
ケイ
@flyingkei
2026年10月13日
二月のつぎに七月が
堀江敏幸
読み終わった
読了しました。以下感想はブクログにも投稿済み。
過去から未来へと続く道程の、様々な節目に佇む人びとがゆるく交わる交差点のような「いちば食堂」。市場に隣接したこの食堂を舞台に、そこで働く人や食事をしに来る人、そして彼らが語り回想するそれぞれの身内や過去の近親者の物語がふわりふわりと繰り広げられる。
リアルなお金をめぐる事件から恋のエピソード、他愛もない世間話や雑談も、人生の節目となる出来事も、700ページ超の大部に収められた物語は、いずれも語る者の目を通すことで薄い膜の向こう側の出来事のような距離感を持ち、同時に、かぎ括弧を使わず語り手が語るその語り口と目線の温かさゆえに手触りのあるぬくもりも持っている。
遠く、そしてぬくもりのあるそれらの物語、人生の道程の一瞬を切り取るモノクロ写真のような情景は、シャボン玉に映る景色のようだ。若くして亡くなった父の遺品である『アミエルの日記』を読んでは手帳に抜き書きし続けているいちば食堂の常連・阿見さんは、本作の終盤で、自らの人生をシャボン玉のようだと評する。膜の内に空を包み、風に吹かれ、壊れることを怖れてそこからはみ出さず、けれどいつかは壊れて消える。そのイメージはともすれば暗く後ろ向きな印象になりそうだが、阿見さんの到達した心境には諦念こそあれ後悔や恐怖は感じられない。
人間の身体が入り口と出口を持つ一本の管から成るように、人生も一つの管である。入り口から出口までの道のりの中で、何を取り込み、何を捨て去るのか。空っぽな過去から空っぽな未来へ、人生を素通りしてきたという苦い思いにも、しかし、空っぽであろうとする強靭な意志があり、そこには一種の矜持がある。空を包むシャボン玉として、人生の王道を外れ「通り過ぎる人」、傍観者として生きる。生き抜く。それもまた、自らが望んで背負った運命であり、生き方の一つなのだ。
自分がただ自分でいられる居場所、心の停泊地を見つけること。かつてそうだった場所を回想し、心の中に大切に持ち続けること。いつかなくなるこの場所を、いま、大切に慈しむこと。本作では、そうした場所をめぐる思いが、ごく自然に、人をめぐる思いに繋がっている。先立った人たち、未来に顔を向ける若者たち、そして立ち止まっている人たち、それぞれがふわりふわりと飛ばしてゆく過去や未来のシャボン玉が、いちば食堂の中に割れることなく漂い、時の渦の中を静かに昇っていく。何とも言えない寂しさと、その寂しさごと包みこむ繭のような優しいぬくもりが感じられる、とてもささやかで壮大な作品だった。


