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2026年8月8日
「恥」に操られる私たち
キャシー・オニール,
西田美緒子
読み終わった
著者がデータサイエンティストだからなのか、「“恥”を利用したビジネス」の事例を数多く紹介し、現代社会に「シェイム・マシン」が蔓延していることを示す。そして、その対処法として「すべての人々が信頼と尊厳をもって受け入れられるように熱い議論を繰り広げること」を提案する。
しかし、私が知りたかったのは、恥を利用したビジネスの事例そのものよりも、そもそも「シェイム・マシン」がどのように作られ、人の行動を変えるのかというメカニズムだった。
誰が、どのような意図や条件のもとで恥を生み出し、それがどのように人を操る力を持つのか。そうした説明が乏しいため、現代のメディア論やSNS批判で見慣れた事例の列挙にとどまっている印象があり、冗長さを感じた。
また、著者が「恥」を広く捉えすぎているように感じる箇所もあった。
たとえば、マスクを着用しないことを恥ずべき行為だと思わせるのは、行動を促すための有効な手段だという議論。
これは、単に恥を利用した操作として扱ってよいのだろうか。公衆衛生上の問題について、他者への影響や社会的責任を問いかけることまで、恥を利用した操作と同じ枠組みで捉えてしまえば、正当な問題提起との区別が曖昧になる。
自身の肥満を改善するため、暑い屋外で自転車を漕ぐトレーニングを続けるのが辛くなり、胃を小さくする手術を受けようとしたものの、糖尿病ではないため保険適用をめぐる交渉に苦労した。
著者は、この保険会社とのやりとりを、フードスタンプや生活保護を申請する人々が直面する行政手続き上の障壁や恥辱になぞらえている。
しかし、この類比には違和感があった。
そもそも、糖尿病ではない著者が、糖尿病の治療にも用いられる手術を肥満の改善のために受けようとし、その費用について保険適用を求めた経験と、生活を維持するために公的支援を必要とする人々が、申請手続きの中で障壁や恥辱に直面する経験とは、同じ問題として括れるのだろうか。
私は、前者については、希望する治療に保険が適用されるかどうかをめぐる問題として捉えるべきだと考える。保険会社とのやりとりが煩雑だったとしても、それだけで生活保護などの申請者が直面する困難と同列に扱えるわけではない。
著者自身が経験した不便や不満を、社会的に弱い立場に置かれた人々が経験する制度的な障壁や恥辱と結びつけることには、慎重であるべきだろう。
自分が望む治療を受けるための交渉で生じた不満を、生活を維持するために公的支援を必要とする人々の経験と重ねることは、両者の置かれた状況の違いを見えにくくする。
恥が人を制御する仕組みを論じるのであれば、異なる立場の人々が直面する困難を、単に「恥」という共通項だけで結びつけるのではなく、それぞれの制度的・社会的背景を区別して論じる必要があるのではないか。