みーる "中動態の世界" 2026年10月12日

みーる
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@Lt0616pv
2026年10月12日
中動態の世界
中動態の世界
國分功一郎
度肝を抜かれるほど面白かった1冊だった。國分さんの熱量がひしひしと伝わってきた。出てくる言葉や説明は難解な部分も多く、全てを理解できたとは思わないが、全てを理解しようと食い入るように読んだ。 そもそも、中動態とは何なのか。この本と出会うきっかけとなったのは、前に読んでいた「国語と出会い直す」という教育書だ。そこから興味を持ちYouTubeで何本か動画を見た限り、中動態とは、「能動と受動だけではこの世を捉え切ることはできない。それなのにこの世界では当たり前のように能動と受動の関係性が根付いている。能動でも受動でもない、態、それが中動態」と説明されていた。本著では、中動態を論じるにあたり、「意志」や「責任」、「自由」や「権力」などの概念を丁寧に丁寧に、それはもう本当に丁寧すぎるくらい丁寧に向き合い、論じていた。その熱量の高さには驚かされた。哲学者の思想を引用しつつ、國分さんの考えもきっちりと書かれており、論の組み立て方も非常に上手い。わからなくなりそうなところでわかりやすい説明をしてくれる。そして、副題が秀逸だ。「意志と責任の考古学」。意思と責任の「観点から」でも良さそうなところ「考古学」と題している。読めばわかるが、本当にこれは「考古学」としか表現できない。歴史的な流れを忠実に踏まえながら、慎重に論が進められていく。 本著の大まかな流れとして、「する」(能動)「される」(受動)の関係から導き出される問題として、「意志」と「責任」のねじれが挙げられる。例えば犯罪を犯した者がいたとして、「意志」があったかどうかは、その人物が「責任」を負うべきかどうか判断する際、密接に関わる。しかし、「無理やりそうさせられた」場合や「そんなつもりはなかった」場合など、「する」側だが、実は「される」側であるときも多々ある。どうしても「する」「される」の対立だとうまく解決できない問題が多い。そこで出てくる考え方が「中動態」。そして、「中動態」と密接に関わるのが「意志」と「責任」であるため、そこを詳しく論じようという流れである。 以下、いくつか印象的だった部分をピックアップしよう。 まずは、言語学的には「能動」⇄「受動」の前に「能動」⇄「中動」であり、「受動」は「中動」の派生であるということ。「中動態」の考え方として、(「能動」との対立において)「能動態」は動詞は主語から出発して、主語の「外」で完遂する過程。対して「中動態」は動詞が主語の「内」にその座となる過程。と説明している。つまり、主語が過程の「外」か「内」にあるかが問題であるそうだ。中動態の動詞として挙げられていたのは、「生まれる」や「死ぬ」「寝ている」など、確かに主語が主語の内部に留まる動詞であり、言い方を変えれば「生まれる」は受動態のニュアンスもある。「寝ている」も(何かの器官や状況によって「寝させられている」と考えることもできる。そういう意味では、「受動態」は「中動態」の派生であることも頷ける。 この後、「中動態」の特徴として「自動詞、受動、再帰性」が挙げられていた。 第5章の「意志と選択」では、「意志」は過去は断ち切る行為であり、元来そんなことは起こり得ないと述べていた。「りんごを食べる」行為は、過去のどこかでその決断(りんごを食べる)につながる何かがあるわけだ。(美味しそうなりんごを見たとか、りんごを食べたことがあるとか)。それ故に、「意志」のような、過去を切断し、自然と表れるものなど存在せず、単にそういった「選択」をしたに過ぎないと述べられていた。考えてみれば当たり前だが、複雑に絡まり合った過去から導き出された「選択」の連続にも関わらず、「意志」という言葉で一括りにされてしまう。「能動」⇄「受動」の世界に生きると確かに、複雑な背景は単純化され処理されてしまいがちである。 →「意志」についての哲学書を読みたくなった。哲学は「意志」を否定している風潮が強いように思えたが実際はどうなのか気になった。「選択」の中にも「意志」のかけらのようなものはあるとは思う。(これはこの後、論じられていたが)ただ、人は何か明確に意志を持って「選択」をしているときの方が少ない気がする。「無意識」まではいかないが、様々な要因によってその「選択」が導き出されているというか。だからあなたの「意志」でしょうというのはあまりにも冷たい気がする。「意志」と聞くとその人が1から100まで「責任」を負うようなそんな見えない壁のような突き放し方が頭に浮かぶ。「意志」を中心に話しすぎるのも良くない気がした。 第8章の「中動態と自由の哲学ースピノザ」では、外部刺激によって内部が変状するプロセスが「中動態」であるというスピノザの考え方が述べられていた。スピノザは感情を「何か外的な要因があり、そこから生まれる内的な変容は人によって違う」と定義していた。それが「本質」であり、その「本質」のグラデーションで「能動」か「受動」かが決まる。「能動」⇄「受動」は矢印のような関係ではなく、質的なものだとスピノザは言う。カツアゲの問題(やりたくないのにやらされるのは「能動」なのか「受動」なのか)もこれで説明がいく。行為を「やった」「やられた」の矢印で捉えるのではなく、行為者の「本質」を考えれば、カツアゲ問題ない限りなく受動に近いと考えられる。が、受動と決めつけるわけではなくあくまでも度合いの話。 →なんだか、スピノザの考え方はバランスが取れていてとても腑に落ちた。考えてみればまぁそりゃそうかって感じなんだけど、二者択一で考えがちな問題を「度合い」で考えるスピノザの思考は参考になった。  文庫本の追加コンテンツである「責任と帰責性」がとんでもなく面白かった。 「責任」とは本来、ネガティブな意味ではなく、英語ではレスポンシビリティ、つまり「反応」であり、小さい子に手を差し伸べる。困っていたら声をかけるなど他者に反応する行為こそが「責任の本質」だと述べている。しかし、「能動」⇄「受動」の世界において、「責任」は「負うもの、負わされるもの」として位置付けられがちである。現代の法では、「意志」の有無を前提に話が進むため、「意志があって殺人をした」ならば「責任を取るべき」そうでないなら「責任の所在は曖昧になる」。そうして、「意志によって根拠づけられる責任」を國分は「堕落した責任」と呼んでいる。それは責任の「帰責性」によるものであり、つまり責任のあり方は誰なのかをはっきりさせたい人間的な感情からきている。確かに、自分が被害者ならば加害者に「責任」を負ってほしいと願うだろう。「意志」有無も当然重要だ。しかし、帰責性の「責任」と本来の意味の「責任」はしっかりと区別しないといけない「帰責性」は必ずしも「責任」を伴わないと國分さんは言う。誰かに責任を負わせても(能動的)それは心から出てきた反省ではなく、「反省させた」という「受動的な」応答である。つまり、能動⇄受動の関係性では、本来の「責任」=心から湧き出る「反応」に辿り着けないと國分は言う。だからこそ、「意志」と言った個人まかせのものに縋るのではなく、全員で「なぜそうしたか」ではなく「どうやってそうしたのか」と事実ベースで考えることが、結果として自らの「責任」と向き合うことにつながると結論づけている。 →この「責任」と「帰責性」についてはYouTubeで國分さんが話をされているのを聞いたことがあった。「責任」=「反応」という考え方がとても印象的で納得。「帰責性」も必要な考え方で、それがないと救わない人も多く出てくるだろうし、自分が当事者になったら「責任の所在」と「意志」ははっきりさせたいときっと思う。でも、最初から「能動」⇄「受動」で考えるのではなくて、その「意志」に至るまで何があったのかは一緒に考えたいと思った。進路指導でも「あなたが選んだ進路だから」と自己責任論にしがちであるが、「責任」は負わせるものではない。相手の中に留めるものではなくて、「反応」して共に考えることだと改めて思った。YouTubeで國分さんが「自分のことは自分一人では考えない。みんなで考える。」とおっしゃっていた。本当にその通りだと思うし、優しい考え方だなと心が温かくなった。 まさかここにきて、「中動態」という新たな考え方を知るとは思わなかった。2026年の個人的流行語大賞受賞は間違いない。この先の人生にも大きな影響を与えてくれそうな一冊。それにしても國分さんの頭脳はどうなっているのか…
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