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きみまめ🫛@kimi_mame2026年10月9日読み終わった表紙とタイトルがかわいいので軽い気持ちで読み始めたら、予想外にずっしりした内容だった。身近にありそうな、やっぱりなさそうな問題から立ち直るために国内外関係なく心に響いた神さまに会いに行く人たちの物語といった短編集だった。取り上げる問題はそこに視点がいくとはさすがだなと感じるものばかり。神様に会うまでの道のりなどは現地に行かなければ感じられないような描写で、実際に自分が行ったような恐怖やドキドキ、戸惑いも体感できた。
rep@toponder_r2026年9月17日心に残る一節その洞はただ暗いだけの空洞ではなくて、自分が、自分以外のだれもが、どんなにちっぽけでも、願ってできなかった、しようとしなかった、しようとしてあきらめたすべてのことが詰まっているのだと、鶴子はぼんやり思う。私たちはその上で生活を営んでいる。裂け目に足を取られないように、裂け目を見ないようにして。

rep@toponder_r2026年9月17日読み終わった“絶望退治”よかった 冒頭ですぐに京都の安井金毘羅宮だと気づいたし潜る前の気持ちも潜っている時になにも考えずに無心になってしまう気持ちも、その後の気持ちも全部自分に身に覚えのある感覚で、洞窟の暗闇も、そのあとすごく清々しくなることも、全部知ってる、と思った。角田さんも潜ったことがあるんだろうか。 そのほかの短編もどれも神さまに会いに行ったり各国へ行ったり、角田さんが行ってそうだなあという感じの話が多くて面白かった。 誰しも、仲の良い人や関係性の近い人に言えない、言わないことはあるし、言わずに何か行動も起こせるし、それは全然変なことじゃないんだ。
綾鷹@ayataka2026年8月14日自分にぴったりの「神さま」や救いを求めて国内外の聖地を巡る姿を描いた短篇集。 すごく好きな本だった。 「幸せになりたい」だけでなく、「縁を切りたい」「自分を許してほしい」など、人に言えない暗い感情も描かれている。 でもどんな気持ちも感じたっていいし、何かを信じたい・何かに縋りたいと思ってもいいんだと思える。 特に「落ちない岩」の次の部分は、学生時代を思い出して心に沁みた。。 ・自分とはまったく違うようなだれかが真剣に祈った「しあわせになりますように」の意味もわからない。わからなくて当然だとも思う。そもそも今ここにいる私は「しあわせになる」なんてことを信じていない。しあわせになれないと思っているのではない。しあわせであることと、しあわせだと感じることは、まったく無関係だと知っている。ーーだって、しあわせになりますようにと必死で願ったのは、そのときしあわせだと感じていなかったからではないか。でも今、あの二十代の女はなんとしあわせだったのだろうと思わずにはいられない。 その時の状況によって心に響く話が変わりそうで、また改めて読みたい本だった。 ・金色の岩が目前に迫る場所にひとりぶんの居場所を確保し、私は手を合わせてみる。しあわせになりますように、という言葉はもう出てこない。そのかわり、そうしてみて、強烈に気づいたことがある。十七年前にここにいた自分と、今ここにいる自分が、まるっきりの別人のように異なっている、ということだ。十七年前の曇り空の下の光景が、今ここにひとかけらも残っているように思えない、それと同じくらい私も違う人間だった。 それは状況の違いではない。あのとき存命だった父親が亡くなっていることや、未婚だった私が結婚と離婚を経験していること、派遣社員から長期休暇のもらえる正社員になったこと、家賃八万二千円の1DKではなく購入した中古マンションに住んでいることーによる違いではない。 今ここにいる私は、十七年前の私のようにだまされまいと身がまえていないし、十七年前の私のように不機嫌に入山料を値切ることなどぜったいにしない。十七年前の私のように名前も知らない男の車に乗ったりしないし、その男とひとけもない山道を二時間近くものぼったりしない。しないどころか、そんなことをする人の気持ちを想像することすらできない。 もちろん十七年前の私と今の私が別人なはずはなくて、この場所から帰った私が一日一日を過ごしたその線の先に今の私がいるのだが、しかしその一日一日、とくべつなことは何もなかった。 結婚や離婚や身近な人の死は私にとって大きなできごとだったが、それでも大いなる何かに向き合った記憶などなく、ただ一日一日、その日進めるぶんだけ進んで、できることだけやって、できなかったことはしらんふりして、あるいは言い訳をして、ときには進むより怠けるほうが多い日もあって、それでも一日をやり過ごして今日に至っている。だから、どの一日で、あるいはどの一日からどの一日までの連なりで、私がこんなにも違う人になってしまったのかがわからない。 実感がない。 自分とはまったく違うようなだれかが真剣に祈った「しあわせになりますように」の意味もわからない。わからなくて当然だとも思う。そもそも今ここにいる私は「しあわせになる」なんてことを信じていない。しあわせになれないと思っているのではない。しあわせであることと、しあわせだと感じることは、まったく無関係だと知っている。ーだって、しあわせになりますようにと必死で願ったのは、そのときしあわせだと感じていなかったからではないか。でも今、あの二十代の女はなんとしあわせだったのだろうと思わずにはいられない。様変わりしたこの場所が、たしかにかつて訪れた場所だと思えるのは、金色の傾いた岩のせいだ。仏陀の髪がその尖塔におさめられているというチャイティーヨーのせいだ。あれが空を背景にそこにあるから、何もかもが変わってしまっても、同じ場所だとわかる。そして私が、かつての私といかに変わったとしても同じ人間であると知るのもやはり、この奇妙な岩をこの目で見ているからだ。大岩にちょこんと乗った不安定な角度の岩があることによって、この地も私もある。 照らされるようにして、今ある。そう思うと、私も周囲の人々と同じ、強く信じる対象を持ってここにいる人間のように思えた。岩の尖塔に仏陀の髪の毛がおさめられているということは、まったく信じてなどいないのに。 ・老夫婦はどうやらキリスト教の信者らしいが、でも菜央は違う。中高時代に歌っていただけで、そのときだって神さまもイエス・キリストも信じていなかったはずだし、卒業してからはなおさらそうだ。ただ、この道を歩いていて、思い出したのだ。菜央の心の動きが手に取るようにわかるのは、千津留もまた、おなじだったからだ。果てしない山々の光景がくっきりと見えすぎるくらい見えて、人間の手によって管理されているわけでもないのに、こんなにも完璧に調和していて、そのことに物理的に満たされたとき、なぜか、千津留もまた神さまのことを思った。神という存在が確実にあって、この広大な世界を作り管理し、私たち人間に、うつくしいという言葉と、それを受け取る知覚と感性を与え、それらが合致したときに、ネガティブなものではけっしてなく、幸福により近い何かがあふれ出るような設定をあらかじめ行った。そうでなくてはおかしいとすら、千津留は今思うのだ。こんな完璧が、自然にできあがるはずがない、と。 ・暗い聖堂からおもてに出ると、一瞬視界がまっしろく染め上げられて、祝福を受けたような錯覚を千津留は抱く。信じたい、という強烈な思いが唐突にわき上がる。神さまを信じたい、いや、この神さまじゃなくてもいい、迷いなく疑いなく当然のごとく信じられるものが、私にもあればいいのに。そのためなら何日だって、嵐だって暴風だって歩き続けられて、世界のうつくしさに涙できて、すれ違う牛でも大でも奇跡だと思えて、歓喜の丘で歓喜を味わえて、広場に足を踏み入れたとき盛大に泣けて、門をくぐって罪を許してもらえて、ヤコブ像に真剣に願うことができて、光の洪水は祝福だと思えて、今こうしているより何万倍も幸福を噛みしめられるだろう。信じてさえいれば、それらすべてが手に入るのに。今度は歩いてこられますように、という願いは、その正体は、これなのかもしれないと千津留は妙に納得する。 ・たしかに昨今は、不倫がばれた芸能人は極悪人のような言われようだし、それで職を失う人もあるのではないかと思うほどだ。 今だったら許されないし、チェちゃんだってかんたんには承知しなかっただろうし、マサマサは仕事も顔もさらされて社会制裁を受けていたかもねと、五年前に会った曜子は言ったのだった。 だれに言われたか、今の今まで忘れていたが、雅志はときおりその言葉を思い出すことがあった。今だったらあんたのしたことは許されない。だれに言われたか思い出せないから、なんだか天啓のように思うこともあった。神さまは信じていないから、その天啓を下すのは時代であると雅志には思えた。時代が許したり許さなかったりする。あのときは時代に許された。今なら時代は許さない。 曜子だったか。胸の内でくり返し、缶チューハイの残りを飲み干して雅志は風呂を沸かしにい く。 ・「こうなったのは残念だけど」とここでも言い、「でもあの旅行にいけたことはすごくよかったと思う。あのとき私は空っぽになるみたいな体験をして、あれが人生の目的になった」とおだやかに話した。「あんなふうに軽やかに、自分の中身を空にして過ごせたらどんなにいいかと、あのときからずっと思ってる。あれは本当にいい旅だった、少なくとも私にとっては」と言って雅志に笑いかけた。雅志はそれを聞いて、自分たちは決定的に違う、そもそも相容れない人間だったのだと思った。自分の中身を空にして生きるなんて、雅志には薄気味悪いとしか思えなかった。 修行僧や修験者じゃあるまいし。そしてなぜダンスインストラクターに惹かれているのかもわかった。彼女はチェちゃんと対極だった。自分が空にならないよう、手当たり次第に取り入れて満タンにしようとしている。生きるって、でもそういうことじゃないか。つねに満タンにして、それをエネルギーにして進んでいくものなんじゃないのか。自分もつまりはそちら側の人間なのだと思った。 ・だれか親密な関係の人がいたらいいと夢想することもある。しかし親密になろうとして失敗したと感じる体験ばかりだから、自分の思う親密な他人というのは架空の何かなのだろうとも思っている。人間の言葉で会話できる犬とか、食べただけで外国語が話せるようになる木の実とか、そんなふうなもの。そして縁を切りたいという強い感情以外で、どのように他人とつきあうのかを、鶴子はもうほとんど忘れかけている。 ・もう放っておきましょうよと鶴子は言いたかった。何かの犯罪を犯しやしないかとひやひやしているけれども、あの子が出ていって私はようやく安眠できるんですよ、それにたぶらかされたと言うけれど、おたくの娘だって高校をやめて、死ぬ死ぬ詐欺みたいなことを言っているんだから、よくできたお嬢さんというわけではないでしょう、出ていってよかった、自立してくれたんだと思いましょうよ、二人でなんとか生き抜いてくれと祈りましょうよ、それで私たちは私たちの人生をこれから生きていきましょうよと、泣く母親の手を取って言いたかった。 しかし言わなかった。よくできたお嬢さんというわけではない娘を、それでも見放さず、憎まず疎まず、愛しているらしい父と母を間近に見て、鶴子は自分がおかしいのだと知ったのだった。尚登がおかしいというより先に、自分がおかしいのだ。母親失格だったのだ。直久も父親失格に違いなく、そんな夫婦のところに生まれた尚登のほうが気の毒だった。 そう気づいてみても、いきなり尚登を愛することができるかというとそれはまた別だった。尚登が出ていって二年が過ぎ、尚登が関与しているらしい事件も犯罪も報道されず、警察からも消費者金融からも連絡がないとなると、いきなり鶴子は人生が開けたような気分になり、それまで開いたままにしていた壁の穴、ガラスの割れたままにしていた食器棚、荒れすさんだままにしていた尚登の部屋、家のなかすべてを修繕し、片づけ、住みよくした。会社の人に誘われれば飲みにいき、ひとりで映画も見にいったし外食もした。 そうだ、あのとき、長いあいだ帰省していなかった実家にいったのだと、新幹線のなかで鶴子はふいに気づく。新幹線と在来線を乗り継いで。尚登が高校生のとき父親が亡くなったが、離婚や尚登の起こす問題で日々まったく余裕のなかった鶴子は、香典だけ送って葬儀にも出なかった。 父亡きあとはひとりで暮らしていた母を訪ねて、いっしょに鮨を食べにいった。尚登がいなくなって音不通だと、母に言えなかったことも鶴子は思い出す。元気だよ、就職難だからずっとアルバイトしてる、などとてきとうに言ったのだった。 出ていったときと同様、尚登がふらりと帰ってきたとき、世界が閉じるのを鶴子は感じた。絶望に追いつかれたと思った。女の子との関係は終わったらしく、恋人がいる気配はなかった。その女の子を心からうらやましく思っていることに気づき、自分に嫌悪を感じたが、しかしうらやましいものはうらやましかった。他人なら、縁が切れるのだ。直久と私みたいに。 ・尚登はそれから高校生とかわらない生活を送っている。ゲームをし、鶴子の渡す金額では足りなくなると現金をさがし、おなかがすけば冷蔵庫をあさり、おもしろくないことがあれば壁に穴を開けガラス戸を割り、ふらりと出ていっては帰らず、二度と帰ってくるなという鶴子の願いと裏腹に帰ってくる。消費者金融に借金があることがわかり、鶴子が返済しているが、犯罪は、鶴子の知るかぎりは犯していない。 暴力を振るわれるわけではないし、壁に穴が開いてもガラス戸が割れても家そのものが破壊されるわけではない。それでも鶴子は、絶望がつねに家に居座っているという感覚から逃れられない。自分の子を、そんなふうにしか思えないことに、もう罪悪感も抱かない。同様に、そんなふうにしか育てられなかったと反省することもしない。 あの子がいなければ、友だちを失うこともなかったし、離婚もしなかったはずだ。両親と疎遠になることもなかった。闘病していた父に会いにいけただろうし、ひとり暮らしになった母にはもっと頻繁に会いにいけただろう。稼いだお金は好きなように使え、ブランドもののバッグや靴も買えただろうし、旅行にだっていけただろう。家はもっとすてきにリフォームできたし、食器だって好きなものを買いそろえただろう。思い浮かべる夢のようなあれやこれやは、すべて、尚登が居座っている部屋に吸いこまれて消えていくように鶴子には感じられた。 ・さまざまな声が浮かんではあらたな声がそれらを覆い、境内のにぎやかさが自分の脳内に入りこんでくるような錯覚を味わう。すべての声を追い払うように頭を軽く振り、鶴子はすぐわきに絵馬掛け所があるのに気づいた。ずらり並ぶ絵馬のうち、いくつかは文字の書かれた裏側がこちらを向いている。読むつもりもないのに文字が意味を持って飛びこんでくる。達筆な字で、丸文字で、判読不明の文字で、それぞれの事情と縁切りしたい相手が短く書かれている。ふざけたり、茶化したり、いいかげんに書かれたものはひとつもない。一枚ずつに強い願いがあり、その一枚ずつに、鶴子が感じるのとひとしい重量の絶望がある。 冬のあかるい日差し、笑い声、歓声、海外からの観光客、写真や動画を撮る人たち、目の前に広がるあかるさとまったく相容れない、深く暗い空洞が、地面のすぐ裏に広がっているように鶴子には思えた。この日差しも歓声も、一瞬にしてのみこみ無にしてしまう暗い洞。その深く暗い洞の上で私たちは移動し、生活を営んでいる。氷河にできるクレバスのように、私たちの日常生活のそとことに裂け目があり、そとから洞穴は暗闇を覗かせていて、幸運にも、まったく気づかず、裂け目に足を取られることなく歩いていく人もいれば、気づいてしまって恐怖に立ちすくむ人もいる。気づいたときには足を踏み入れていて、深く深く落ちていく人もいる。私たちはそういう場所で暮らしているのだと、はじめて得た真実のように鶴子は思う。
はみ@mamimumemochimochi2026年2月22日読み終わった借りてきた何を信じるも自由だし、何かが起きたときに神さまのおかげだと思い込むのも自由。世界にはたくさんの神さまが信仰されているらしい。
榛原@haibara2026年1月13日読み終わった様々な理由で世界各地の神様を参る人たちの短編集。 村田沙耶香の「信仰」にもあったが、同じ時代を生きる日本人として「信仰を持ってみたい」と切実に願う話は興味深かった。 角田光代なので読みにくさは一つもなく、短編集特有の疲れもなく読めた。最後の「絶望退治」が重たくてとても良かったし少し泣いてしまって読後の余韻も長かったので最後でよかった。 去年、遠藤周作の「深い河」を生徒と読み終えたばかりだったので、「聖なる濁った川」はそれとの相違点もとても面白かった。 様々なリアルな描写の中で、いわゆる神秘体験のカケラのようなものも、同じようにリアルに感じさせる筆が素晴らしい。
たご@clan_19672025年12月29日読み終わった神さまを信じている人たちの物語かと思ったらちがった。特段信じているわけではないけれど、切実に祈りたい何か、叶えてほしい何かがあって神さまを信じようとしている人たちの話だった。 信じられるものがあること、信じること、そして祈ることで自分はきっと報われるのだと心から思えること。それが何よりの救いであり、そのためにこそ、神さまは存在しているのではないか。



おとみ@otomi03082025年12月23日読み終わった秘密にしている願いを叶えてもらうために国内外の神様を訪ねるという短編集。 普段そこまで神頼みしているわけではないけど、私も悩んだら神様に頼りたくなってしまうのかな。 話に出てくる海外のマニアックな神様がなかなか興味深くて、実際行くことはないだろうから、行った気分になれたのがよかった。
そば@COBA2025年12月21日読み終わった角田さんの旅エッセイで読んだエピソードがたくさん含まれていて、実体験と創作の入り混じった小説なのだろうな、と不思議な感覚のまま読み終えた。「聖なる濁った川」が一番好き。 パパイヤ。


ロッタ@rotta_yomu2025年11月27日読み終わったやっぱりいい。とてもいい〜〜〜。 角田光代だけが触れられる場所ってたしかにある。「信じる」ことをテーマにした短編集。スリランカ、ミャンマー、香港、インド、モンゴル、フランス、京都。彼女たちは神さまに会いにいく。彼女たちは祈る。 どうか、どうかお願いします。 今より、ほんの少しでいい、しあわせになれますように。神さまがいるかどうかなんて、わからない。願いが本当に叶うかどうかだって、わからない。それでも祈る。神さまにお願いをする。その瞬間だけ、「大丈夫だ」と信じられる。実際には何も変わっていない。きっと、これからも変わらない。そんなことはわかっている。 それでも祈り、信じた気持ちは彼女たちの力になる。明日には消えてしまうような気持ちだとしても、「昨日までとは違う今日なんだ」と思わせてくれる、その小さな心の揺らぎを、角田光代は言葉にして掬い上げる。わたしには、彼女たちの気持ちがわかるのだ。とても、よくわかるのだ。




Michika@0610shun2025年11月8日読み終わった借りてきた葛藤を抱えた女性たちが それぞれの願いを叶えに神さまを訪ねていくけど 結局は神頼みや人頼みでは 何事も解決しない印象だった。 でも祈ることも否定したくはないとも思っていて、 思いを受け止めてくれる場所があると 実感できることが大切だったのかな。 聖地に赴き神頼みするだけで安心するのではなく、 祈ることで自分に向き合い、 主体的に生きようとする姿勢が感じられてよかった。









reina@dawn_392025年11月1日読み終わった装丁とタイトルに惹かれて購入。 単行本はなるべく文庫になるまで買わない主義だけど買ってしまった... 明確なハッピーエンドがあるわけではないけど、それがとてもリアルで、色々な想いを抱えながら生きていくしかないのだよな、と思った。 p47 ・しあわせであることと、しあわせだと感じることは、まったく無関係だと知っている。 だって、しあわせになりますようにと必死で願ったのは、そのときしあわせだと感じていなかったからではないか。でも今、あの二十代の女はなんとしあわせだったのだろうと思わずにはいられない p60 ・三年多く生きたからといって、(中略)自分はそれで満足なのだろうか。三年、今と同じように、朝起きて会社にいってごはんを食べて、ときどき友だちと旅行して、面倒くささを極力排除して、そんなことをこの先三年間続けたい、それが、生きたいという気持ちなのだろうか p164 ・あまりに忙しく、その多忙さは充実感となり、充実感は人生をみずからハンドリングしている錯覚となった



ホ@miyuki-7852025年10月30日気になる有名旅系YouTuberのスーツさんが「悟った」とか「スピ」だと言われていることは、ここ数日のトピックだ。 旅系YouTuber。西園寺くんが好きで、数年前から時々見ている。そのためスーツさんも上がってきて、何個か見た。嫌いではないけれど、なんだか少し疲れるので見るのをやめた。楽しそうにワッキャワッキャやっている鉄オタボーイと違い、スーツさんは有意義な感じ。 テクノロジーが行き渡り、余白のなくなった世界では、人はよりスピリチュアルに向かうのか。戦争も終わらないし、パワーが席捲しているし、今はまるで古代のようだ。 小説家は普通の人より時代の感覚を強く掴むから、この作品読んでみたい。














































