バーナード氏 "パプリカ" 2025年4月11日

パプリカ
パプリカ
筒井康隆
もともと映画ファン。 原作は確かに面白かった。後半の副理事長乾精次郎vsパプリカの大戦争は圧巻だった。乾が古今東西様々な悪魔や邪神に夢のなかで変身して、現実世界に侵入する。周りには不気味な日本人形。空間は夢の主導権を持つ者によって、何度も変わる。こういう場面を読むだけでも、充分すぎる読了感を得られた。 ただ、どうしても許せなかったのは、千葉敦子/パプリカ共に、セクハラ親父が鼻血を出して喜びそうなほど男に都合の良い女になっていることだ。本命の時田に胸をあて、小山内にレイプされてもそれを受け入れ、粉川には夢のなかで身体を許し、能勢には頼れるおじちゃんとしてキスをする。そして時田、粉川、能勢、島寅太郎と夢のなかで同衾する(ちなみに全員地位のある男だ)。 さらにノーベル賞の受賞式に出席するための飛行機に乗る前。新聞記者の松兼は空港で (引用) 「ご無事でお帰りください」松兼は夢の情動失禁に捉えられたままらしく、涙を浮かべて言う。「つまりぼくもやっぱりあなたを愛していて、切実に、切実に愛していて。だからほら、これをご覧ください。ズボンを突き破りそうに固く、固くなって」 「ああ。松兼さん」敦子は松兼と情熱的に接吻する。 さすがに吹き出してしまった。これをよく女性誌に発表しようと思ったものだ。 思えばこの小説はミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)に満ちている。 敵役乾精次郎は、小山内と同性愛関係にあり、女性を強烈に嫌悪している。男社会、つまりホモソーシャルにおいて、同性愛は禁止される。なぜなら自分が性の対象にされることとは、「女性化」されてしまうことと同義だからだ。しかし、乾と小山内は明確な主従関係にあるから、乾は小山内によって女性化される心配がない(おまけにこの小山内が美青年ときた)。だから安心して乾は小山内を犯せる。なんと醜悪で理想的なホモソーシャルだろう。 ホモソーシャルとトロフィーワイフがなぜこの小説の素地としてあるのか、私は理解に苦しむ。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved