セリーヌの作品〈第1巻〉夜の果てへの旅

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活字畑でつかまえて@catcher-in-the-eye2026年10月8日まだ読んでるこの作品には人間のろくでもなさのすべでが描かれているのではないかと思わせる力がある。 おそらくセリーヌは人間よりももっと大いなるものに噛み付いている。ゆえに人間を全否定しているように思えていたものが翻って全肯定しているようにも思える。お前の今のドン底のありようは、別にお前のせいではなく、何かの気まぐれにすぎないんだよ。と言っているような。 どうせなら夜の果ての景色を見てやろうじゃないか、さぁ世界よ俺を驚嘆させられるか糞野郎!セリーヌがそう言ってるように思えてならない。ゆえに救いがある。救いのない世界なんてハナから当たり前なんだよ!と。 こんな糞みたいな世界に生まれちまった不幸を セリーヌは糞ミソに貶してくれる。 「みんながやってる当り前の仕事にはもうしんからうんざりなんだよ••••••いい年してまだ性懲りもなくてめえが笑う番を待っててよ、その番がきたときにゃあ••••••くればの話だがね••••••もうとうにくたばって土ん中さ••••••そんなのはとんまのやることさその、まっとうな仕事なんてのは••••••だいいちおまえさんだってそんなこたぁ百も承知じゃねえか••••••」 「そうして祭と一緒にまた音楽がやってきた思い出す限りの遠い昔幼なかったころから耳にしてきた音楽だ、あっちでもこっちでも都会の片隅だの田舎の空地だの貧乏人が一週間働いたあと出かけてって腰をおろしてわれに帰るとこで絶えることなく鳴り続けてきた音楽だ。天国だよ!と聞かされる。そうして連中のために音楽が鳴らされる。あっちへ行ったりこっちへ来たりして春でも夏でも音楽は一年前に金持ちどもを踊らせた歌をあるときは陽気にあるときは湿っぽく響かせる。そうそれは機械仕掛けの音楽でそいつがそこら中から降ってくるんだ回転木馬からも自動じゃない自動車からもジェットなんかじゃないジェットコースターからも強くもなきゃマル セーユ出でもない力業師の掛小屋からも髭のない髭女からも寝取られ男の魔術師からもからっぽ卵の射的場裏の安ぴかの手回しオルガンからも。そうそれは一週間働いた人たちをごまかす祭りだ。 そうして瓶詰めビールを飲みに行く、あの泡の立たないやつ!ところが給仕の息がにせの木立の下でそのまた臭いこと。おまけに貰った釣銭の中にはおかしな硬貨が混じっててそのおかしなことと言ったら何週間もたったあとでもまだためつすがめつしたあげく大骨を折って人にそれも物貰いに掴ませるって代物だ。」 「おれは女なんぞ用はねえんだと彼は言ってた、あいつらの素敵なお尻にも、むっちりした太腿にもハート型の唇にも股座(またくまは)にもな、あそこからはいつもなんか出てくるじゃねえか、赤ん坊だとか、病気だとか…・・・・あいつらがにっこりしたからって家賃の代わりんなるわけじゃねえし!だろう? あのおんぼろアパートでももし女がいて月の十五んちに家主に尻まくって見せてやったからって家賃負けてくれるわけじゃねえもんな!」 「やっこさんはもうおれの言うことなんかてんから信じようとしなかった。泣いてた。もう果てまで来ちまってたんだ彼も。もうなに言ってやることもできなかった。人はまったくひとりぼっちになるときがある、おのが身に降りかかりうることの一切のその果てに来ちまったときだ。それは世の果てだ。悲しみさえ、おのれの悲しみさえ自分からはもうなにも答えてくれずだからあとへ引返すしかない、人間たちんとこへ、どんな人間たちだろうと。こうなると贅沢は言っちゃいられない、なにしろ泣くためにだって振出しへもどらなきゃ、人間たちと一緒に引返さなきゃだから。」 「「おれもう自殺したいよ!」苦しみがあんまりひどすぎると思うと彼はそう予告する。それからそれでもなんとかそいつをもちっと先まで背負ってく、まったくなんの役にも立たない手に余る重荷みたいなその苦しみを、訴える相手もいない路上をもちっと先まで。いかにもそいつは大きな複雑な苦しみだった。彼には説明することができなかったろう、その苦しみは彼の教育を超えてた。」 「この男も、おれは知ってたけど、こいつもやっぱり、いつも誰かが現実から救い出してくれることを希ってる生来の卑怯者には違いなかったけど、ところが一方でおれはいったいほんとに卑怯な人間なんてどっかにいるんだろうかと思いはじめてた・・・・・どんな人間にだってそのためになら命を投げ出してもいい、それも即座に喜んでってものがあるんじゃあるまいか。ただいさぎよく死ねる機会が、気に入る機会が必ず現われるとは限らない。 でどっかでのたれ死にってことんなる・・・・・この世にいる限り人間はみんな誰から見ても卑怯者でおまけに臆病者みたいに見えるけどただ自分で納得してるわけじゃない。ただ卑怯に見えるだけなんだ。 ロバンソンも与えられたこの機会には死ぬ気んならなかった。多分別の与えられかたをすれば大いに気に入ったのかもしれない。 言ってみれば死ってのは結婚みたいなもんだ。 この死が彼にはてんで気に入らなかったってだけの話だ。どうしようもないじゃないか。 とすれば彼も諦めてこの屈辱と悲嘆を受容れるしかない。けど今んとこはまだおのが不幸と悲嘆とで心を泥んこに塗たくることにひたすら精を出してた。やがては彼もおのが不幸を整理して、そうすりゃあまた本当の新しい生活がはじまるだろう。そうでもなけりゃ。」 「金持ちはおまんまのために自分で人殺しをする必要がない。連中は、連中流に言えば、人を使う。悪いことは自分じゃしない。金を払う。連中を喜ばすためなら人はなんだってするしそれでみんな御機嫌とくる。貧乏人の女房はすべたなのに連中の女房はきれいだ。これは何百年にも由来する次第の結果だ、化粧なんかの問題じゃない。おいしいものを食べていつも身ぎれいにしてるかわいらしい麗人たち。人間の生活が始まって以来の成果なんてそれだけだ。」 そのほかの人間たちはって言や、みんないくら苦労してもすべったり転んだりとどのつまりはアルコールん中へ落っこちて死体同様生きたまんまのアルコール漬け、成果もへちまもありゃしない。なんてことはもう立派に証明済みだ、どだい大古の昔から色んな動物たちが生まれ、苦しみ、死んでくばかりなのは目の前に見てきたとおりじゃないか、しかもそのあいだほかの動物たちがやってった通りのとこでおんなじ陳腐な挫折を繰り返すほかに、連中にもやっぱり何ひとつ良いことなんてありゃしなかったじゃないか。だいたいそんな仕掛けぐらいとうにわかってるはずじゃないか。はかない生きものの不断の波が世代の沖からひっきりなしにやってきちゃあの目の前でえてくのに、それなのにまだ人は居続けてんだ、なんかを期待して・・・・死を考えることもできずに。 金持の女房、旨いものを食ってきれいに化けてゆっくり休んでる彼女たちは美しくなる。これはほんとだ。つまりはそれだけで充分なんだろう。わからないけど。少なくても生きてくひとつの理由じゃああるだろう。」 「年金を期待する貧乏人にとって待つってことが、通いつめるってことがどんなことか見たことのない人間には、何かを待つってことの、通いつめるってことのなんたるかはわからない。」 「彼らは午後中を何週間でもぶっ通しにみすぼらしい施療院の門口で、雨が降ってるときは敷居際で待ち続ける、パーセンテージへの期待を抱えて、はっきりパチルス性の、本物の痰、〈百パーセント>結核性の痰への望みをかき立てながら。回復は彼らの願いん中じゃあ年金よりずっと後のことだ、そりゃ無論回復のことだって考えちゃいるけど、ほとんどかすんじまってて、年金生活者になりたい、どんなしがないんでもいい、どんな条件でもいい、ただただ年金で暮せるようになりたいという望みに彼らはすっかり目が眩んじまってた。彼らにはこの頑迷な最後の望みを別にしたらもうほかの願いなんぞは取るに足らない小さなものばかりで、だから自分の死でさえもがそれに較べりゃなんかえらくどうでもいいような、せいぜいがスポーツの事故くらいのものんなっちまうわけだ。死なんてせいぜいが何時間か、うまくすりゃ何分間かの問題にすぎないけど、年金となるとこいつは貧乏とおんなじだ、なにしろ一生続く。金持連中の酔い方はまた別で彼らには保障へのこんな熱中ぶりなんて理解できない。金持だってことは、また別の酔いだ、」 「金持を喜ばせるのは簡単だ、たとえば鏡が一枚あったらそれで自分の顔を拝ましとけばいい、世の中に眺めて楽しいものなんて金持よりほかにないからだ。連中を元気づけてやろうと思ったら、十年ごとにレジォン・ドヌール勲章の位をひとつずつ上げてやりゃあいい、年増女のブラジャーの穴みたいなもんだ、そうすりゃあと十年はそれに気をとられてる。」 「番を待つあいだ彼らがおたがい同士、おれがいるとも知らないで話してんのを何度か耳にはさんだことがある。連中おれのことであとからあとから聞くに堪えない悪口と想像も及ばない出鱈目を並べたててた。そんなふうにおれをこきおろすと連中はなにか不思議な勇気が薄いてくるらしかった、それはちっとでも非情でしぶとく邪険になるために、そうして永らえ、持ちこたえるために、是非とも必要な頭気だった。いやまったく、こうしてくさしたりけなしたりんだり脅かしたりするとほんとに彼らは元気が出てくるんだ。」
活字畑でつかまえて@catcher-in-the-eye2026年10月6日まだ読んでる「勇気を出すんだ、フェルディナン、とおれは自分に言い聞かせて、なんとか気持を奮いたたせようとした。いたる所で閉め出しを食ってりゃあ、きっとそのうちに奴らを人でなしどもを一人残らず、震え上がらせる手を見つけられるだろうぜ、その手は夜の果てにあるに違いない。それで奴らは夜の果てへ行こうとしねえんだきっと、連中は!」それからあとの車ん中の二人の間はなんとも冷たい限りだった。過ぎてく通りという通りは、果てしなく高い石の天辺まで武装した沈黙で、その沈黙のすべてをもって宙吊りの洪水みたいにひとを威圧してた。」 「おれは彼女が好きだった。ほんとうだ、けれどもおれは自分の悪癖の方がもっと大事だった、なんかわからないものを索めていたる所から逃げ出したくなるんだ、おそらくは愚かな思い上がりのせい、優越性みたいなものへの確信のせいだろう。」 「人生、それこそはほんとうの男たちにとってのほんとうの恋人なのに。」 「路地の両側にどれも見分けのつかない住居が並んでた。明け方の小雨に濡れた石畳に朝日があたって青く光る。電車の連れたちは自分の影を抱えて消えてゆく。日の光りに目をつぶって。この影帽子たちに話しかけてもまず答えは返ってこない。疲れきってて。でも彼らはこぼしたりしない。閉店後、夜の間に街中の店という店を、会社を、掃除するのは彼らだ。おれたちほど、昼間の人間ほど不安そうじゃない。たぶん彼らはみんなもう人と物との一番下へたどり着いちまってるからだろう。」 「あなたのそれは、いつでももっと余計に知りたいってのはあなたの病気なのよね、つまり…•・・・どっちにしても、それがあなたの道なんだわ・…!たった一人の道.••一人っきりの旅行者がいちばん遠くまで行けるんだって言うじゃない…••••で、もうじき発つの?」 「おれは誰でも彼でもあとへ残して行っちまうんだ。」 「生涯を通じてひとが追い求めるものはたぶんこれなんだ、ただただこれだけなんだ、この世におさらばするまえにほんとうの自分になるための、もうぎりぎりの悲しみ。」 「彼女を置いてくるなんてよっぽど頭が狂ってたに違いない、それもなんて下劣で残酷な狂いかただ。その代わりぼくはいままでこの魂を守ってきたし、もしあしたあの世のお迎えがきたとしても、おれは確信できる、おれはそのとき決してほかのみんなほど冷たくも、浅ましくも、重たくもないだろう、それはみんなあのアメリカでの何か月かのあいだにモリーが贈物としてくれた優しさと夢のおかげだ。」 「男ってのは流れてくる水を前にしてると物想いに誘われるもんだ。水夫たちみたいに、いわば、永遠の気分を抱いて放尿する。」 「朝はそれで電車が群衆を地下鉄に詰めこみに運んでく。みんながこっから逃げ出してくさまを見てると、アルジャントゥーユの方で何か大災難があって、自分の土地が炎上してるかなんかみたいだ。毎日のように明方をすぎるとおんなじことの繰り返しだ、みんな群をなしてステップや手摺にしがみつく。大敗走だ。これがみんなパリへ雇主のもとへ、飢え死にから救ってくれる人間のもとへ行くためだ、そいつを失うよりこわいことはないんだ、この意気地なしどもには。ところがはした金と引代えに滅茶滅茶汗を絞らされる。十年も二十年もまだその上も汗のにおいがついてまわる。楽じゃない。」 「まったくモリーの言ったとおりだった、彼女の言ったことがやっとわかりはじめてた。教育は人を支える、人に自導心を与える。人生の真諦にわけ入るためにはそこを通過しなきゃならない。以前にはただまわりを回ってただけた。いっぱしの無頼のつもりでいながら愚にもつかないことにすぐつまずく。夢の見すぎだ。言葉の上っつらを滑ってんだ。これじゃ駄目だ。そんなのはつもりだけだ、見てくれだけだ。腹を決めた人間には別のものが必要だ。医学でもってこのおれは、特別才に恵まれてるわけじゃあないけどともかくおかげで人間に、動物に、あらゆるものに近づくことができたんだ。いまやもう人間たちん中へ思い切って入ってくしかない。死が追いかけて来る、急がなくちゃ、それに探してるあいだにも食わなくちゃだし何よりも戦争の下をくぐり抜けなくちゃだ。しなきゃなんないことが山ほどだ。容易じゃない。」 「誰かを要さなくちゃならないんなら、大人よりは子供の方が危険が少ない、ともかく将来おれたちみたいなろくでなしんなるんじゃないよと希うことだけはできる。どうなるかはわかりゃしないけど。 まっさおな顔にいつものように踊ってる純粋な優しいほほ笑みをおれは決して忘れることができない。宇宙をもおおう明るさだ。 二十歳をすぎてまだこういう気の置けない優しさを持ってる人間はめったにいるもんじゃない、動物の優しさだ。こんな世界だと思っちゃいなかったもんな!そうとも!面つきだって変るだろうさ!あたりまえよ!間違えたんだもんな!そこであっというまに冷血漢に早変りだ!二十歳をすぎておれたちの顔に残ってるものはそれだけだ!間違いだけだ!われわれの顔は間違いだ。」 「おれは誰にでも気安すぎた。自分でもそれはよくわかってた。誰も払ってくれなかった。とりわけ好奇心から、おれはロハで診察した。 これは良いことじゃない。人は親切の借りに仕返しをする。ベベールの叔母もみんなとおんなじようにおれの思い上がった無欲さにつけこんだ。それも汚ないまでに濫用した。おれは黙ってだまされてた。みんなの言うなりに。みんなはおれを引き止め、病気のお客たちは、泣きつき、日増しに臆面なしんなってもう思うがままにひとを操るんだった。そればかりか連中ふだんは心の生簀(いけす)ん中に隠してて決して人に見せない醜さを、おれにだけはこれでもかとばかりぶちまけて見せるんだ。いくら大金を積んだってちょっと見られないほどの醜悪さだ。」 「習慣は勇気と違ってさっさと居座る、とりわけおまんまの習慣は。」 「さあ本題にもどろう!とは言ってもきみの知らないことで教えて上げられることなんかつまりありゃしないんだよ!いろんな説が山ほどあるけどどれも覚つかないし、試験結果だって頼りないのばかりだし、結局はどれも選べないってのが理性の命ずるところだな!まあだから、できる限りやってみるんだねきみ!なんかしなきゃなんない以上、できる限りやるしかないさ!だいたいぼくはね、打明けて言うとこのチフスって病気にはもうとてもじゃないけどうんざりんなっちまってんだよ!考えただけでもね!ぼくが若いころこいつに、このチフスに取り組んだころには、この領域に足を突っ込んでる研究者はほんの数えるほどしかいなくってね、だからそれ、おたがいに立てっこするのも簡単だった…・・・•・それがいまじゃどうだ?ラブランドからさえやって来るんだよ!ペルーからも、日毎に増えるばかりさ!あらゆるところから専門家がやって来る!日本じゃもう大量生産だ!もう好い加減手垢のついたこの問題について、ほんの何年かのあいだにわんさと出る突飛な論文で、世界中がまるでもうてんやわんやの有様んなっちまった。ぼくなんかもうなんとか地位を守ってけさえすりゃいいと思ってるよ、そのために学会や雑誌に機会のあるたんびにおんなじ論文を焼き直して報告してる始末さ、その度に抜目なくつまらない手を加えてね、どうでもいいようなことでね…・•••・それにしてもねえきみ、まったくのとこ今日びじゃまるでマンドリンかパンジョーみたいにそこら中チフスだらけだ。 冗談じゃないよほんとに!みんながそれで自分勝手な曲を弾こうってんだから。いやだね、正直な話もうこれ以上あくせく苦労してく気力はないよ、あとはもう隅っこに引っ込んでおとなしい研究をしてけりゃあと思うよ、敵もできなきゃ弟子もできないような研究をね、誰うらやましがる者もないこのつまらん名声だけありゃあそれで満足さ。」 「釣人たちの足もとで水がチャポチャポ音をたててた、腰をおろして連中の釣りを眺めてた。ほんとに、まるっきり急いじゃいなかった、このおれも、釣人たちとおんなじに。どうやらおれはその時期に、たぶんその年齢にきてたんだ、過ぎ去ってく一時間ごとに自分が何を失ってくのかがわかりだしたんだ。ところが人間はまだ時間の路上でぴたりと立ち止まれるような知恵を身につけてないし、それによしんば止まれたにしてからが、若いときからとっ憑かれてたあの胸踊る前進への狂気がなけりゃあ、なにしたら良いかもわかるまい。もう若さはかつてみたいに誇りじゃない、人前で認める勇気こそまだないが、若さってのはたぶんそれだけのことなんじゃあるまいか、老いぬべきいっときの熱気じゃあ。 自分の滑稽な過去のすべてが、あまりにも滑稽とごまかしと盲信でいっぱいだったのに気がついて、人はたぶん若いってことをきっぱりやめようって気になるんだ、やめて若さが自分から離れてくのをやりすごして、遠ざかってくのを見、その空しさをとっくり眺め、あとに残った穴ぽこを手で確かめ、そいつがも一度目の前を過ぎてくのを見た上で、そいつが自分の若さがたしかに行っちまったのを確言して、それから自分が歩き出すんだ、今度は自分が、落着いて、自分ひとりで、ゆっくりと「時」の向こう側へと渡るんだ、そうして人たちや物たちがほんとうにどんなふうなのかを眺めるんだ。」 「河岸の釣人たちの竿にはさっきからなんにもかかっちゃいなかった。もともと魚を捕えようなんて気もたいてなさそうだった。魚たちも連中のことを知ってるに違いない。みんなただ釣ってるふりをしてるだけなんだ、きれいないまはの陽光がまわりにまだちょっぴりぬくみをとどめ、水面に青と金色の細かい光を踊らせてた。風も、対岸の大きな木立ちを渡ってくるのがなんともさわやかだった、生い茂った木の葉を通して身をかがめ、ほほえみかけるやさしい疾風みたいだった。いい気持だった。そうしてたっぷり二時間も、みんな何も捕らず、何もしないでじっとしてた。やがてセーヌが黒ずみ橋の一角が夕焼けで真赤んなった。河岸を行く人びとからみんなは忘れさられてた、おれたちは、岸と水とにはさまれて。 橋の迫持(アーチ)の下から夜が這い出してきてルーヴル宮に沿って昇り、その正面を捕え、闇をまえに燃え上がる窓をひとつまたひとつと捕えてった。それから窓もみんな闇に消えてった。 もう腰を上げるしかない。」
活字畑でつかまえて@catcher-in-the-eye2026年9月27日読んでるいやぁ、撃ち抜かれた。 すごい作品だ。これは凄まじすぎる。 徹底的な諧謔精神。 アルシードの姪っ子を想うエピソードに胸を打たれた。 「大佐がでっかい声で訓示をぶった。《勇気を持て!と彼は言った••••••勇気を持て!フランス万歳!》想像力のない奴にとっちゃ、死なんてどうってこたあない、想像力がある奴には、こいつは冗談ごとじゃない。」 「連隊中で死が想像できるのはこのおれ一人きりだってのか?おれの分は、おれの死はおれだけのものにしといて貰いたい、それもできるだけ先のことに願いたい••••••」 「自分の死についてぐらい自分の考えを持ったって良い筈だ。」 「忘れるってのがつまりは一番の敗北だ、とりわけおれたちをくだばらした相手をだ、どこまで人間汚なくなるもんかもわからずおっ死んしまうんじゃあ。墓穴の縁に立った時にゃあ知ったかぶりしたって始まんないけど、かと言って知ってることは忘れちゃならない。この世で見た人間どもの堕落の限りのありったけを一言半句の嘘もなしにしゃべくってやらなきゃだ、それからさ、口を閉じて穴ん中へ入るのは。人間一生の仕事としちゃあ、それだけやりゃあ充分だ。」 「それからおれの馬も一緒にだ、けどこっちはもう苦しみを免じてやるためで、それってのもやっこさん、でっかい図体をして可哀想にもう背中なぞなくなっちまってて、それほどひどい目に遭わされて、まだ残ってる肉と言ったら、鞍の下におれの手のひらくらいの大きさのがただふた切れ、赤剝けんなってじくじくで、血膿が毛布の縁を伝ってベッとり膕(ひかがみ)まで流れてた。それでもそいつに跨って走らなきゃあならなかった、パッカ、パッカ••••••痛さに身をよじりながら走ってた。けど馬ってのは人間どもより遥かに辛抱強い。よろめきながらも走り続けた。夜は外へ放っとくしかなかった。納屋ん中へ入れようもんなら傷口からでる臭気のせいで、そいつがあんまり猛烈でこっちが窒息しちまいそうだった。背に跨がろうとすると、あんまり痛いんでお辞儀でもするみたいに身をかがめ、そうすると腰が膝にくっついちまう。だからまるで驢馬ん乗ろうとしてるみたいだった。」 ⭐︎とんでもない表現だ。これはすごい。やられた。 「このころからだ、士気を昂めるために分隊単位で兵隊の銃殺が始まった。そうして例の憲兵な、奴用の小戦争、ほんとの本物の地獄の戦争の遂行ぶりによって、〈日々命令〉で表彰され出した。」 ⭐︎まるで軍国主義のころの日本の軍隊の話のようだ。戦争は同じ顔をしているということ。 「アステカ人は話によると常日頃、連中の太陽の神殿で、週に八万もの信者の腹を切り裂いてたそうだ、雨を降らして貰うために、そうやって雲の神様に犠牲を捧げてたそうだ。こんなのはちょっとやそっとで信じられる話じゃない、戦争に行くまでは。けど、戦争に行ってみると、すっかりわかる、アステカ人もアステカ人が他人の身体を軽視すんのも、」 ⭐︎これまたすごい話だ。信仰や戦争が炙り出す残虐性。 「明日か、連中にとってもやっぱり、明日は遠い、こんな場合に、明日なんて言葉にたいした意味はない。おれたちみんな誰にとっても、要は一時間でも生き延びることだった、そのたったの一時間生き延びるってのが、こんなに何もかもが人殺しに集中してる世界じゃあ、もうそれだけで奇蹟ってもんだった。」 「やっこさんに教えてもらいたかったこの男にこの予備役がそこにいる間に、どうしておれには勇気がないんだか、このおれにもだ、ほかのみんなみたいに、戦争をする夢気が…・・..だがやっこさんなんにも教えちゃくれなかった、ただもう沢山だと繰り返すばっかりで。」 「どこを見たって小さな窃盗ってやつは、それもとりわけけちくさい食物の窃盗だ、パンとかハムとかチーズとか、そんなのは犯人に間違いなく歴然とした浮名を着せるんだ、徹底的な村八分だ、極刑だ、有無を言わさぬ凌辱だ、贖いがたい恥ってわけだ、なぜかって言えば理由はふたつだ、まずそんな犯罪の犯人はたいていが貧乏人で、この貧乏人て状態がそれだけでもう最大の反社会行為なんだな、それともうひとつはそいつのやったことが社会に対する暗黙の非難を含んでるからさ。貧乏人の盗みは個の悪質なる奪回ってことになるんだな、わかるかい?••·その結果かね?だからけちなこそ泥は、それ、どんな環境ででも極度に厳しく弾圧されるのさ、それもただ社会を護るためだけじゃない、むしろそ いつは、あらゆる不幸な連中に、おとなしく自分の階級の自分の巣に引っ込んでて、何百年たっても未来永劫貧困と死を喜んで受け容れろって言う厳しい忠告なのさ…・・・・」 「ああきみ!こんな世界ははっきり言って巨大な愚弄装置にすぎないんだ、」 「君らのような哀れなお人好しだ、年中汗水垂らしながら、叩かれ、搾り取られてる人生のおばかさんたちに忠告するんだが、この世のお偉方どもがそんな君らを愛しはじめた時は、それは連中が君らを戦場のソーセージにしちまおうとしてるってことだ…•••その徴候なんだ…••••これはもう絶対間違いっこない。まずはちやほやではじまるのさ。」 「ルイ十四世は、少なくともやっこさんは、善良な民衆なんてものをまるで問題にしちゃいなかった。ルイ十五世はって言うと、彼も同じだった。民衆なんて拭き残したうんこぐらいにしか考えちゃいなかった。そりゃあのころはみんなろくな暮しはしちゃいなかったさ、貧た人はろくな暮しなんぞしたためしはない、だけど当今の暴君どもみたいにむきんなって貧乏人のなぶり殺しをしたりはしなかった。哀れな連中がひと息つけるのは、そうさ、お偉方どもに無視されてる間だけなんだな、欲得づくかさもなきゃサディズムででもなけりゃ、連中が民衆のことなんぞ考えるもんか…•••・・哲学者たちだよ、これもついでに覚えとくがいい、普良なる民来に託を並べはじめたのは哲学者連中だよ…・・公教要理よりほかになにも知らない民衆にだよ!連中がおっぱじめたんだ、宣言までしてね、民衆の教育ってやつを・・・いやはや!連中には民衆に教える真理が山ほどあったもんさ!御立派な真理が!それも手垢のついた真理じゃない! きらきら輝くようなやつばっかりだ!みんなぽーっとなっちまった!これだ!と民衆は言いはじめた、まこれだ!まったくその通りだ!みんなこのために命を投げ出そう!民衆ってのは死ぬことしか考えちやいないからね!そういうもんなんだ。デッィトロ万歳!"なんてわめいたもんだ、それから、ブラヴォー、ヴォルテール!”だ。ともかくも哲学者たちだ!それから巧みに勝利を組織したカルノーも万歳だ!みんな万歳だ!とにかく民衆が無知と物神崇拝の中でくたばるのを見殺しにはしない頼もしい連中だ!民衆に「自由」の道を示したんだ!民衆の解放だ!それはすぐさま実行に移された!まずは万人が新聞を読めなくちゃいかん!それが救いだ!それ!急げ!文盲をなくせ!もはや文盲に用はない!必要なのは市民兵だ! 投票をする市民兵だ!字の読める市民兵だ!戦う市民兵だ!行進する市民兵だ!キスを送る市民兵だ! この新療法で善良な民衆はたちまち熟成した。だからつまり、この解放されたという感激だ、こいつをなんかに利用しないって法はないじゃないか?ダントンは伊達に雄弁だったわけじゃない。やっこさんは何度か滔々とまくし立てた、胸に応える弁説だ、歴史に伝わる名演説だ、それでやっこさん瞬く間に民衆を動員しちまった! これが解放された最初の熱狂部隊の初陣となったってわけだ!選挙権を貰って大喜びで国旗をかついだおっさんたちが初めてあのデュムーリエに連れられてフランドルへ鉄砲玉の的んなりに行ったんだ!」 「それからってもの、つまり装置が優れてたんだな、英雄の大量生産が始まった、装置を完備することで加工コストはどんどん安上がりんなってく始末だ。誰でもこの装置を素晴しいものと思った。ビスマルクも、二人のナポレオンも、パレスも女騎士エルザもだ。」 「時間というわれわれの肖像を、受け入れなけりゃならないんだ。」 「臆病者だの勇者だの、そんな言葉に大した意味はありゃしない。こっちじゃ腑抜けであっちじゃ英雄、それもおんなじ一人の人間がだ、こっちでもあっちでも頭ん中は空っぽさ。」 「なんせ世の中芝居だらけなんだからこっちも芝居をしなきゃなんないわけで、ブランルドールは間違っちゃいなかった、実際何が馬鹿面に見えて神経に障るかったって、なんかの拍子に舞台に上がったでくの棒の観客くらいひどいもんはない。いったん舞台に上がったからには、だってそうだろう、調子を合わせてその気んなって芝居をしなきゃあ、覚悟を決めるかさもなきゃ消えるかしなけりゃあ。とりわけ見せ場を欲しがってたのは女どもで、下手な素人役者に対しちゃあ、鬼婆どもめ、情も容赦もありゃあしなかった。戦争ってのはこりゃあもう明らかに、卵巣に作用する、女どもにとっちゃ戦争には英雄がいなくちゃならないわけで、英雄でもなんでもない奴はそれなりの待遇に甘んじるか、さもなきゃもうこの上もない屈辱の運命を忍ばなけりゃあだ。」 「つまるところ彼女の考えは、彼女みたいな平民はなんにつけ苦しむために生まれて来たんで、苦しむのが自分たちのこの世の役目で、近頃こんなに嫌なことばかり起こるのは、それもやっぱり、すっかりそうとは言わないまでも、自分たちが度重なる過ちを犯して来たからだ、平民が・・・・・愚かな過ちをしでかして来たんだ、もちろん、そうとは知らずにしたには違いない、けどそれでも自分たちの罪には変りはない、こんなにして苦しんで、それで自分たちの卑しさを贖わせてもらえるだけだって有難いことと思わなくちゃいけない…•••、手のつけようがない女だった、おふくろは。」 「暑さの絶望的な低迷で人間の積荷はみんな溶けてひとつの泥酔の塊りんなっちまった。デッキの間をのろのろうごめいてる様はまるで水槽の濁り水の底の蛸みたいだった。そのときからだ。白人の嫌らしい性が表に浮き上がってくるのをおれは見た、けしかけられ、解き放たれた、連中のなりふりかまわぬ本性がだ、戦争んときと寸分違わずにだ。八月になるとかいこ蟇や蝮がやっと這い出して来て監獄の罅割れた脇腹を被いつくす、本能が熱帯の蒸風呂に浸されるとあれとおんなじだ。ヨーロッパの冷気ん中じゃあ、北方の控え目な灰色の空の下じゃあ、殺し合いんときででもなけりゃあわが同胞のおぞましい残酷さも推し測るのがせいぜいだけど、熱帯の劣情に煽られた途端に連中の腐敗菌は、肌を侵蝕しはじめるんだ。そのときだ、連中は狂ったみたいに服を脱ぎ捨て、劣情が幅をきかせてわれわれを呑み尽す。生物の本性だ。労働と寒さの締めつけが解かれ、その万力がちょっとでも緩まるとすぐ、「白人」の正体が顕われる、」 「ごく当たり前のいちんちのうちにだって君の死を願う人間が少なくても百人はいるだろう、たとえば急いでんのに君が邪魔んなって地下鉄に乗りそこなった連中も、君の家の前を通る持家のない連中も、君のおしっこが終るのを待ってとちとちしてる連中も、みんなそうだ、つまりは君の子供たちだってそうだし、ほかにもわんさといるわけだ。ひっきりなしにだ。ただ馴れちまってんだ。」 船ん中じゃあこのいらいらが我慢できにくい、さあ、そうなると厄介だ。 「こいつは猥談とおんなじで、武勇談てやつはいつだってどこの国のどんな軍人でもこれを喜ばない奴はない。相手が将校だろうとなかろうと男たちと講和を結ぶには、講和ったってどうせはかない休戦にゃあ違いないけど、それでも大切なことに変りはないんで、つまりそれには、どんな場合だろうと、相手にばかばかしい自慢話を思う存分しゃべくらせるのが一番だ。知性的な自惚れなんてもなあない。そいつは本能だ。それにまたまるっ切り自惚屋じゃない人間なんてのもいるもんじゃない。ごますりのおべんちゃらにも取柄があるのは、だいたいにおいてそれよりほかには人と人とが多少とも喜んで許し合う道はないからだ。この兵隊さんたちの場合もおれは、苦労して想像力を働かせるには及ばなかった。なんのこたあないびっくり仰天したふりをし続けてるだけのこった。戦争の話を根掘り葉掘り聞き出すぐらい簡単なことはない。相棒どもはそいつでパンクしそうだった。まるで病院時代の全盛期に逆戻りしたみたいだった。めいめいの話が終るたんびにおれは、ブランルドールから学んだとおりに、大仰な言薬で讃嘆の意を表わすことを忘れなかった。「いやはやそいつはまったく、歴史の一ページを飾るようなお話ですねぇ!」これくらい便利な紋切型はない。今しがたちょろりと仲間に入りこんだばかりのおれのことを、みんなはだんだん話せる男だと認め始めた。連中がしゃべりだした戦争話のたわごとぶりは、昔さんざん聞かされたのや、も少したってから病院の相棒たちと想像力を競い合ってたときに自分でもしゃべったのとおんなじことだった。」 「いやまさに、おれこそは至福の創造者だった。みんな膝を叩いて喜んでた!この湿っぽい苦しみばかりの世の中で人生を楽しくできるのはおれだけだった!おれほどの聞き上手がいるだろうか? ブラグトン提督丸はおれたちがこんなふうにばか話にふけってる間にもだんだん船足を落として、のろくた潮汁(うしおじる)ん中を進んでた。アトムひとつのそよぎもない空気に包まれて、海岸沿いを進んでるらしかったけど、まるで肥溜めん中を行くみたいに重たげだった。 肥溜めみたいなのは頭の上もおんなじだった。まるで一面黒いどろどろの膏薬だった、そいつをおれは物欲しげに眺めやった。夜ん中へ帰ってくこと、おれはそいつが大好きだった。」 「家ん中から下の方に河の船着場がきらきら照り映えてんのが見えたけど、細かい土埃がもうもうと立ちこめてて、はっきり見定めはつかないままに、活気溢れる騒然とした物音ばかりが、手に取るように聞こえてた。岸壁には黒ん坊の行列が何本も、鞭の下であえぎあえぎ、積荷を満載した船って船の船倉から荷を揚げてるとこだった。罵声を浴びて、てんこ盛りのでっかい籠を頭に、平均をとりながらぐらぐら揺れる危っかしいタラップを登ってくとこは、まるで立ち上がった蟻の行列みたいだった。 そんなのがいくつも不揃いな珠数をつくってぞろぞろ真赤な土埃ん中を行ったり来たりしてた。労働中のそういう恰好ん中には、まだその上に背中に小さな黒い点をくっつけてるのもあった、母親たちだ、母親たちまでが子供の上にまだ余分な重荷の都子キャベツの袋をかつぎに来てたんだ。いったい蟻んこだってこうまでできるもんだろか。」 「いやまったく、このアルシードは崇高の世界をなんの気兼ねもなく、言ってみりゃあ自分の家みたいに歩きまわってた、天使たちと友達づき合いをしてたんだ、この男は、しかもそんな素振りはこれっぽっちも見せずにだ。考えてもいなかった遠い親類の小娘のために拷問にも等しい年月を捧げてきたんだ、単調な酷熱ん中でそのあわれな人生をいちんちいちんちと消し去ってたんだ、無条件で、かけ引なしで、自分の善良な心のほかにはなんの利益もなしに。その遠縁の小娘に全世界を改造することもできるほどの優しさを捧げてたんだ、しかもそんな気配も見せずにだ。 彼はすぐに眠り込んだ、蝋燭の明りの下で。おれはとうとう一度起き上がって、明りをかざしてその顔立ちをつくづく眺めた。誰でもとおんなじように眠ってた。何の変哲もない顔だった。それにしても善人と悪人とを見分ける何かがあったって悪かないだろうに。」 「おれは相手ん中に紛れもない冒険屋の顔立ちを見てとった、輪郭のはっきりした顔、人生のうわべを撫でてくんじゃなくて裸のまま人生ん中へ飛びこんでく強(したた)か者の面接え、たとえばそのでっかいまん丸の鼻にしろ帆みたいにふくらんだ頬にしろだ、ざわざわ波を蹴立てて運命に向かってく帆船だ。けどこいつは運の悪い奴だった。」 「人も物もひとたび過ぎ去るともうまるっきり動かないことは恐ろしいほどだ。時間の墓場ん中へ置き忘れられた生者は死者と一緒にぐっすりと眠り込んでて、おんなじ闇ん中で早くも見分けがつかなくなっちまってて。年を経るにつれてもう呼び起こそうにもどれが生者かどれが死者かもわかんなくなっちまう。」 「行先の当てでもありそうに道を探すふりをしながら、右へ曲がってもちっと明るい通りへ出た、〈Broadway〉って通りだった。標示板にそう名が書いたった。見上げると最上階のはるか上のほうにまだ陽の光もいくらかあって、空のかけらとかもめたちとが見えた。みんなは下のほうの明りん中を歩いてるんだけど、その明りは森ん中とおんなじに病みつかれて灰色で、おかげで通り全体が薄汚れた大きな混ぜ織りの綿布に見えた。 そいつは悲しい傷口みたいだ道ってやつは、いつ果てるとも知らず、その底にはおれたちが、おれたち人間が端から端まで、次から次へと苦しみを求めて、決して見えないその果てに、世界中の道という道の果てに向かって歩いてくんだ。」 「年齢ってやつもまたきっとやって来て、裏切者め、最後の手でもってひとを脅すんだ。人生を踊らせるための音楽はもう自分の中にいくらもない。青春のすべては真実の声を聞かないままにもはや世の果てへ死出の旅に出た。自分の中に充分なだけの熱狂がなくなったら、教えてくれ、外へ出て、どこへ行ったら良い?真実は、永遠に続く死の苦しみだ。この世の真実は死だ。選ばなくちゃならない、死ぬか嘘をつくか。おれはどうしても死ねなかった。」 「そいつは完全に活きてるってわけじゃないスクリーンの中で起きてることは。そん中にはでっかいおぼろな部分が残されてる、貧乏人のための、夢のための、死者のための部分が。あわててそいつを詰めこむんだその夢たちを、小屋を出てから、外で待ちかまえてる人生を切り抜けるために、物たちと人たちとのむごたらしさをもう何日か持ちこたえるために。人は誰でもいちばん心を温めてくれる夢を選ぶ。おれのは、白状しよう、卑猥な夢だった。偉そうな面してたってしょうがない、奇蹟からは手に入るものをものにするまでさ。忘れられないおっぱいとうなじの金髪がスクリーンの休んでるあいだを埋めに出て来て、わが身の孤独を題にした唄を歌った。みんな彼女と一緒に泣かんばかりだった。 これなんだ良いのは!おかげでどれほど力が湧いたこったろう!これで少なくとも、もういまから感じられるんだ、あと二日は肉ん中に勇気が溢れるだろう。」 「哲学するのもまた別の怖がり方にすぎない、それで気が済むのは逃げ腰の屁理屈屋だけだ。」 「金のない人間の一生は長い妄想ん中の長い失意にすぎず、人は何かを本当に知ろうにも何かから解放されようにも、そいつを所有してなきゃ敵わないことなんだ。」 「おれの坐った汚れひとつない溶岩のテーブルは、小さくって足がかくせなかった。そこら中からおれの足がはみ出した。ちょっとのあいだどっか他処へ行ってて欲しかった、自分の足にだ、なにしろガラス窓の向こう側からいましがた通りに残してきた行列の連中に眺められてるんだから。みんなおれたちが食べ終わるのを待って、こんどは自分が席へ着こうとしてるわけだ。まさにそのために、連中の食欲をつなぎとめとくためにこそ、こっちはこんなにおれたちは煌々と照らされ目立たされてんだ、生きた広告ってわけだ。ケーキに載った苺たちはきらきらと無数の光を映しててなかなか口に入れちまう気んなれなかった。 アメリカ商法を逃れるすべはない。」 「おれのいる高いところなら連中になんだって好きなことを怒鳴ってやれる。やってみた。どいつもこいつもうんざりだった。昼間面と向かってじゃあ勇気がなくてなんにも言ってやれないけど、こっからならちっともこわいことはない、おれは連中に向かって叫んだ、<助けてくれ!助けてくれえ!)ただどんな反応があるか見たかっただけだ。なんの反応もありゃしなかった。夜も昼もただやみくもに生きてるんだ人間は。人生のほうは人間にすべてをしてる。自分のたてる音が連中はなんにも聞こえない。構っちゃいないんだ。そうして都会がでかけりゃでかいほど高けりゃ高いほど連中は構っちゃいないんだ。嘘じゃない。おれは試した。もいちど試すには及ばない。」 「人生で係わり合った人びとの身際手さ加減てのは、こっちが年齢とってからその連中のことを考えると、歴然と、というのはつまりあるがままの姿で、鋼鉄のごとく、プラスチックのごとく、時間よりはるかに長持ちしそうな姿で目に見えてくるもんだ。 若いあいだは、どんなに冷たい仕打ちにもどんなに卑劣な裏切りにも、情の気まぐれだとか世馴れないロマンチシスムの徴しだとか、なんとかして納得の理由を見つけ出すもんだ。ところが年齢をとって、どうにかこうにか体温を保ち続けるただそれだけのためにでも、人生どれほどの悪智恵が、むごたらしさが意地悪が必要か、そいつを人生からたたきこまれてはじめて人は納得するわけだ、夢が醒め、過去がどれほど汚物まみれにされてたか見えるようになるわけだ。自分自身をとくと眺めてみさえすりゃわかることだ、自分がどれほど不潔な人間になったかを見るだけで。もう神秘もかまとともおしまいだ、ここまで生きて来た以上もう詩なんか食い尽しちまってんだ。徒の花さ、人生なんて。」 「勇気ってのは許すってことじゃない、どだい人はいつだって許しすぎる!許したってなんの役にも立ちゃしない、それはもう証明済みだ。「下女(おひとよし)」はあらゆる人間の後ろに、最後尾に並ばされてる。これは意味のないこっちゃない。そいつを忘れちゃいけない。いつか夜中に、幸福な人間どもを、彼らが眠ってるあいだに、ほんとに眠らしちまわなきゃならないだろう、いやほんとの話だそうして彼らも彼らの幸福も永久に片づけちまうんだ。 翌日はもう彼らの幸福なんか知ったこっちゃない、もう好きなだけ不幸んなれる、〈下女〉も一緒にだ。いや関話休題。彼女はところで部屋ん中をローラはしどけない部屋着姿で行ったり来たりして、彼女の身体はなんてったってまだおれにはえらく色っぽく思われた。豪勢な肉体ってのはそれだけで強姦の誘いみたいだ、富の、贅沢の核心へのじかの乱暴なそうして密かで甘美な押し入りだ、しかも奪い返される心配もない。」 「語るべき嘘がなくなったら少なくとも二、三世代のあいだきっぱり世界を閉店しなきゃなるまい。嘘がなけりゃあおたがい話すことなんかまずなくなっちまうんだから。」 「もう一度、新しい環境で新しい顔を、これまでとは違ったしゃべりかた嘘のつきかたを覚えなきゃならなかったわけだ。怠惰ってのはほとんど生命とおなじくらい強い。演ずべき新しい茶番のばかさ加減にまず参っちまう、それにやり直すには勇気よりもはるかにたくさんさもしさが必要だ。異国暮しってのは、他処者てっのはつまりそれなんだ、前の国の習慣には見放されたけど、もひとつの、新しい国の習慣に麻薄するとこまではまだいってない、人間の一生に珍らしく頭の冴えたこのいっとき、生活ってもんのほんとうにあるがままの姿が苛酷なまでに見えてくる。」 「戦争はある者を焼きある者を暖めた、中にいるか手前にいるかでそいつは業火にもなりゃ暖炉にもなる。うまくやってくよりほかはない。」 「おれがすっかり変ったと彼女が言ったのもほんとうなんだ。生きてくってことは、そいつは顔をゆがめ、ひしぐ。彼女の顔だってそれで押しひしがれてたけどただちょっぴり、おれよりうんとちょっぴりだけだった。貧乏人は踏みたたこだ。貧因は巨女(おおおんな)で、彼女は世界の汚物を拭うのに雑布代わりにひとの顔を使うんだ。汚れはそのま浸みついちまう。」
