。みんなの言うなりに。みんなはおれを引き止め、病気のお客たちは、泣きつき、日増しに臆面なしんなってもう思うがままにひとを操るんだった。そればかりか連中ふだんは心の生簀(いけす)ん中に隠してて決して人に見せない醜さを、おれにだけはこれでもかとばかりぶちまけて見せるんだ。いくら大金を積んだってちょっと見られないほどの醜悪さだ。」 「習慣は勇気と違ってさっさと居座る、とりわけおまんまの習慣は。」 「さあ本題にもどろう!とは言ってもきみの知らないことで教えて上げられることなんかつまりありゃしないんだよ!いろんな説が山ほどあるけどどれも覚つかないし、試験結果だって頼りないのばかりだし、結局はどれも選べないってのが理性の命ずるところだな!まあだから、できる限りやってみるんだねきみ!なんかしなきゃなんない以上、できる限りやるしかないさ!だいたいぼくはね、打明けて言うとこのチフスって病気にはもうとてもじゃないけどうんざりんなっちまってんだよ!考えただけでもね!ぼくが若いころこいつに、このチフスに取り組んだころには、この領域に足を突っ込んでる研究者はほんの数えるほどしかいなくってね、だからそれ、おたがいに立てっこするのも簡単だった…・・・•・それがいまじゃどうだ?ラブランドからさえやって来るんだよ!ペルーからも、日毎に増えるばかりさ!あらゆるところから専門家がやって来る!日本じゃもう大量生産だ!もう好い加減手垢のついたこの問題について、ほんの何年かのあいだにわんさと出る突飛な論文で、世界中がまるでもうてんやわんやの有様んなっちまった。ぼくなんかもうなんとか地位を守ってけさえすりゃいいと思ってるよ、そのために学会や雑誌に機会のあるたんびにおんなじ論文を焼き直して報告してる始末さ、その度に抜目なくつまらない手を加えてね、どうでもいいようなことでね…・•••・それにしてもねえきみ、まったくのとこ今日びじゃまるでマンドリンかパンジョーみたいにそこら中チフスだらけだ。 冗談じゃないよほんとに!みんながそれで自分勝手な曲を弾こうってんだから。いやだね、正直な話もうこれ以上あくせく苦労してく気力はないよ、あとはもう隅っこに引っ込んでおとなしい研究をしてけりゃあと思うよ、敵もできなきゃ弟子もできないような研究をね、誰うらやましがる者もないこのつまらん名声だけありゃあそれで満足さ。」 「釣人たちの足もとで水がチャポチャポ音をたててた、腰をおろして連中の釣りを眺めてた。ほんとに、まるっきり急いじゃいなかった、このおれも、釣人たちとおんなじに。どうやらおれはその時期に、たぶんその年齢にきてたんだ、過ぎ去ってく一時間ごとに自分が何を失ってくのかがわかりだしたんだ。ところが人間はまだ時間の路上でぴたりと立ち止まれるような知恵を身につけてないし、それによしんば止まれたにしてからが、若いときからとっ憑かれてたあの胸踊る前進への狂気がなけりゃあ、なにしたら良いかもわかるまい。もう若さはかつてみたいに誇りじゃない、人前で認める勇気こそまだないが、若さってのはたぶんそれだけのことなんじゃあるまいか、老いぬべきいっときの熱気じゃあ。 自分の滑稽な過去のすべてが、あまりにも滑稽とごまかしと盲信でいっぱいだったのに気がついて、人はたぶん若いってことをきっぱりやめようって気になるんだ、やめて若さが自分から離れてくのをやりすごして、遠ざかってくのを見、その空しさをとっくり眺め、あとに残った穴ぽこを手で確かめ、そいつがも一度目の前を過ぎてくのを見た上で、そいつが自分の若さがたしかに行っちまったのを確言して、それから自分が歩き出すんだ、今度は自分が、落着いて、自分ひとりで、ゆっくりと「時」の向こう側へと渡るんだ、そうして人たちや物たちがほんとうにどんなふうなのかを眺めるんだ。」 「河岸の釣人たちの竿にはさっきからなんにもかかっちゃいなかった。もともと魚を捕えようなんて気もたいてなさそうだった。魚たちも連中のことを知ってるに違いない。みんなただ釣ってるふりをしてるだけなんだ、きれいないまはの陽光がまわりにまだちょっぴりぬくみをとどめ、水面に青と金色の細かい光を踊らせてた。風も、対岸の大きな木立ちを渡ってくるのがなんともさわやかだった、生い茂った木の葉を通して身をかがめ、ほほえみかけるやさしい疾風みたいだった。いい気持だった。そうしてたっぷり二時間も、みんな何も捕らず、何もしないでじっとしてた。やがてセーヌが黒ずみ橋の一角が夕焼けで真赤んなった。河岸を行く人びとからみんなは忘れさられてた、おれたちは、岸と水とにはさまれて。 橋の迫持(アーチ)の下から夜が這い出してきてルーヴル宮に沿って昇り、その正面を捕え、闇をまえに燃え上がる窓をひとつまたひとつと捕えてった。それから窓もみんな闇に消えてった。 もう腰を上げるしかない。」
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