綾鷹 "神さまショッピング" 2026年8月14日

綾鷹
綾鷹
@ayataka
2026年8月14日
神さまショッピング
自分にぴったりの「神さま」や救いを求めて国内外の聖地を巡る姿を描いた短篇集。 すごく好きな本だった。 「幸せになりたい」だけでなく、「縁を切りたい」「自分を許してほしい」など、人に言えない暗い感情も描かれている。 でもどんな気持ちも感じたっていいし、何かを信じたい・何かに縋りたいと思ってもいいんだと思える。 特に「落ちない岩」の次の部分は、学生時代を思い出して心に沁みた。。 ・自分とはまったく違うようなだれかが真剣に祈った「しあわせになりますように」の意味もわからない。わからなくて当然だとも思う。そもそも今ここにいる私は「しあわせになる」なんてことを信じていない。しあわせになれないと思っているのではない。しあわせであることと、しあわせだと感じることは、まったく無関係だと知っている。ーーだって、しあわせになりますようにと必死で願ったのは、そのときしあわせだと感じていなかったからではないか。でも今、あの二十代の女はなんとしあわせだったのだろうと思わずにはいられない。 その時の状況によって心に響く話が変わりそうで、また改めて読みたい本だった。 ・金色の岩が目前に迫る場所にひとりぶんの居場所を確保し、私は手を合わせてみる。しあわせになりますように、という言葉はもう出てこない。そのかわり、そうしてみて、強烈に気づいたことがある。十七年前にここにいた自分と、今ここにいる自分が、まるっきりの別人のように異なっている、ということだ。十七年前の曇り空の下の光景が、今ここにひとかけらも残っているように思えない、それと同じくらい私も違う人間だった。 それは状況の違いではない。あのとき存命だった父親が亡くなっていることや、未婚だった私が結婚と離婚を経験していること、派遣社員から長期休暇のもらえる正社員になったこと、家賃八万二千円の1DKではなく購入した中古マンションに住んでいることーによる違いではない。 今ここにいる私は、十七年前の私のようにだまされまいと身がまえていないし、十七年前の私のように不機嫌に入山料を値切ることなどぜったいにしない。十七年前の私のように名前も知らない男の車に乗ったりしないし、その男とひとけもない山道を二時間近くものぼったりしない。しないどころか、そんなことをする人の気持ちを想像することすらできない。 もちろん十七年前の私と今の私が別人なはずはなくて、この場所から帰った私が一日一日を過ごしたその線の先に今の私がいるのだが、しかしその一日一日、とくべつなことは何もなかった。 結婚や離婚や身近な人の死は私にとって大きなできごとだったが、それでも大いなる何かに向き合った記憶などなく、ただ一日一日、その日進めるぶんだけ進んで、できることだけやって、できなかったことはしらんふりして、あるいは言い訳をして、ときには進むより怠けるほうが多い日もあって、それでも一日をやり過ごして今日に至っている。だから、どの一日で、あるいはどの一日からどの一日までの連なりで、私がこんなにも違う人になってしまったのかがわからない。 実感がない。 自分とはまったく違うようなだれかが真剣に祈った「しあわせになりますように」の意味もわからない。わからなくて当然だとも思う。そもそも今ここにいる私は「しあわせになる」なんてことを信じていない。しあわせになれないと思っているのではない。しあわせであることと、しあわせだと感じることは、まったく無関係だと知っている。ーだって、しあわせになりますようにと必死で願ったのは、そのときしあわせだと感じていなかったからではないか。でも今、あの二十代の女はなんとしあわせだったのだろうと思わずにはいられない。様変わりしたこの場所が、たしかにかつて訪れた場所だと思えるのは、金色の傾いた岩のせいだ。仏陀の髪がその尖塔におさめられているというチャイティーヨーのせいだ。あれが空を背景にそこにあるから、何もかもが変わってしまっても、同じ場所だとわかる。そして私が、かつての私といかに変わったとしても同じ人間であると知るのもやはり、この奇妙な岩をこの目で見ているからだ。大岩にちょこんと乗った不安定な角度の岩があることによって、この地も私もある。 照らされるようにして、今ある。そう思うと、私も周囲の人々と同じ、強く信じる対象を持ってここにいる人間のように思えた。岩の尖塔に仏陀の髪の毛がおさめられているということは、まったく信じてなどいないのに。 ・老夫婦はどうやらキリスト教の信者らしいが、でも菜央は違う。中高時代に歌っていただけで、そのときだって神さまもイエス・キリストも信じていなかったはずだし、卒業してからはなおさらそうだ。ただ、この道を歩いていて、思い出したのだ。菜央の心の動きが手に取るようにわかるのは、千津留もまた、おなじだったからだ。果てしない山々の光景がくっきりと見えすぎるくらい見えて、人間の手によって管理されているわけでもないのに、こんなにも完璧に調和していて、そのことに物理的に満たされたとき、なぜか、千津留もまた神さまのことを思った。神という存在が確実にあって、この広大な世界を作り管理し、私たち人間に、うつくしいという言葉と、それを受け取る知覚と感性を与え、それらが合致したときに、ネガティブなものではけっしてなく、幸福により近い何かがあふれ出るような設定をあらかじめ行った。そうでなくてはおかしいとすら、千津留は今思うのだ。こんな完璧が、自然にできあがるはずがない、と。 ・暗い聖堂からおもてに出ると、一瞬視界がまっしろく染め上げられて、祝福を受けたような錯覚を千津留は抱く。信じたい、という強烈な思いが唐突にわき上がる。神さまを信じたい、いや、この神さまじゃなくてもいい、迷いなく疑いなく当然のごとく信じられるものが、私にもあればいいのに。そのためなら何日だって、嵐だって暴風だって歩き続けられて、世界のうつくしさに涙できて、すれ違う牛でも大でも奇跡だと思えて、歓喜の丘で歓喜を味わえて、広場に足を踏み入れたとき盛大に泣けて、門をくぐって罪を許してもらえて、ヤコブ像に真剣に願うことができて、光の洪水は祝福だと思えて、今こうしているより何万倍も幸福を噛みしめられるだろう。信じてさえいれば、それらすべてが手に入るのに。今度は歩いてこられますように、という願いは、その正体は、これなのかもしれないと千津留は妙に納得する。 ・たしかに昨今は、不倫がばれた芸能人は極悪人のような言われようだし、それで職を失う人もあるのではないかと思うほどだ。 今だったら許されないし、チェちゃんだってかんたんには承知しなかっただろうし、マサマサは仕事も顔もさらされて社会制裁を受けていたかもねと、五年前に会った曜子は言ったのだった。 だれに言われたか、今の今まで忘れていたが、雅志はときおりその言葉を思い出すことがあった。今だったらあんたのしたことは許されない。だれに言われたか思い出せないから、なんだか天啓のように思うこともあった。神さまは信じていないから、その天啓を下すのは時代であると雅志には思えた。時代が許したり許さなかったりする。あのときは時代に許された。今なら時代は許さない。 曜子だったか。胸の内でくり返し、缶チューハイの残りを飲み干して雅志は風呂を沸かしにい く。 ・「こうなったのは残念だけど」とここでも言い、「でもあの旅行にいけたことはすごくよかったと思う。あのとき私は空っぽになるみたいな体験をして、あれが人生の目的になった」とおだやかに話した。「あんなふうに軽やかに、自分の中身を空にして過ごせたらどんなにいいかと、あのときからずっと思ってる。あれは本当にいい旅だった、少なくとも私にとっては」と言って雅志に笑いかけた。雅志はそれを聞いて、自分たちは決定的に違う、そもそも相容れない人間だったのだと思った。自分の中身を空にして生きるなんて、雅志には薄気味悪いとしか思えなかった。 修行僧や修験者じゃあるまいし。そしてなぜダンスインストラクターに惹かれているのかもわかった。彼女はチェちゃんと対極だった。自分が空にならないよう、手当たり次第に取り入れて満タンにしようとしている。生きるって、でもそういうことじゃないか。つねに満タンにして、それをエネルギーにして進んでいくものなんじゃないのか。自分もつまりはそちら側の人間なのだと思った。 ・だれか親密な関係の人がいたらいいと夢想することもある。しかし親密になろうとして失敗したと感じる体験ばかりだから、自分の思う親密な他人というのは架空の何かなのだろうとも思っている。人間の言葉で会話できる犬とか、食べただけで外国語が話せるようになる木の実とか、そんなふうなもの。そして縁を切りたいという強い感情以外で、どのように他人とつきあうのかを、鶴子はもうほとんど忘れかけている。 ・もう放っておきましょうよと鶴子は言いたかった。何かの犯罪を犯しやしないかとひやひやしているけれども、あの子が出ていって私はようやく安眠できるんですよ、それにたぶらかされたと言うけれど、おたくの娘だって高校をやめて、死ぬ死ぬ詐欺みたいなことを言っているんだから、よくできたお嬢さんというわけではないでしょう、出ていってよかった、自立してくれたんだと思いましょうよ、二人でなんとか生き抜いてくれと祈りましょうよ、それで私たちは私たちの人生をこれから生きていきましょうよと、泣く母親の手を取って言いたかった。 しかし言わなかった。よくできたお嬢さんというわけではない娘を、それでも見放さず、憎まず疎まず、愛しているらしい父と母を間近に見て、鶴子は自分がおかしいのだと知ったのだった。尚登がおかしいというより先に、自分がおかしいのだ。母親失格だったのだ。直久も父親失格に違いなく、そんな夫婦のところに生まれた尚登のほうが気の毒だった。 そう気づいてみても、いきなり尚登を愛することができるかというとそれはまた別だった。尚登が出ていって二年が過ぎ、尚登が関与しているらしい事件も犯罪も報道されず、警察からも消費者金融からも連絡がないとなると、いきなり鶴子は人生が開けたような気分になり、それまで開いたままにしていた壁の穴、ガラスの割れたままにしていた食器棚、荒れすさんだままにしていた尚登の部屋、家のなかすべてを修繕し、片づけ、住みよくした。会社の人に誘われれば飲みにいき、ひとりで映画も見にいったし外食もした。 そうだ、あのとき、長いあいだ帰省していなかった実家にいったのだと、新幹線のなかで鶴子はふいに気づく。新幹線と在来線を乗り継いで。尚登が高校生のとき父親が亡くなったが、離婚や尚登の起こす問題で日々まったく余裕のなかった鶴子は、香典だけ送って葬儀にも出なかった。 父亡きあとはひとりで暮らしていた母を訪ねて、いっしょに鮨を食べにいった。尚登がいなくなって音不通だと、母に言えなかったことも鶴子は思い出す。元気だよ、就職難だからずっとアルバイトしてる、などとてきとうに言ったのだった。 出ていったときと同様、尚登がふらりと帰ってきたとき、世界が閉じるのを鶴子は感じた。絶望に追いつかれたと思った。女の子との関係は終わったらしく、恋人がいる気配はなかった。その女の子を心からうらやましく思っていることに気づき、自分に嫌悪を感じたが、しかしうらやましいものはうらやましかった。他人なら、縁が切れるのだ。直久と私みたいに。 ・尚登はそれから高校生とかわらない生活を送っている。ゲームをし、鶴子の渡す金額では足りなくなると現金をさがし、おなかがすけば冷蔵庫をあさり、おもしろくないことがあれば壁に穴を開けガラス戸を割り、ふらりと出ていっては帰らず、二度と帰ってくるなという鶴子の願いと裏腹に帰ってくる。消費者金融に借金があることがわかり、鶴子が返済しているが、犯罪は、鶴子の知るかぎりは犯していない。 暴力を振るわれるわけではないし、壁に穴が開いてもガラス戸が割れても家そのものが破壊されるわけではない。それでも鶴子は、絶望がつねに家に居座っているという感覚から逃れられない。自分の子を、そんなふうにしか思えないことに、もう罪悪感も抱かない。同様に、そんなふうにしか育てられなかったと反省することもしない。 あの子がいなければ、友だちを失うこともなかったし、離婚もしなかったはずだ。両親と疎遠になることもなかった。闘病していた父に会いにいけただろうし、ひとり暮らしになった母にはもっと頻繁に会いにいけただろう。稼いだお金は好きなように使え、ブランドもののバッグや靴も買えただろうし、旅行にだっていけただろう。家はもっとすてきにリフォームできたし、食器だって好きなものを買いそろえただろう。思い浮かべる夢のようなあれやこれやは、すべて、尚登が居座っている部屋に吸いこまれて消えていくように鶴子には感じられた。 ・さまざまな声が浮かんではあらたな声がそれらを覆い、境内のにぎやかさが自分の脳内に入りこんでくるような錯覚を味わう。すべての声を追い払うように頭を軽く振り、鶴子はすぐわきに絵馬掛け所があるのに気づいた。ずらり並ぶ絵馬のうち、いくつかは文字の書かれた裏側がこちらを向いている。読むつもりもないのに文字が意味を持って飛びこんでくる。達筆な字で、丸文字で、判読不明の文字で、それぞれの事情と縁切りしたい相手が短く書かれている。ふざけたり、茶化したり、いいかげんに書かれたものはひとつもない。一枚ずつに強い願いがあり、その一枚ずつに、鶴子が感じるのとひとしい重量の絶望がある。 冬のあかるい日差し、笑い声、歓声、海外からの観光客、写真や動画を撮る人たち、目の前に広がるあかるさとまったく相容れない、深く暗い空洞が、地面のすぐ裏に広がっているように鶴子には思えた。この日差しも歓声も、一瞬にしてのみこみ無にしてしまう暗い洞。その深く暗い洞の上で私たちは移動し、生活を営んでいる。氷河にできるクレバスのように、私たちの日常生活のそとことに裂け目があり、そとから洞穴は暗闇を覗かせていて、幸運にも、まったく気づかず、裂け目に足を取られることなく歩いていく人もいれば、気づいてしまって恐怖に立ちすくむ人もいる。気づいたときには足を踏み入れていて、深く深く落ちていく人もいる。私たちはそういう場所で暮らしているのだと、はじめて得た真実のように鶴子は思う。
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