
ケイ
@flyingkei
2026年10月9日
二月のつぎに七月が
堀江敏幸
読んでる
468〜582ページ
いちば食堂とそこを訪れる人々の上に時が流れる。いちど雨宿りで立ち寄った母子が再訪する。常連の茅野さんは間もなく3人目の父となる。山野さんは恋人にプロポーズする。これら言わば人生の真ん中で起伏や幸福を経験している人々の隣で、丕出子さんも阿見さんも「人生」の王道に足を踏み入れていないような、目を逸らし通り過ぎてしまったような、そんな立ち位置に佇んでいる。
眠けに襲われたり降りる駅を間違えたり、自らの老いを意識し始めた阿見さんは、時間の認識が曖昧になることに危惧を抱くが、丕出子さんも同様に意識を「神隠しのように」なくす時間があると聞いて安堵も覚える。時はいつでも「現在」しかない、光の箭のような「現在」が身体を、胸を貫いて通り過ぎ続けているだけという認識は、時間の前後が見失われることの正当な理由ともなる。今のことと数十年前のことが切れ目なく目の前に浮かび上がるのは、阿見さんにとっては過去の一場面も「現在」として鮮度を保って胸の中に残っているものだからだ。
けれど、光の箭たる「現在」が、目の前の現実的な「現在」が次々と身体を持ち貫いていく中で、時が通り過ぎるに任せるのではなく、それらを降り積もらせ、通り過ぎた過去の箭を拾い上げて目の前にかざすことは、やはり老いの行為ではないだろうか。起伏のとば口でそこに踏み込むことをためらっている丕出子さんと、すべての起伏と幸福をすでに手に入れ損なった過去のものと見ている阿見さんでは、やはり人生との、時との位置関係は異なっているのだ。
