ケイ "魔の山 下" 2026年10月8日

ケイ
ケイ
@flyingkei
2026年10月8日
魔の山 下
魔の山 下
トーマス・マン,
望月市恵,
関泰祐
読み終わってしまった…… 上下巻通しての感想はまたブクログにちゃんと書きます。 昔読んだ時は気づかなかったけど、マンの思想にはニーチェの影響がけっこうある気がする。『ペッパーズ・ゴースト』のおかげで次はニーチェ読むつもりになってたので、ちょうどよかったかも。 493〜最終ページ ペーペルコルンが亡くなり、ショーシャ夫人もベルクホーフを去った。空虚な娯楽に夢中になるベルクホーフの人々を横目に、カストルプ青年は新たに導入されたレコードプレーヤーに熱中する。また、北欧から来た少女を霊媒とする交霊会に参加し、ヨーアヒムの姿を目にするが、その姿は第一次世界大戦後のドイツ軍服を先取りして身にまとっており、カストルプ青年自身の未来を映すかのようだ。 カストルプ青年が熱中して聴くレコードは、ヨーアヒムを連想させる「ファウスト」ヴァレンティンのアリアのほか、「アイーダ」の地下牢の場面であり、「カルメン」のホセの哀れな熱唱であり、歌曲「菩提樹の歌」である。死を前にしたラダメスとアイーダの愛、蠱惑的なカルメンに心囚われたことで身を滅ぼすホセの愛と絶望、そしてドイツ人にとって幼い頃から耳馴染みのある「菩提樹の歌」さえからもカストルプ青年は死への誘惑を感じる。死は魅惑的で、けれど、病を抱えながらベルクホーフで中身のない「忙しさ」に興じる生活には芸術が歌い上げるような美しさも崇高さもない。ベルクホーフでの時間の空虚さは、次第にカストルプ青年を無気力、無感動へと陥らせる。 やがて、世間から隔絶された魔の山に、ヒステリーが蔓延する。隔絶されてはいても日々きな臭くなる世界情勢が影響するのか、無限であるがゆえにゼロでもある毎日の虚しさによるものか、誰も彼もが神経を高ぶらせ、カストルプ青年の教師を自認するセテムブリーニとナフタが決闘騒ぎを起こすまでになる。 魔の山での実験採択、思索的な冒険と肉体的な停滞は、カストルプ青年を現世から引き離しもはや自らの意志で山を去ることなど考えもつかない状態にさせていたが、サラエボ事件によってその状態は外部から打ち破られる。現実が不意に目の前に立ち現れ、カストルプ青年は教師セテムブリーニに別れを告げて魔の山を去っていく。 砲弾が飛び交う戦場で、数多くの青年兵士の一人として泥にまみれて走るハンス・カストルプが「菩提樹の歌」を口ずさみながら塵埃の中へ消えていくラストシーンは、何度読んでも強烈な幕切れである。思索の果て、現世と隔絶された世界での冒険の果てに、死の魅惑というある意味優雅な思考の入る余地のないほど切羽詰まった局面、本能的に生だけを求めて駆けていくしかない戦場という場に置き去りにされたハンス・カストルプ、非人間的な時代の始まりとも言える混乱の中に消えていった単純素朴な青年の姿に、ここまでの教養文学的な体裁すべてを壮大な皮肉にまとめあげたトーマス・マンのシニカルな眼差しと、その底流に流れる、愚かで理屈っぽい神の「厄介息子」たる人間への愛がにじむ。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved