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みーる
@Lt0616pv
  • 2026年4月25日
    僕は白と黒の間で生きている。
    1番センター近本。 当たり前のように毎試合聞こえてくるその名前。阪神タイガース不動のリードオフマン。入団からスランプらしいスランプはなく、一定して高水準の成績を残している。阪神ファンからすれば最も信頼のおける選手の1人である。 大体のスポーツ選手の著作は「あの打席の裏側」や「野球に活かすためのメンタル」など野球中心視点で描かれる。スポーツ選手なのでそのフィールドのことを書くのは当たり前なのだが、本作は少し違う。あくまで野球は材料に過ぎず、「考えること」がテーマとして据えられていた。前々から、野球は長く続けない旨を匂わしてた近本。野球そのものよりも考えるプロセスが何より楽しいというその姿は野球以外のフィールドでも成功を収めていたに違いない。 本作で1番心に残ったのは「揺らぎ」という考え方。問題が発生したとき、目を背けるか解決するかの白黒2択で考えてしまいがちであるが、問題を一旦保留し、「揺らぎ」をつくる。わからない、できないからこそ「揺らぎ」が生まれる。それが力になる。教室に入り生徒に話すとき、9年目でも不安がある。毎日毎日、信頼関係がなくなったらどうしようと不安のなか生きている。そうした状況こそ「揺らぎ」であり、だからこそ話す言葉を考える。不安はネガティブなものではなく、成長するためのエネルギーになりうる。不安だから行動する。不安だから考える。不安やわからなさは幸せに生きるための重要な要素だと思う。 だから、「このパターンはこうだ」と型に固執するのではなく、「わからない」状態で存り続けることが大切なのだと感じた。ましてや相手は人。その中でも子供だ。経験則に縛られず、パターンを作らず、「わからない」の中を楽しんで生きようと思えた。 近本自身も嫌いだったコーヒーに楽しさを見出し、「チカブレンド」を開発するまでに至った。 一見、興味のないものにこそおもしろさが隠れているのかもしれない。少しオープンに世の中と接してみようと思う。 そして、近本の抱える矛盾。野球選手でありながら目立つのが嫌い。野球選手らしさというものはあるが、そうじゃない野球選手がいてもいいのではないか。近本は野球選手である前に近本光司という人間としてどう在りたいかで生きているように思える。それが本当にかっこいい。選手としてもそうだが、人間としても尊敬できるところが多い。ひとつ年上とは到底思えない。 近本の今後がとても楽しみな一冊となった。これからも阪神を支えてもらいたいし、野球選手を引退しても社会に貢献する姿を見せてほしい。それにしても、この本を読んだ次の日に死球で負傷交代…大丈夫かな…
  • 2026年4月19日
    暁星
    暁星
    事件に至るまでの人間の機微を丁寧に描く展開は湊かなえの得意な手法。 宗教が絡み出すと途端に物語が重くなりがちだが、本作も違わずかなり重苦しいまま進んでいく。読み進めると何か既視感がある気がしていたが、おそらく「汝、星の如く」の2人に暁と星賀は似ているのだと思う。毒親ではなく宗教という違いはあるが、それは本質的には違わないものであるように思う。暁も星賀も「手持ちのカード」がない。宗教の恐ろしいところは判断力を鈍らせてあたかもその道しかないように思わせることだ。そんな親が子供に与える影響はとてつもなく大きい。実際、「星賀、逃げ出すの遅くないか?」とか思ってしまった。当の本人はそういう状況を客観視できなくなるのだろう。2人とも父親が亡くなっていたり病に伏していたりと母親の方が強い影響力を持っていた。不思議なことに2人の母親のどちらも幸せそうには思えない。金や地位の亡者となっていた。さらに恐ろしいのは、物語終盤で清原(清水)も偽物だと判明したことだ。暁と星賀の中では清原こそ恨むべき対象だと定め、殺人まで犯してしまった。そんな清原も誰かに操られ捨てられる運命。文部科学大臣刺殺事件は世の中に大きな影響を与えるには間違いないが、結局別の誰かが、その座に取って代わり、愛光教会は発展し続ける…結局2人はその輪廻の中のひとつに過ぎなかったのだ。 後半の「金星」でこの作品の本当のテーマは愛なのだと伝えたかったように思うが、如何せん、暁も星賀もキャラ造形が暗い。自ら進んで何かをしているようには感じられず、ぼんやりと考えぼんやりと生きているように感じた。まるでいつ死んでもいいみたいに。もちろん、宗教2世としての宿命を背負われたのだからそうなるのも当たり前なのだが、それにしても暗い。 フィクションとノンフィクションの両観点から一つの事件を深掘る展開は興味深かったが、かえってわかりづらくなっただけな気もする。「暁星」の終章も「金星」を読んだ後をおすすめするほど大したものではなかった。星賀を救おうとする暁に感情移入しずらく、テーマがぼんやりしてしまった印象を受ける。湊かなえははっきりとした落としどころは用意してくれない。その人物なりの救いで終わる。「自分ではどうすることもできないやるせなさの中にある一縷の望みや希望」を描くのが上手い。果たして2人は救われたのだろうか…
  • 2026年4月2日
    その本はまだルリユールされていない
    今の自分には眩し過ぎる…そんな小説だった。 あまりにハートフルで優しい登場人物。それ故に物語に入り込めなかったのかもしれない。 本の製本を専門に行う「ルリユール工房」の出会いを通して、まふみが自身の過去を受け入れながら未来へ一歩踏み出す。そんな展開を予想していたが、ややズレがあったように感じた。 南魚庵さんや親方、そして由良子、店長の村上さんなどさまざまなキャラクターにスポットライトを当てる展開でその繋がりが「本」だった。 まふみ自身の悩みや葛藤は関わる登場人物に対するものがほとんどで、自分自身に関することは二の次な印象。主人公であるまふみの内面の成長を期待した分、感情移入ができなかった。六法全書をルリユールすることで過去の自分にケジメをつけたのはわかるのだが、そこの描かれ方があまりにも淡白で、「え、それで終わり?」と拍子抜けしてしまった。挙げ句の果てには、村上さんの好きだった本と死別した婚約者が好きだった本の結婚式というなんとも言えないメルヘンな展開で締めくくられる。一体何を見せられているのだろう…とそう感じずにはいられない… おまけに教員のステレオタイプな描き方も気になった。今どきあんな教員いないよ… よかったところを挙げるとするならば、由良子の「相貌失認」という障害で伏線が一気に回収されるところ。誰も予想できない角度からいきなり差してくる。「相貌失認」は初めて聞いたが、確かに人の顔の区別がつかないのは辛い。まふみの司法試験を諦めることよりも由良子が外へ出たことの方が心が動いた。 長編小説ではなく、章ごとに登場人物にスポットライトを当て、ルリユール工房を通して自分の気持ちを綴じていく展開にすればよかったと思う。 タイトルは素敵で思わず口に出したくなるし装丁も綺麗。登場人物に悪い人はいないし読んでいて心温まる小説ではあったが、登場人物に立体感がなくメルヘンな展開で物語との距離が遠のいてしまった。
  • 2026年3月22日
    失われた貌
    失われた貌
    静岡、長野の一人旅道中にてほとんど読み進めることができた。まず感じたことは懐かしさ。 高校生のときに読んでいたミステリー小説のようなド直球の王道ものだった。とんでも展開はなく、帯に書かれているほど賞賛の嵐ではなかったが、本格刑事ものミステリーとしては非常に質が高かった。映画化のイメージがはっきりと湧いてくるようなそんな作品であった。 主人公の日野は地味だが刑事としては優秀で組織に骨を埋める側の人間。要所要所に不器用さが垣間見えるが、娘との接し方や後輩の入江との接し方には優しさとユーモアがあり親しみやすい人物として描かれていた。対照的に、後輩の入江は真っ直ぐな性格で事件を解決したい一心で動く。日野のことを尊敬しているが故に歯がゆい場面もあったように思うが、物語終盤で息が合ってくる。バディものとまではいかないが、入江の存在は物語に推進力を持たせるために必要だったと思う。作中、最もユーモラスでポップに描かれていたのは弁護士の剣菱。持論がたくさんあり、胡散臭さしかないが、どこか憎めない彼は物語の展開においていいスパイスになっていた。彼がいなかったら終始、重苦しい小説だっただろう。羽幌は自分の正義像がはっきりしていた人物。それ故に、警察官として間違いを犯してしまうギリギリのところにいた。真犯人とも言える久美の精神力には恐れ入った。小沼が辻を殺した。しかも、辻加奈と不倫をしていて子供まで妊娠していた。そんな情報を一度に受け、動転するわけでもなく、辻との入れ替わり作戦を提案する。夫を捨てる選択だが、そこに迷いはなかったように思える。久美は夫が失踪したことにより被害者側の立場で描かれていた前半からは想像がつかないほど残酷な決断を下している。子どもである隼人の存在が母親をそうさせたのは自明であり、子供のためならなんだってする母親像が描かれていた。辻(小沼憲)が、久美の供述を受けても自分がやったと言い張るラストシーンは、隼人を人殺しの子どもにさせないため。生まれる前に死んだ存在として罪を被るためだった。本作のテーマの一つに「何を犠牲にしても子どもだけは守ろうとする親」が挙げられるだろう。 確かに、辻が小沼殺しの犯人で捜査を終了しておけば、誰も不幸せにはならなかった。日野もそういうことがわかった上での決断だったのだろう。「警察官としての正しさとは一体なんなのだろうか」それも今作のテーマの一つだと思う。ラストシーンで、「隼人に叩かれた体はもう痛まない」ところから日野の中に、警察官としての自分がやっぱり居て、それに対して苦しんでいるようにも見えた。 物語の展開としては、入れ替わり説は血液型の話あたりから気づいていたから、真新しさや驚きはそこまでではなかった。しかし、聞き込みを中心に話を聞いていく刑事の基本的な手法を丁寧に行い、細やかなズレを伏線とし、綺麗にはめ込んだ素晴らしい作品であった。伏線回収だけならもっと緻密な作品はいくらでもあるが、解決の先に、考えさせられるテーマを突きつけてくるあたりミステリーだけに振ってない、バランスの取れた作品であったといえる。
  • 2026年3月17日
    PRIZE-プライズー
    ほぼ1日でスムーズに読むことができた。直木賞の受賞に取り憑かれたかのような狂気じみた天羽カインの他者への関わり方は乱暴で自己中心的。こんな人と日常的に関わると息が詰まるだろうなぁと。同時にそれほどまでに1つの目標に向けて突き進むことができるそのエネルギーに羨ましさも感じた。かっこいいなぁとさえ思えた瞬間が何度もあった。 特に、天羽カインの作品に対する姿勢。一切妥協せず、我が子のように大切に大切に世の中に送り出す。作家というものは自分の作品にここまで愛を持って向き合うのかと感心させられた。さらに、その我が子を読む読者や本屋に対する心からのリスペクト。序盤、穏やかなカインが一転して、ペンの太さやらプレゼントの受け取り方やらを編集者に捲し立てる場面。「なにか間違ったこと言ってます?」の一言が強烈だ。間違ったことは何一つとして言っていない。全ては読者のためなのだ。とはいえ…周りの人はしんどいだろうな… 中盤にかけて、千紘とカインが心を通わせていく。距離が近づいていくにつれ、「なんかわからんが危ういぞ…」と不安が募る。千紘の性被害の体験談を小説に落とし込み、その小説が直木賞。しかし、1番近くで助けてくれた千紘を傷つけてしまう。賞よりも身近な人な大切。そんな展開を予想したが外れた。 千紘は編集者として一線を越える。カインに直木賞を獲らせたかったこと以上に千紘自身がカインと同化してしまう陶酔してしまった結果だ。思えば中盤あたりで千紘はカインに気に入られたいという潜在意識が垣間見えていた。独占欲や執着という言葉があったように思う。だった一行でも許さないカイン。直木賞以上に自分の書いた小説が何より大切だというブレない信念。朝井リョウの「インザメガチャーチ」にも類似した展開だと感じた。視野が極端に狭くなった千紘。編集者という立場を超え、千紘という人間として向き合ってしまった。編集者と作家の関係の難しさがリアルに描かれていた。どちらも作品をより良くしたいのは同じ。自分の生んだ子供を大切に思う親とその子供を育てる教師の関係に似ている。教師は親ではない。どれだけ自分が正しいと思っても超えてはいけない一線がある。そのことを改めて思い出させてくれた。 一冊の本が完成するまでに様々な人が締め切りに追われながら、作家と関わり合いながら確認作業を行う。その本が自分の手元に届くまでに書店員が工夫を凝らしてくれている。そのエネルギーを感じ取りながら本と向き合いたいと思った。 それにしても、直木賞の魔力とは何なのだろうか。ニュース速報で出るほど栄誉ある賞。しかし、何がどう優れているかは一握りの有識者(現役の作家)によって決められる。そもそも小説は審査できるものなのか。お酒と同じでどこまでいっても嗜好品の枠を超えないのではないか。ましてや、その善し悪しなど読者の生活体験や価値観が大きく起因するもの。フィギュアスケートの採点もよく分からないが、それ以上に小説の判定基準は曖昧この上ない。でも、だからといって直木賞が不要だとは思わない。一般読者も少なからず盛り上がるし、本への興味の入り口にもなる。受賞すれば否が応でも看板になる直木賞。狙って獲れるものではないことはよくわかった。運やタイミングも大きく左右する。判断基準が他の賞と比較して曖昧。暗闇の中をどこまでも進み続ける勇気と覚悟がいる。そんな状況で「直木賞を受賞したくてたまらない」とその覚悟をオープンにできるカインはやっぱりかっこいい。 もしかしたらありとあらゆる賞レースで最も獲得することが難しいのが直木賞なのかもしれないなと思ったり。 登場人物としては、天羽カインの輪郭がはっきりしており、物語を引っ張る主人公であった一方で、周りのキャラクターの輪郭がややぼやけていたようにも感じる。 もちろん、天羽カインのキャラクターを際立たせるためではあるが、石田も新も「物語の展開上の役割」以上の登場人物としての魅力がない。唯一、千紘はラストの描き方で一気に印象が変わった。最初は、性被害の背景が明らかになった千紘はもう少し深められる余地があったのではないか、ただ天羽カインに魅せられているだけでは?と思っていた。 ただ、「あなたを、許さない」のカードを見た千紘が「この一言が永遠に私だけのものならば許されなくていい」の一言はゾッとした。「あなたを、許さない」は天羽カインはインタビューで救いの兆しがない言葉だ。そのことを知らないにせよ、自分のしたことに罪悪感が無いような一言。編集者としてではなく1人の人間として天羽カインに陶酔していたのだなと。もはや教祖だな。天羽カイン。 村山由佳さんのインタビューを観ているとこの人自身が天羽カインのモデルのように思えてくる…裏では後部座席から蹴り飛ばしているのかな…
  • 2026年3月13日
    熟柿 (角川書店単行本)
    途中から読む手が止まるほど、重く難しいテーマだった。本作のテーマの一つは「一度犯した罪から逃れることはできない」ということだろう。 市木かおりは常に怯えながら生きていた。自分の犯した過ちは決して消えることなく心に留まり続ける。世間は忘れてもどんなタイミングで誰が知るかはわからない恐怖。隠したい過去の一つや二つ、自分にもある。でもそれが露見したとき、生活そのものが一変したり人間そのものを否定されたりするようなものはきっとない。一瞬の判断ミスで一生を棒に振る。改めて運転には気をつけようと思った。 物語序盤。かおりは刑期を終えた後、息子に会いたいがあまり度を超えた行動をしてしまう。 結果、一目見ることも叶わなかった。せめて一目見るくらいいいのではないかと心が苦しくなった。ここで息子には新しい母親がいることも知ってより絶望するかおり。普通なら自暴自棄になってもおかしくはない状況で、一度も会ったことがない息子のために「死んだ母」としてお金を残すために働くことを決意する中盤。母親とは子供のためにそこまでできるのかと心動かされた。 中盤、旅館やパチンコ屋を転々とする中で駆けるように月日が過ぎ去る。書かれていない空白の時間もかおりは懸命に生きていて、仕事をしている。その姿を慮ると胸が苦しくなった。一瞬たりとも心から幸せを感じることはできなかったのではないだろうか。自分の過去がバレないかどうかの不安、息子はどうなっているのかを知ることができないやるせなさ、きっと心の中は濃い霧が立ち込めていてそれでも懸命に生きていたのではないか。そんなかおりにどうか救いがあって欲しいと願ってからの斉藤さんがかおりのお金を盗んだときは本当に絶望した。 しかし、終盤に向かうにつれ本作のもう一つのテーマが浮かび上がる。それは「自分のことを受け止めてくれると思えるような他者との出会い」百崎さんをきっかけに介護の世界へ飛び込んだり土居さんとの出会いだったりと少しずつ信頼できる他者ができていく。久住路さんに手紙を書いたのもそんな人たちとの出会いの中でかおり自身の心が開かれていったからではないだろうか。 クライマックスでは、元夫の姿が描かれる。「誰」の電話主の正体は元夫。ここに驚きはなかったが、元夫も自責の念から逃れたいと何十年も電話をかけ続けた。元夫も同じように苦しんでいたのだなと思うが、やはりかおりに比べたら何をふざけたことを…とも思ってしまう。 息子の拓と出会う?再会?するシーンは圧巻だった。とてつもなくリアルで丁寧な言葉が紡がれていた。第十二章は最近読んだ本の中でも特にのめり込んで読んでしまった。「なぜ離婚したのか」という拓の質問。本当は母親にそばにいてほしかったことが伝わってきた。かおりが離婚するに至った決断も拓のことを思ってのこと。どうすればよかったのだろうか。 「一度捨てた子なのに」という拓の言葉に対して初めて感情的になるかおり。本当にそうなのよ。かおりは拓のために生きてきたのだ。それでも最後はまた「次」につながるような別れだった。かおりの「行きなさい」の言葉に胸を打たれた。この辺りはもう言語化なんてできないほどに印象的なシーンだった。 物語の締め方も素敵だった。土居さんが「熟柿」のもう一つの意味「熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つこと」まさにこれからの拓と土居さんとの未来を表す象徴的なセリフであり、晴子おばさん好きだった熟柿とは違う意味の伏線回収は見事。そして、かおりは自分の過去を言い出せないで終わる。「言えば離れてしまう」というかおりに対して「離れない」「言えるときが来るよ」と受け止める土居さん、本当に素敵だ。自分の内面の話をするのがら苦手な僕にとってかおりが言いたいのに言い出せない気持ちはわかる。 誰かに話したときその人の世界から見た自分の印象が変わってしまうんじゃないかと不安になる。それでも熟柿のように焦らなくてもいい、時が来れば話せるのだと勇気をもらえた。 「きっとそうなると、私は信じられた。」の最後の文。土居さんだけでなく、これからの自分のことも信じることができたのだろう。拓とも少しずつ近づいていくのだろうし、土居さんとも暖かなパートナーであり続けるのだろうと微かな希望が持てる締め方だった。 とてつもなく思いテーマだったが、終盤の描写は圧巻だった。年間のベスト本に入る可能性が大いにある素晴らしい作品だった。
  • 2026年2月25日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    下巻も最高におもしろかった。ロッキーとの出会いからアストロファージを喰うタウメーバを入手。そこからヘイルメアリーの故障やロッキーとの別れ、再び迫る試練。そして、素晴らしい落としどころのラストシーン。全く飽きずに読み進められた。 過去パートでグレースがヘイルメアリーに乗るまでを描くことで、現在パートのグレースの人物像が深まっていた。 特にグレースがヘイルメアリーに乗るまでの流れに驚いた。何かのトラブルがありグレースが志願するんだろうなと思っていたからだ。それどころか、作中どんな状況でもユーモアとポジティブさを失わなかったグレースが「ヘイルメアリーに乗りたくない、死にたくない」とストラットに懇願する。そりゃそうだよなと。死を確約させられる逃れようのない恐怖を目の前にして冷静でいられる人なんていない。そのつもりもなかったのならなおさら。その事実を思い出してもなお、地球のために今できることを頑張るグレースに元気をもらえた。ストラットが手段を選ばないのもわかっていたが地獄に堕ちる決意をしてまでグレースを指名する決断をした。賛否はもちろんあるがストラットにもやはり確固たる信念があり、素敵なキャラクターのひとり。 そのほかにもヘイルメアリー打ち上げに関わる様々なキャラクターは変わり者だが、それぞれの信念を持っていた。 この作品に悪い者は出てこないのも清々しい。 後半、タウメーバがアストロファージを喰べることが判明する。ストラットも「戦争は食糧の奪い合いが本質」と言っていたように、どの生命体でも生きるためには「食べること」は必要不可欠なのだろう。ラストでもタウメーバは食べれるのでは?と灯台下暗し的な展開もあった。 また、タウメーバが窒素に弱いという弱点を免疫の観点から考え、タウメーバを進化させた展開。読み手にも納得感があり、「その手があったか」と驚かされた。常に科学に基づいて推論と実践を繰り返し行う展開のため、今何が問題で何のために何をしているのかが非常にわかりやすい。 ロッキーのキャラクターも素敵だった。異星の生命体だと言うことを忘れてしまいそうなくらいグレースとの息はピッタリ。爆風から身を挺してグレースを守ろうとしたロッキー、そんなロッキーを必死で治療するグレース。別れのシーンで憚らずもグッときてしまった。キセノナイトを克服したタウメーバが船内に漏れ出している場面では、問題を解決したグレースが地球に帰還することを諦めて、ロッキーのことを助けに行くくらい2人の友情は固いものだとわかる。バディものとしての要素はあくまで副次的ではあるが、何もかもが違っても「科学的基盤」を通して 2人の友情がとても丁寧に描かれていた。 登場人物の描き方、物語のテーマ、展開、どれをとっても素晴らしい作品だった。SF はフィクションなだけあって奇抜な設定をしたりスケールを大きくしたりすることもできてしまう。 それが故に広げた風呂敷を畳むことができず、読者の納得感が伴うような展開にもっていけなかったり主人公のキャラクター像が浅くなってしまったりする危険性がある。SFの醍醐味は納得感のある展開と現状を打破するカタルシス、そして愛着の持てるキャラクターにあると思う。本作では、風呂敷を広げておいて、中心的に描かれることはグレース博士の魅力とロッキーとの友情である。途中、「地球はもうどうでもいいや」と思うくらいにはヘイルメアリーの2人の関わりに夢中になる。もちろん当初の目的である「地球を救うためにアストロファージをなんとかする方法を探すこと」からブレてはいない。まさに「サイエンスフィクション」の王道のような小説。科学を基盤とし、ワクワクさせる展開や固有名詞の数々、ヘイルメアリーの世界観に没入させてくれた。 1ヶ月かけてゆっくりと読み進めた。 その甲斐があった素敵な小説であった。 しあわせ、しあわせ、しあわせ
  • 2026年2月10日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    登場人物はほぼグレース博士1人。何もわからないゼロの状況からよくもまあここまで風呂敷を広げたものだと感心する。 アストロファージと呼ばれる高エネルギー物質が太陽のエネルギーを吸収することで地球の温度が低下、何十年後かに人類は滅びる。しかし、タウ・セチと呼ばれる惑星だけはアストロファージの影響を受けていない。その理由を突き止め地球を救うためにプロジェクトヘイルメアリーに乗って宇宙を探索する話。 設定もわかりやすく、アストロファージやタウ・セチなどSFらしいワクワクさせる要素も数多い。 登場人物のグレース博士は科学教師だった。宇宙に1人(そのうちクルーは2人とも死んでいる)でも科学の力を使って現状を打開していく。この状況下でもどこか楽しそうなグレース博士を見ているとページを捲る手が止まらない。プロジェクトヘイルメアリーの責任者ストラットも魅力的だ。なぜだか世界中のさまざまな権限を与えられている彼女。ドライでクールな印象を受けるが、プロジェクトヘイルメアリーが宇宙へ行った後のことは考えていない。「投獄されるでしょうね」とさらりと答える場面では彼女が地球全体のことを自分ごととして捉えていることがわかる。そこまで頑張れるストラットは報われてほしいな。登場人物ははぼその2人そしてロッキー。 展開においてキーとなるのはエリディアン(地球外生命体)と出逢う場面。実は地球外生命体などいなくてグレースとは別の人が任務が遂行されていたのであった…と予想したが、見事に外れ。正直、地球外生命体の描き方でこの作品がチープなものになるかどうかが決まると思っていた。ロッキーの描き方は非常に丁寧で、記号としての宇宙人ではなく、人型ですらない。考えてみればむしろロッキーのようなカニっぽい姿はリアルな気すらしてくる。そしてロッキーと科学を通して意思統一をゆっくりと丁寧に図ろうとする描写は、ヒックとドラゴンのようなこの先の友情を予感させるものだった。 ここまで上巻だけだがめちゃくちゃおもしろい。なぜアストロファージが現れたのか、地球はどうなるのかまで描いてほしい下巻だが、ロッキーとの友情をテーマ中心に描く気もしている。いやむしろアストロファージがどうこうは野暮なら気もする。グレース博士が科学の力を駆使して1人で考え決断する過程が丁寧に描かれていればそれで満足である。 抱えている問題のスケールそのものは大きいが グレース博士の明るい性格やロッキーの可愛らしさでそこまで深刻さがないのが逆に魅力的。 ジャンル小説の枠で考えるとSF小説の特徴として「物的描写をきっちり描く」がある気がする。読者と「状況の共有」が最優先で名詞が多くなりがち。故に登場人物の心情は省かれがちになる。読者からすれば「丁寧に説明されているはずの説明がわからない状態」SF小説が苦手な人が多いのも頷ける。「プロジェクトヘイルメアリー」も同様に科学的なことを説明するためにかなりの分量を費やす。しかし、グレース博士のひとりごとのような描写が随所に差し込まれるため読み疲れしない。純粋な物語上のおもしろさに加え、読者目線で読み疲れさせない工夫も凝らしてあるように感じる(これは翻訳の小野田さんがすごいのか) そんなこんなで、いよいよ下巻。ここまではめちゃくちゃおもしろいが良作と行った印象。 さてさてどうなるか。
  • 2026年1月8日
    ありか
    ありか
    大きな起伏がない展開だからこそ、小さな感情の揺れ動きが丁寧に描かれている作品だった。 親になって初めて自分の子ども時代の感情に気づく美空を見ていると、親になることは自分も知らない自分を知ることでもあるのかなと思った。まだ、親にはなってないけれど、もしひかりのような子どもがいたら毎日が幸せだろうなと思う。一方で、美空の親のように子どもを愛しきれない親になるかもしれないと漠然とした不安を抱えていることにも気づかされた。 美空の親が毒親かと言われれば、微妙なところだと思う。お金を工面するよう言うところはどうかと思うが、経済的に苦しい中、美空のためを思う行動が随所に描かれていたし、美空もそのことに気づいていた。物語終盤の「大人になるまで育ててくれてありがとう」という美空のセリフは残酷さを孕んでいるように思えた。親として何が正解なのか。大人になるまで育てること以上の何かを育てる上で与えないといけないのか。美空の親こそ本当に苦しかったと思う。子どもを愛してはいるが愛しきれない中で美空を大人になるまで育てた。「誰が育てたと思っているの」と言ってしまうのもわかる気がする。父親はいなく女手ひとつで美空を育てた。いろんなことを犠牲にしたと思う。投げ出さなかったと思う。それでも、どこか物悲しく描かれるラスト。改心して謝ったり仲直りしたりはしない。美空の親に1番感情移入できた。美空はひかりを心の底から愛せる人間。読んでいると誰しもが美空のように子どもを愛せるはずと思ってしまう。だけど、すべての親が子どもを好きになれるとは限らない。自分が親になったとき、どういう感情になるのだろうか。 「ひかりが大人になったとき何かしてもらうために育てるわけではない」と美空が言っていた。今の前にひかりがいてその成長を見届けたい一心。そんなふうに思うことができれば素敵だな。 ひかりが手術する場面。美空の心情を慮ると心が苦しくなった。小4のときてんかん発作で倒れた日。もう元には戻らないかもしれないと医者に言われた母の気持ちはどんなものだったのだろう。しばしば、母のことを心配性と言っていたが、今はその気持ちがわかる。親になれば、子どもが少し怪我をしたり病気さたりするだけで自分も過剰に心配してしまうだろう。もう会えない母親の気持ちを考えされられた。 正月に結菜ちゃんと1日を過ごした。ひかりと同い年。架空の話もできて、何よりしっかりと大人と話すことができる。出会ったときはもっと幼かった。「子育てにゴールはあるよね」と三池さんが言っていた。ほんとうにあっという間だ。だから子どもの成長を見守ることに時間を割きたいし丁寧でありたい。 颯斗や三池さん、パートの先輩、ひかり、美空。たくさんの人が温かく優しく描かれている。今後、自分の状況によってより染みるかもしれない作品であった。
  • 2025年12月14日
    BOXBOXBOXBOX
    BOXBOXBOXBOX
    不気味な小説だった。ただ箱を仕分けするだけの仕事。従業員の立場3人、管理者の立場1人の登場人物は4人だけ。ミニマムな舞台でどの登場人物にも一切の感情移入ができなかった。 だが、展開もよくわからない。ラストも夢か現実かよくわからず支離滅裂な印象は拭えない。エンタメとして考えると脳内が霧がかっているようなそんなモヤモヤ感を残す。 本作では、「霧」が非常に有効なギミックとして機能していた。ベルトコンベア作業に「霧」を追加するだけで無機質な雰囲気と周りと遮断されている孤独感が演出される。また、登場人物がそれぞれの立場で苛立っていることが誰にも伝わらずに消えていく。そんな空虚さがよく伝わってくる。この「霧がかった」要素を入れたのは作品の雰囲気を決定づけるのに効果的だった。 作中、安が箱の中身を想像することで退屈さを免れていた。「箱」は確かに不思議で中に何が入っていても「箱」としかみない。無限の可能性を秘めているのにも関わらず、ただの「箱」としてパッケージされる。安もまたいつでも替えがきき、個性を奪われ、記号としての人間として扱われる自分と「箱」に共通する点を見出したのかもしれない。 「箱」の中身を知ってしまったら次は盗みの快感。バレないかを過剰に恐れる。安の人間的な欲求を垣間見ることができた。登場人物に感情移入などさせる気はないよという作者の意図が感じられるが、強いて言えば安は人間らしく映った気もする。 管理する側とされる側、ベルトコンベアの集配所という閉ざされた空間、バスでしかそこに行けないし出ることもできないという設定。シチュエーションスリラー的な要素がふんだんに散りばめられていた。大抵のシチュエーションスリラーは設定の奇抜さを展開が追い抜くことができないと感じている。本作はスリラー的な要素を展開に持ってくるのではなく、一個人の小さな苛立ちや葛藤にフォーカスを当てていた。死人は誰もいない。みんなささやかに苛々していたに過ぎない。話が展開しない。それなのに読むページが止まらなかった。決して、面白くてページが止まらなかったのではなく、なぜか読み進めてしまう。不思議な小説であった。 メタファーがどうのこうのと考え過ぎても興冷めしてまう気もするし、手放しに楽しめる小説でもない。ただ、記憶には残る小説なのは間違いない。 「人は単純な作業を続けると膿が溜まっていつかは爆発する」的なセリフがあったがわかる気がした。
  • 2025年12月7日
    成瀬は都を駆け抜ける
    成瀬シリーズ最新刊であり最終巻。まず、読後感が本当に清々しくて素晴らしかった。小説は突き詰めるとただの娯楽。楽しいが全てだと思う。読んでいて楽しい、読み終わって幸せ。そんな小説だった。な  成瀬を取り巻く人たち。坪井は恋愛に、ぼきののかは承認欲求に、西浦は成瀬に対しての恋心にそれぞれ視野が狭くなっていた。そして成瀬の母親もまた娘に対しての在り方に。どの語り手も「よくある悩みで、誰しもが通る悩み」であることが共通している。成瀬はあくまでそれぞれのキャラクターが一歩を踏み出すきっかけとして描かれている。 しかし、成瀬もまた1作目からただ迷いのない痛快な主人公として描かれるだけでなく、それぞれの語り手を通して目線で、落ち込んだり悩んだりする姿も見られる。「成瀬も19歳の若者なんだな」と人間らしさも垣間見える。成瀬の心情は描いていないのにも関わらず、成瀬の感情の機微が伝わってきた。 三作品通して、成瀬の一番の魅力は人を大切にしているところだ。誰に対してもフラットに相手に寄り添っている。迷いがなく、大胆なだけで誰よりも相手を想っている。一期一会の関係で終わりそうな状況でも、そこからきちんと関係性を築いている。どの人物も「面白そうなやつ成瀬」で入るが、「一緒にいて心地よい成瀬」に変化している。それは成瀬の持つ人を大切にする心が故だろう。 最終章では今まで成瀬に関わった仲間たちが最終号する大団円。1番最初から成瀬と共に歩んできた島崎を語り手にする構成は粋であり、島崎の知らないところで人と人とを繋いでいた成瀬に対して、嫉妬を覚えるのも島崎らしい。島崎は我々読者でありその気持ちを代弁してくれているよう。成瀬もやはり島崎は特別で「一緒に200年生きよう」の伏線回収。からの「200年では足りないと思っている」と成瀬らしい台詞。そして、400年という琵琶湖疏水の話と関連づけて幕を閉じる。 続編が読みたいが、ここで終わりもいいかもしれない。読んでいる間は本当に幸せだった。 滋賀県民として本当に嬉しく思う。 ありがとう成瀬。
  • 2025年11月28日
    考察する若者たち
    現代の若者は考察する。とにもかくにもまずは「答え」を求める。AIの台頭やSNSでの見える化を経てとにかく失敗を避け、正解に辿り着きたいそうだ。時代が変化してそれだけで意味があったものがそれだけではなく付加価値がつかないともう求められなくなったものが多い。 ドラマなんて観て楽しむものだった。それが作者からの答えを求めるものという付加価値がついた。発展すると常に人はもっともっとと求めるのだろう。 興味深かったのはメディアという一方通行の情報ではなく、その人その人の趣味嗜好にあったプラットフォームへと社会が細分化していることだ。もうランキングではなく、その人に合ったアルゴリズムが提示されている。みんなが知ってる歌手はもう少ない。それぞれの界隈が出来上がっていく。流行もその限られた界隈の中での話になっている。個人個人に最適化された情報が提示される。そのために、自分から情報を得ることはない。与えられた自分に合っているであろう情報がやってくる。たしかにこの状況だと自分が好きなものや好きなことは「日々与えられているもの」になりそうだ。アジカンの人が言っていたが、もうなんとなく自分で音楽を見つける行為はなくなりつつあるらしい。おすすめされたやつを聞く。おすすめに選ばれるのはその人が聴いていた音楽が元になっているから大体似ていく。そうこうしていくうちに最適化された人間が出来上がる。 自分の想いが言えない若者は増えるだろう。というかそこに意味を見出さなくなる若者がそのうち出てくると思う。いや、もういるのかもしれない。最適化され、カテゴライズされた人は自分らしさとやらに悩むのだろう。 そんな最適化に抗う手段として「批評」があると三宅さんは述べていた。自分の思いを言葉にする。意味はないけど。無駄だけど。でも、そうやって自分の中の言葉を紡ぐことが人間らしさなのだろう。
  • 2025年11月27日
    コンビニ人間
    コンビニ人間
    「普通」とは何かというテーマは「世界99」でも語られていた。本作の主人公、古倉恵子はどこか如月空子のようだ。まるでそこにいないかのような印象を受ける。 「コンビニバイト」は時限爆弾のようなもので、社会の当たり前(就職、結婚、子ども、家庭)が迫るにつれて爆発する。「コンビニバイト」=社会から弾かれた人間という無意識的な刷り込みがこの世界にはきっとある。自分も同じだ。結婚をしたことにより社会の中に一歩深く関わった気がする。要は社会が求める「普通化」に一方近づいたかのような。その一部になったかのような。そのせいか、指輪を付けているだけで勝手に相手が想像してくれる。家庭を持っているんだな。誰かと住むことができる最低限の社会性を備えているのだなと。勝手に物語を作ってくれる。そこに安心感を覚える。だから、僕は恵子のような人がいたら、ダメだと分かっていても「36歳でコンビニバイトか」ときっと思ってしまう。 村田さんは「異質なもの」をとんでもなくグロテスクなまでにリアルに描く。その異質で何かが足りない人物を主人公に据えることで、「普通」とは何かと強烈に問いかけてくる。 白羽は個性的なキャラクターだか社会と適応できないままあのような人間になってしまった。だが、裏を返せば白羽も「普通」になりたいのだ。社会に入りたいのだ。恵子も同様に、朝のコンビニで社会の一部として歯車になることに喜びを覚えていた。恵子にとってその場がコンビニだっただけだ。コンビニという無機質でパッケージ化され、一切の異物を排除しされた場所。幼少期、自分は何かを治さなければならない存在だと認識して以来、コンビニのような決められたものに身を委ねることで自分を保ってきたのだろう。 多様性とはいうが、その裏で「普通圧力」は年々強まっているように感じる。選択肢が広がり、なんでも認める世の中になると正解がわからなくなる。不安になる。だから、これが「普通」と決めてしまう。社会全体で決めてしまう。そうすることで安心して生きていけるから。でも、昔と変わったのは「それを誰かに悟られてはならない」ということ。「普通」「みんなと同じふり」をしなければいけないこと。 作中、口調についての描写があったが、やはり同じ社会で生きるには話し方すらも同化した方がいいだろう。「普通」であるために。みんな言わない。本当のことは。 店長と泉さんが恵子のことを内心どう思っていたのか、白羽さんとの関係を知ったときそれが明るみになった。白羽のセリフに「普通な人が普通じゃない人を裁くのがこの世界」とあったが、店長と泉さん、その他諸々の登場人物は2人に囃し立たり、悲しんだり、怒ったりしていた。まるで自分たちが「普通」で2人が「異端」かのように。その構図はまさに現代そのものだ。人は勝手に物語をつくり、誰かに怒りを向けたり哀れんだりすることで「普通」なのだと実感する生き物なのだ。 終末、恵子がコンビニ人間として生まれ変わる場面。結局バイトに戻るのかとは微塵も思わず、感動すら覚えた。恵子が初めて自分で決断した瞬間だったのからかもしれない。コンビニバイトという立場に救われる人もいるのだ。 「普通」という価値観そのものを壊すのが「世界99」だとしたら、本作は「普通」の外にいる人間の生き方を描いていた。「普通」なんてものは何かの拍子でガラッと変わる。恐ろしく順応できる人間が怖い。「普通」世界に身を置いてるはずだろう自分だが、人と関わるときは古倉恵子を思い出そう。「普通は〜」とは言わないようにしよう。あくまでも一つの立場に過ぎないから。そう思えるような作品であった。
  • 2025年11月26日
    老人と海
    老人と海
    短編小説。老いた漁師が海で大きなカジキを獲って戻るだけの話。プロットはとてつもなくシンプル。 だがしかし、老人とカジキの対決の描写から本作の「生命力」が痛いほど伝わってきた。 まずもって、海に出てからカジキと闘い。その後、サメと闘うまでの描写がリアリティにあふれている。海に出たことのない自分でも何をやっているのかがありありと伝わる。心情描写を老人の「ひとりごと」として表現することで老人の人物像もくっきりとしてくる。 本作で象徴的だったものとして「人間の強さ」「命を超えたプライド」が挙げられるだろう。 老人の何としてでもカジキを獲ろうとする熱量。それはカジキを獲ってお金を稼ぎたいだの名声を得たいだのそんなくだらないことではなく、まさに生きざまそのもの。老人のこれまでの人生をカジキに捧げているようであった。 そのためか、カジキへのリスペクトも随所に描かれて、厳しい状況下だかそれを楽しんでいるような印象を受けた。その根底には「海への深い愛」があるのだろう。海に関わるありとあらゆるものと関わりながら生きている実感があるからこそ。命の削り合いの場面がほとんどなのにどこか清々しさを感じた。 そして、獲ったカジキがサメに喰われる場面。老人がカジキに申し訳なく思うところが印象的だった。カジキは敵だ。人間と魚。でも、カジキの生きざまは自分自身の鏡のようなものだったのだろうか。サメも悪いことなどしておらず、ただ自然の摂理に従ったまで。手に汗握るカジキとの闘いから一転、自然の残酷さ唐突に突然描かれる。老人は海を女に喩えていた。 まさに気分によって天使にも悪魔にもなることを表していた。 「こんなときあの子がいてくれりゃ」という台詞がたびたびあった。本音で言えば助けて欲しいのだろうが、この命を賭けたバトルを一緒に体験して伝えたかったのだろう。 本作における「命」とはきっと「プライド」だろう。単なる生き死にはそこには及ばないのだ。物語の終末、ほとんど喰われてしまったカジキをみてとてつもない寂しさに襲われた。自慢できたとか稼げたとかそう言う話ではなく、老人の人生が削られてしまったような気がした。 短編でありながら静と動の両方を兼ね備えた素晴らしい小説だった。 「人間は叩きつぶされても、負けやせん。」
  • 2025年11月25日
    普通の底
    普通の底
    あまり期待をせずに読んだが、それなりに楽しめた。川辺優人の人生を川辺からの手紙という形で追っていく。物語の結びではジャーナリストの松井による覚書で川辺という人物像を分析している。本作の解説代わりにもなっている。 この松井の覚書は非常に濃厚であり、ここから読んでも楽しめる。 川辺はきっとどこにでもいる「普通」の人間。波風を立てず敷かれたレールの中で恵まれた人生を送りたい。川辺の行動原理は理解できる。 世渡り上手だと思った。しかし、その行動の根底に潜むのは「他者との比較」。人は誰しも誰かと比べて生きているが、川辺の場合は「周りと比べていいかどうか」が芯となっている。現に川辺は良い大学、良い会社としきりに言う。「そこに行きたい」思いではなく、「そこだと見栄や体裁がいい」評価で動く。「自分が悪いのでしょうか?」と川辺はよく言っていた。川辺の決断には心からの思いや覚悟がない。最善の選択をしようとするからうまくいかなかったとき、誰かや社会のせいにする。川辺は決まって菊地や高井戸の誘いを断り切れない。波風を立てずに迎合した結果、最悪の未来が来る。それをまた他者のせいにする。ただ、自分も川辺のような立場になればそうではないとは言い切れない。 松井の覚書にあった「臆病な優越感」という言葉は、まさに川辺の人物像を言い表していると思う。結局は優越感なのだ。他者より優れていると実感することが生きる源。しかし、挑戦や冒険などは決してしない。 現代は「他者の動向がはっきりと見えすぎてしまう時代」だと思う。他者や社会への解像度が高すぎる。昔は社会そのものがぼんやりとした雰囲気を作っていた。周りもある程度同じような選択をして同じような生き方をする。本当の意味で自分だけの決断や選択はなかったように思う。コミュニティが限られており、いい意味で狭い世界に生きていた。それがしんどい人もいたとは思うが、今はその何倍もしんどいと思う。いろんな人とつながれると言うことは、つまりいろんな人と比べてしまうことになる。「多様性だ」と言われて決断を強いられる。ネットで同年代の活躍を見てしまい焦る。選択肢が矢継ぎ早に流れ込んでくる。自由が故に逆に決断ができない。おまけに生成AIの進化で「考える」という過程が抜け落ちた。考えなくてもいい、でも馬鹿にはされたくない、みんなよりもほんの少しでいいから上にいたい。そういう若者が「闇バイト」に「考えることなく」染まっていくのではないだろうか。川辺はまさに現代の若者をトレースしたような存在であった。本当の意味で川辺は悪くない。運が悪かっただけ。川辺は時代の被害者だと思う。でも、否応なしに川辺のような若者が溢れかえる時代がやってくる。今関わっている子供たちだけでも幸せ感じながら生きられるよう、願うしかないのだろうか。本当に考えさせられる作品だった。
  • 2025年11月2日
    カフネ
    カフネ
    じんわり心が温かくなるそんな作品だった。 「52ヘルツのクジラたち」の読後感に近い。 薫子、せつな、春彦、それぞれがその人にしかわからない痛みを抱えている。薫子は不妊治療の失敗と離婚、せつなは自死遺族と白血病、春彦は味覚障害、周りからの印象と自らのギャップ。3人とも自分のしたことの結果ではなく不条理なものによって。 薫子は主人公として非常に感情移入できた。 薫子自身の再生を描くことで「救われた人が今度は救う側に変わる」「救った人が救われる」読み進めるにつれ、そんな人間の素敵な部分が浮き彫りになっていった。 カフネという家事代行サービス。「おいしい」と感じるとき、悩みごとや辛いことはその一瞬吹き飛ぶ。その一瞬が明日を生きる一筋の光になる。「食べること」は人を良くすること。まさにせつなの料理で薫子が救われたように。 掃除も同じかもしれない。一生ついて回るが、メンタルが不調のときは部屋も荒れている。片付けられないはうつ病の症状の一つ。片付けるにはエネルギーがいる。誰かに片付けてもらうことでその片付けに使うはずだった分のエネルギーが心の余裕になる。家事代行はお金持ちの特権ではなく、子どもを育てる親が当たり前に使うものとして機能するといいなと感じた。家事代行の利用=怠けてる、なんてステレオタイプな価値観は捨てよう。僕も積極的に使おう。自分の心の余裕にお金を使おう。 そして、「他人のことはどこまでいってもわかない、わかったと思い込んでいるだけ」特に春彦は愛情という思い込みに縛られてしまって自分を出せずにいた。周りの理想の春彦でいることはどれほど辛かっただろう。対立しているより悪気のない善意の方が苦しいのかもしれない。相手のことを知ったつもりにならない、何かは分からないが、自分の知らない一面がある。そのことは忘れずにいたい。 一方で、薫子がせつなに「ただあなたといたい」と伝えた場面、これも真理だと思う。ただ一緒にいる、その人と話していたいという欲求に理由なんてない。人のことなんてわからないけど、自分が一緒にいたいかどうかはわかる。それがエゴだとしても相手を思いやってのことならば素敵ではないだろうか。 薫子と公隆が離婚後、カフェで再開するシーン。本当は子どもが欲しくなかったと打ち明ける公隆にそのことを離婚前に行ってくれればと言いかけて辞める薫子。「仮に言っていたとしてそのことをそのときの自分は受け入れることができただろうか」赤の他人になったからこそ受け入れられる悲しさ、夫婦だからこそ生まれる言えないことや受け入れられないこと。時間が経てば受け入れられること。すれ違いの連続を経験して人は生きるんだなと、印象的な場面であった。 人が再生するとき、必ず食べることときっかけがあると思う。時間が解決するというけど、何もない空間にただ1人で過ごすわけではない。誰かと関わり、食べて寝て起きる。その中に一瞬でも辛さを忘れられるときがある。「カフネ」ではそれが「おいしい」という感情だった。そういった一瞬の救いの連続の中で生きるとき自然と再生に向かうのだろう。薫子が「おいしい」に救われ、カフネに出会ったのもそう。ラストシーンで繕った自分の中に入ろうとしてくれた薫子に救われたせつなもそう。 キャッチコピーの「おいしいから再生ははじまる」本当にその通りの小説だった。
  • 2025年10月14日
    イン・ザ・メガチャーチ
    「熱量の低い百万人よりも熱量の高い一万人を生み出すこと」人の視野を狭めて狂信的にさせるためには「物語」が必要。 エンタメ小説としてではなくどうすれば人を動かせるのかを説いたハウツー本のようだった。「視野」という言葉がよく出てきた。「視野」を狭めて自他の境界線を曖昧にする狂信的な「推し活」。「我を忘れて生きるには人生は長すぎる」「何かに中毒な方が楽」国見の言葉は本質を突いている。 自分も阪神やボードレースやポケポケ。なにか夢中になれるものを常に探している。本や映画やドラマもそう。その方が楽だから。 結局、自分は何者かを明らかにするために何か信じられるものが欲しいのかな。朝井リョウさんは「何者でもない自分」「何者かになりたい自分」を巧みに描く。 途中、久保田が垣花に友達心を寄せるシーン。確かに、訳もなく男同士で会ったりすることってほとんどない。だからこそ、久保田は垣花に対して視野が狭くなってしまったんだな。その気持ち本当にわかる。 「推し活」がテーマではなく、信じることで「視野」が狭くなる人間の本質的な部分をさまざまな立場から描いていた。「視野」を極限まで狭くすることで救われる人もいる。 逆に、広くしすぎて迷ってしまう人もいる。僕は後者だと思う。最近だと合唱コンにも心で熱中できない。学校の先生なら当たり前に熱量が高いことに対して高くなれない。「視野」が広すぎるのだ。「視野」を狭くしたいが、その分事象に対して自分を近づけなければならない。結局は自分を曝け出すのが怖いのだ。不安なのだ。そんな自分を変えたいと思う時もある。けど、そんな教師がいてもいいのでは、とも思う。常に揺らぎながら生きている。 隅川さんは「視野」を広げすぎた結果、最も「視野」が狭くなった存在として描かれる。危険な方に流れた。自分はそうなる可能性はないと言い切れるだろうか。「視野」という考え方を手に入れたのは大きい。結局は「視野」のズレが争いを生み出すのだ。どうしても「視野」狭い人のことを小馬鹿にしてしまう。でも、自分も「視野」が狭くなる時もある。大谷ファンを見て小馬鹿にすると同時にそこまで「視野」を狭くできることに羨ましさを感じることもある。 澄香のように「あるべき理想」に囚われて自分らしさが出せないのも共感できる。大人数では自分らしさが出せなくなるのもわかる。「視野」が広すぎて色々と考えてしまうのだ。でも同じものが好きな人同士のコミュニティが居心地がよい。「視野」が同じだから。 これからは「視野」を意識して物事を見たり考えたり関わったりしてみよう。久保田、隅川、澄香の3人の「視野」の揺れ動きが巧みに表現された傑作小説であった。
  • 2025年10月1日
    世界99 下
    世界99 下
    上巻、下巻の長編だったが、上巻と下巻でここまで印象が違うとは。上巻は空子のパーソナルな部分に焦点を当て、性格のない空子が「呼応」 と「トレース」をしながらいくつもの世界に順応する物語。一方、下巻は「リセット」を経て、綺麗になった世界が舞台。空子本人の影は消えてしまいそうなくらい薄い。そのため、上巻のような空子がこれからどうなるのか、どう驚かせてくれるのかというエンタメ性を期待すればそれは空振りに終わる気もする。特に大きな展開はないし「リセット」後の人生をリアルに淡々と進んでいく。故に、この作品のテーマだと思う「人間とはなにか」について深く描かれているように思う。 「性格がない」如月空子を主人公としたことで、作品世界に自然と馴染めた気がする。厳密に言うと「性格がない」というより、「安全で楽がしたい」という人間の根源的な欲求を満たす行為をする。それが「呼応」と「トレース」。相手に合わせ「安全で楽につながる行動」をとる。 言葉にすると冷たい人だと感じるが、世の中の当たり前のようにみんな空子だと思う。 物語冒頭で、「ピョコルン死なないかな」と思う場面。普通ならそんなこと考えてはいけないとブレーキをかけ、誰にもそう思っていることを悟られずに自分を世の中の当たり前にチューニングする。でも、潜在的な意識の中に「死なないかな」と思ってしまう瞬間も確かにある。空子はそのことすら俯瞰をしている。そんな空子を主人公に据えることで読者は「隠している自分」を暴かれていくような気持ちになるのではないか。でも、物語終盤、空子が「安全で楽」という欲求以外に、空子本人でも気づいていないような優しさや思いやりがあったような気がする。主に白藤さんに対して。 白藤遥は空子とは真逆の人物として描かれる。 自分が信じる「正しさ」を軸として行動する。 そんな白藤さんがかっこよく自分もそうなりたいと思う一方で、「正しさ」の奴隷にも感じる。 こういう「正しさ」を振りかざす暴力的な人、いるよなぁ…と。上巻では様々な世界があった。世界3は白藤さん白藤さんでいられる世界だった。世界1や世界2との比較の中で、世界3という世界が生まれる。その差異があったからこそ白藤さんは白藤さんでいることができた。 「リセット」により、世界が画一化され、「クリーンな人」で溢れた世界において、白藤さんは順応できなかった。下巻では白藤さんが疲れ切っている様子が多く描写されていた。疲れ切るということそれは白藤さんが「正しさ」捨てなかったことの裏返しでもあると思う。順応してしまえば楽なのにと何度も思った。「人は変われない」という残酷だがきっと本質なのだろうということを白藤さんが表現していたような気がする。物語終盤でも活字を求める白藤さんがいた。最後の最後、「兄を殺して欲しい」と「呼応」をしようとした白藤さんは相当な無理をしていた。それを空子は感情的にもならずに分析している。やっぱり、白藤さんは自分の「正しさ」から抜け出せなかったのだ。それが貫いたことになるのか縋りついたことになるのかはわからない。本作で、1番印象的なキャラクターが白藤遥である。 人間の性欲や負の感情を一身に受け続けたピョコルン。その正体はラロロリン人の死体をリサイクルしたもの。上巻ではラロロリン人は差別の対象として迫害を受ける。下巻では、ピョコルンになることを条件に国民から「恵まれた人」と崇められる。条件がなければその存在を認めてもらえないラロロリン人はやはり作品を通して差別されている。なにか差別したり攻撃したりする対象がないと自分の存在を確認できないのも人間の本質。差別なんてしていませんよという顔で。世界が作った常識から外れたものを奇異の目で見るが口には出さない世界。みんな何かを攻撃することで自分を保ってる。 上巻では性被害で傷ついた女性たちや男が女を見下すことから生まれる様々な暴力が描かれる。古めかしいほど男>女の構図だが、現代でも心の奥底では男は女を見下し、利用し、自らの存在価値を上げるものという価値観が刷り込まれているのだろう。様々なところで。それが顕在化して強く描かれているのが上巻の明人や匠だ。彼らには傷つけている自覚がない。それが普通だから。明人や匠のような要素が自分にはないよな?と自問自答するが、ないとは言い切れないのが怖い。上巻の男性陣の描き方も「隠している自分」を暴いてくれる。 下巻ではピョコルンが女性の苦しみを全て背負ってくれる。明人はピョコルンにはなり背負う側になった。「汚い感情」はピョコルンが引き取ってくれるから「クリーンな人間」でいることが大切になる。一見、見栄えはいいが空子は言い切れない気持ち悪さを感じ、白藤さんはその世界に順応できなかった。しかし、次世代の波と琴花はその世界しか知らない。「汚い感情」を知らない。痴漢されても勘違いだった、自分が悪いと済ませてしまう。おまけに「怒る」感情表現ができない。感情の一部を知らない人間に僕たちからはみえる。生まれたときからそれがあるのかはやはり大きな違いだと思う。物語最後の雨の子供であるシュンが、白藤さんのことを「見たことがない『表情』をするから怖い」 と言っていた。感情や表現までもピョコルンが吸収してしまったんだな。ピョコルンは救いでもあるが悪魔でもある。負の感情や表情を奪ってしまった。クリーンな街、クリーンな感情。人間の持つ機微が画一化された世界。きっとスムーズに世の中は周るのだろう。だけど少しの寂しさを感じるのはなぜだろう。 アダムとイブ、神話から生まれた、男と女。出産、繁殖の疑いようのないサイクル。そのサイクルの中で苦しい思いをした女性を救済した世界。今とどちらが幸せなのだろうか。 レナが自殺したときの空子のセリフ 「心はとっくに死んでいて体がそれに合わせただけ」 空子がピョコルンになるために身辺整理をしているときに感じたこと。 「死にたくて死のうとしている人よりそれが最後の生きる手段だから死を選ぶ。死を止めることは最後の生きる道を遮断すること。」 空子をピョコルンにする医者 「かわいそうなことは、すばらしいですよね。 娯楽になるから」 「かわいそうな人を見て泣くと心が浄化される」 ディストピア小説なんかじゃなくこれは未来の人間社会の形。「隠している自分」が容赦なく暴かれる。「読む前には戻れない」の謳い文句に心から共感する。人間は恐ろしい。ギリギリのバランスで世の中を保っている。何か一つでも前提条件(本作だとピョコルンの出産、性的対象) が崩れれば一気に世の中は変わる。ラロロリン人がそうであったように。そんな人間の恐ろしさと本質を見せつけられるような傑作小説であった。
  • 2025年9月21日
    フランケンシュタイン
    フランケンシュタイン
    批評理論入門から入ったが、フランケンシュタインが怪物ではなく主人公である博士であることに驚いた。イメージは怖い。 ホラー要素はほとんどなく、生み出したものと生み出されたものという決して切れない縁は親子関係そのものだ。そして怪物が求めていたものはフランケンシュタインからの「愛」。子育てをするすべての人に読んでほしい素晴らしい作品だった。フランケンシュタインの言動や思想にはいささか共感しかねるが、自分が同じ立場ならそうしてしまうかもしれないと思わせるところも多々ある。特に、冤罪で処刑されたジュスティーヌ。本当のことを言えばジュスティーヌの罪は晴れるかもしれないが言えなかったフランケンシュタイン。そうなる気持ちもわかるが、処刑されたジュスティーヌより辛いなんてことはないよフランケンシュタイン…エリザベスやクラヴァルのようにある種、理想化された人間の中でフランケンシュタインの人間らしさが際立っていた。 怪物の人の役に立ちたい、人と関わり合いたいとする回想では感動的な要素もありつつ、それは敵わないという不条理な世の中を突きつけるきっかけにもなっている。見事な構成だった。 子育てをするすべての人に読んでほしい。
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