
みーる
@Lt0616pv
- 2026年10月26日
鶏まみれ繁延あづさ借りてきた読み終わった【熱を感じる文章力】 本業はカメラマンとは思えないほど、文章から伝わる熱量にページをめくらされた。特に、食鳥処理場で初めて首切りを行う場面や肝抜きをする場面の臨場感といったら。まるで、何か怪物と戦ったあとのような作業後の血まみれ描写。次々と流れてくる鶏、鶏、鶏。頭で考える間もなく手を動かさなければついていけない状況。理屈よりも感覚のままそのカオスな時間がありありと描かれている。読者を引き込む力がある。 【恐ろしくタフな生活】 そもそも、子どもが3人いて、養鶏営業を立ち上げながら、食鳥処理場で働く、そこにカメラマンの仕事や執筆の仕事…いやここまでタフな人がいるのか…と舌を巻くと同時に羨ましくも思った。なぜなら、作中に「つかれた」「やめたい」という表現はもちろん、そう感じるようなところが一切なかったからだ。目標に向かって一歩ずつ進んでいく姿、気づけば3年以上食鳥処理場で働いて、その労働環境を少しでもよくしようと上司に掛け合う姿からは、繁延さんの内から湧き出るエネルギーの塊みたいなものを感じた。自分はどうしてもバランスを取ってしまう。疲れ切らないように、無理し過ぎないように、余裕を残すようにしてしまう。突き抜けられない自分の姿をみせつけられたような、そんな感覚。なにかを1から初めてみる。一生に一回はそんな衝動に突き動かされるまま生きてみたい。そんなふうに思った。 【バッタを倒しにアフリカへのややシリアス版】 間違いなく初めて読むはずなのに、似た空気感を感じるときがある。本作を読み進めるとどうやら養鶏の話らしいということがわかる。さらに、養鶏で生計を立てるために食鳥処理場で3年以上働かなくてはならないことが判明する。 果たして働けるのか…という所で、「あっ、これバッタっぽい」と気付いた。「バッタを倒しにアフリカへ」と同じ類の熱量。なんだろう、誰かに言われてやるでもなく、やらなければいけないからやるでもない、当人の魂から漏れ出る溢れんばかりの熱量に突き動かされる感じ。バッタの方は刺激的なエピソードや外国ならではのハプニングが中心で比較的ポップな内容だった。一方、鶏は、どこまでも日常が続いている。特段、ハプニングを描いているわけでもなく淡々と書かれている箇所も多い。だからこそ、スーパーで並んでいる鶏を安い高いでしか判断しない僕たちの口に届くように「生き物」から「肉」にする仕事の人たちが必死になって働いている事実がみえてくる。あくまでも、日常なのだ。食鳥処理場という仕事はコロナ禍でも止めることができない。残酷なまでに社会の一部として明日の朝も明後日の朝もそこに在り続ける仕事なのだ。エッセンシャルワーカー、医療関係者や運送業者の陰に隠れて今日も「生き物」を「肉」にしてくれている人がいることを忘れてはいけない。繁延さんは「生きること」「殺すこと」「食べること」の流れを見て気づいた揺らぎを丁寧に表現されていた。一度も「こうあるべきた」と断定した表現はなかった。何も知らない僕が何かを言えることはないけれど、そういう人の仕事が巡り巡って自分の生活に直結していることを知っておかなければならない。そう思う。でも、現実はやっぱり自分の目に映る範囲のものになる。だから、数日したらこのこともきっと忘れる。何がきっかけでまた思い出すかはわからないけれど、必要なときに自分のもとにきっかけが巡ってくるのだろうな。 【子供達が優秀。長男。】 3人の子供たちの成熟具合がとてつもない。小1ってこんなに話せるものなのか…核心めいたことを言うし、これは繁延さんの子供だからなのか?特に長男は経営者かと思うほど大人びている。小6で「ゲームの代わりに鶏飼わせて」とはならんやろ…すごいな本当に。 【誰でもできる仕事だから最低賃金なわけではない。】 作中、食鳥処理場の時給が最低賃金なことに疑問を抱いていた繁延さん。「こんなにとおとい仕事なのに最低賃金なのはおかしい」僕もそう思う。当たり前にあるものって当たり前にあるが故に、その大切さを忘れてしまう気がする。当たり前にスーパーに肉が並び、消費者の口に入る。「食べる」という行為は直接的に「生きる」行為につながる。人間は生存と繁殖のみを目標としなくなったから、食べることは当たり前で、それよりも健康的か、おいしいのか、高級なのかに目を向ける。当たり前の根底を支えている食鳥処理場の仕事が最低賃金なのもそういう部分からきているのかな。実際はもっと複雑な何かがあり、一つの因果関係では説明しきれないのだろうけど。血にかかわる仕事は穢れ仕事と呼ばれてきた背景も深く関わっているように思う。 それにしても繁延あづささんは興味深い人だ。実態が掴めないというか、現実に存在している感じがしない。不思議な人だ。これからも動向を追い続けたい。 - 2026年10月20日
読み終わった買った初の100分de名著シリーズ。さくっと読みやすいが、内容もよくまとまっていた。 今回選んだ一冊は河合隼雄。大学時代の必修テキストに河合隼雄の名前があったので知ってはいたが、恥ずかしながらぼんやり「精神分析の人」という認識でとどまっていた。 河合隼雄はユングの分析心理学の第一人者。人をタイプ別に分けたタイプ論やコンプレックス論、普遍的無意識、夢分析などさまざまな内容が書かれていた。 が、しかし、なんとなく乗り切れなかった。人間の「無意識」の領域に焦点を当てる試みは興味深いのだが、全体的な解釈がこじつけのような気がしてならない。特に夢分析。もちろん、夢には無意識と意識が統合されたものなのはわかるがその解釈と現実の悩みを結びつける因果関係がこじつけ感があるというか…内向的なタイプだから夢のこの要素はこれで…と言われても釈然としない。自分には乗り切れなかった。 ただ、フロイトが「自分の内なるもの」である「性衝動」アドラーは「自分の外にあるもの」である「権力の誇示」に焦点を当てていることは勉強になった。 ジャンルとしては精神分析は苦手かもしれない…興味はあるんだけどなぁ… - 2026年10月20日
読み終わった買った読むのは2回目だと記憶している。5年くらい前にKindleで購入した。その時は全て読んだわけではなく、構造主義=ソシュールの言語論だと思い込んでいた。今読み返すと本当に読んだのか不安になる解釈だ… そんなわけで再読。 まずもって、「まえがき」が秀逸。「まえがき」から面白いかどうかは本全体が面白いかどうかに密接に関わると思っている。 「『専門家のための』本は買いません。つまらないからです。」冒頭の入り方が最高だ。落ち着いて話しているのにズバズバ言っていくスタイルが素敵。 そもそも構造主義とは「ある時代、ある言語、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」と定義していた。前に読んだ「中動態」における「意志」の考え方を思い出した。自由意志などやはりなく、周りの環境や状況から総合的にみた選択に過ぎない。考えてみるとそりゃそうかと思うが、言われてみないとこの世界は構造主義にまみれでいることを見落としてしまう。現に、それぞれの視点に立って物事を考えることが常識になったのは1960年台だと言う。そりゃ、戦戦の連続だわな… 本著では、こうした構造主義の考え方を中心とした哲学者を紹介する形になっている。あくまでも、構造主義は根底の考え方であり、それぞれに主張はまるで違ったりする。備忘録も兼ねて、出てきた人物の大まかな主張を記す。 カールマルクス マルクスは「人間は行動を通して何かを作り上げ、その創り上げたものが自分が何者かを規定し返す」という考え方だった。つまり「労働→生産」においで自分を獲得することであり、何もしなければ人間ではなくただの動物だと言っている。「存在」ではなく「行動」にこそ主体がある。 →思った以上にスパルタな考え方だが、言われてみれば当たり前な気もする。実績や労働成績を中心に自分の歴史を振り返るものだ。「なにをしたか」を中心に物事を考えているのは当たり前のようにマルクスの考え方に影響を受けているのかもしれない。 ソシュール 「ことばは『モノの名前』ではない」 聖書では、アダムの前が一つ一つに名前をつけていった。これは犬、これはライオンのように。だから、ことばとは『モノの名前』だと思いがちだが、ソシュールは逆だと言う。 言葉で世界を切り分けるからその『モノ』が生まれる。言語によって同じモノでも切り取り方が違う例を挙げていた。例えば、フランス語でムートン=羊。これは生きていても死んでいてもムートンしかし、英語で羊はシープとマトン。シープは生きている羊、マトンは調理された羊。つまり、フランス語話者と英語話者では羊の捉え方がまるで違う。同じ羊ではないのだ。言語による思考のフレームワークが違う。つまり、名前をつけること(世界を分断すること)でその「モノ」は存在するという考え方。 →構造主義といえばソシュール!と思っていたが、やっぱりこの考え方はすごい。使う言葉が違うと思考が変わるのは言葉の範囲や切り取り方が違うから、世界の見え方が変わるから。国語の授業でも似たようなこと(世界の切り取り方)について話しているが、やはりこの考え方は子供達にも知ってもらいたい。 フーコー フーコーは歴史を「いま、ここ、私」とする人間主義的な考え方に異を唱えていた。 つまり、歴史は過去から現在まで一本の線で繋がっているわけではなく、大切なのは「何が語られなかった歴史か」だと言う。わかりやすい例として、「〇〇の子孫」という言葉。この言葉は歴史を語る中でよく出てくるが、子孫ということは、父方だけでなく母方の血も引いているはずである。そちらは無視されて、父方(もしくは母方)のみ注目を浴びる。まるで半分の地はなかったように語られる。 またフーコーは身体も一つの社会制度に使われるという。体育座りは児童の均一化、標準化を目指すためになされた身体的制限であり、しかしそのことに子どもたちは気づいていない。この気づかぬうちに刷り込まれることが重要であり、身体的なの制限は社会制度を作るためにしばしば使われる。 王政における「国王ニ体論」では、王様は、二つの体「身体的なもの」「政治的ななもの」があるという。「政治的なもの」は意味によって編まれているという。王政の処罰が残酷なのは「身体的なもの」を超え「政治的なもの」まで罰するからであると記述されていた。また、身体的な痛みや苦痛は「政治的なもの」の前においてはコントロールできるものである。政治的な大義において、痛みを感じない兵士を作り上げることも可能である。 →フーコーは、なかなかに難しかった。「権力」という構造がどういうものなのかにフーコーは迫っていたように感じた。標準化してカタログ化することで統治したり支配したりすることができる。その際、必ず「権力」的な考え方が出てくるということか。 ロラン・バルト 「記号」の定義として、自然的な因果関係があるもの(「黒雲」は「嵐」のしるし) 象徴であるもの(現実的に連想可能なモノ。例えばトイレの男性女性のマーク)は当てはまらないと定義した。 つまり、「記号」とは社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」である。(将棋の『歩』のコマを無くした時、みかんの皮を『歩』に見立てるなど) そんな「記号学」の視点のうちバルトが掲げた「エクリチュール」という概念。これはある社会集団における選択的な言葉遣いだそう。 例えば、日本では「僕」と言ったり「俺」と言ったり、さまざまな一人称が存在し、自由に選択が可能である。ここで考えたいのが、バルトはその言葉遣いの「型」に応じて、考え方や振る舞いが変わるということだ。教師としての言葉遣いやヤクザとしての言葉遣い、おじさんとしての言葉遣い、言葉遣いが変わるとその振る舞いが変化する。さらに、このエクリチュールはさまざまなエクリチュールから影響を受けるため、純粋なエクリチュールは存在しない。純粋なエクリチュールが存在したとしても、そのエクリチュールはまた「型」となり影響を与える。その繰り返しである。 →ソシュールの言語論を展開させたような考え方だと思った。確かに、エクリチュール(言葉遣い)でその人らしさや社会的立場が決まってくる。エクリチュールの「型」にはまって生活をすること自体、まさに構造主義の中に身を投じることである。ソシュールと並んでわかりやすい言語的な観点からの構造主義論であった。 レヴィ=ストロース サルトルを論破したと書かれていた前半部。歴史的な観点から善悪を判断するサルトル。そこには歴史のない未開の地に住む人たちが劣っているという前提のもと成り立つ理論であった。レヴィ=ストロースは、未開の地の人はその人の物差しで世界を分断しているだけであって、そこに優劣はないと痛烈にサルトルを批判した。 レヴィ=ストロースは社会集団は「感情」や「価値観」で動いているわけではなく、「人間社会は同じ状態にあり続けることはできない」「人間社会は贈与と返答の繰り返しである」という2つのルールをもとに動いていると論じていた。 子孫が繁栄するためには近親相姦を避けなければならない。それ故に自分の娘を相手の男に贈与し、その子どもをまた他の男に贈与しそれを繰り返す。そうして少しずつ緩やかに変化しながら社会を回っていく。 →レヴィ=ストロースの「贈与返答の繰り返し」は哲学的な概念というよりも生活の中で息づいており大変理解できる。お土産をもらったら返さなきゃという風に自然と思うもんなぁ。 それに人間社会は緩やかに形を変えないと機能しなくなるときいて、朝井リョウの『生殖記』を思い出した。 フロイトやジャックラカンの「精神分析」は難しく言語化できなかった。構造主義の基本的な考え方が大変よくわかる一冊であった。構造主義はもはや人間社会の大前提なのでは…? - 2026年10月12日
中動態の世界國分功一郎読み終わった買った度肝を抜かれるほど面白かった1冊だった。國分さんの熱量がひしひしと伝わってきた。出てくる言葉や説明は難解な部分も多く、全てを理解できたとは思わないが、全てを理解しようと食い入るように読んだ。 そもそも、中動態とは何なのか。この本と出会うきっかけとなったのは、前に読んでいた「国語と出会い直す」という教育書だ。そこから興味を持ちYouTubeで何本か動画を見た限り、中動態とは、「能動と受動だけではこの世を捉え切ることはできない。それなのにこの世界では当たり前のように能動と受動の関係性が根付いている。能動でも受動でもない、態、それが中動態」と説明されていた。本著では、中動態を論じるにあたり、「意志」や「責任」、「自由」や「権力」などの概念を丁寧に丁寧に、それはもう本当に丁寧すぎるくらい丁寧に向き合い、論じていた。その熱量の高さには驚かされた。哲学者の思想を引用しつつ、國分さんの考えもきっちりと書かれており、論の組み立て方も非常に上手い。わからなくなりそうなところでわかりやすい説明をしてくれる。そして、副題が秀逸だ。「意志と責任の考古学」。意思と責任の「観点から」でも良さそうなところ「考古学」と題している。読めばわかるが、本当にこれは「考古学」としか表現できない。歴史的な流れを忠実に踏まえながら、慎重に論が進められていく。 本著の大まかな流れとして、「する」(能動)「される」(受動)の関係から導き出される問題として、「意志」と「責任」のねじれが挙げられる。例えば犯罪を犯した者がいたとして、「意志」があったかどうかは、その人物が「責任」を負うべきかどうか判断する際、密接に関わる。しかし、「無理やりそうさせられた」場合や「そんなつもりはなかった」場合など、「する」側だが、実は「される」側であるときも多々ある。どうしても「する」「される」の対立だとうまく解決できない問題が多い。そこで出てくる考え方が「中動態」。そして、「中動態」と密接に関わるのが「意志」と「責任」であるため、そこを詳しく論じようという流れである。 以下、いくつか印象的だった部分をピックアップしよう。 まずは、言語学的には「能動」⇄「受動」の前に「能動」⇄「中動」であり、「受動」は「中動」の派生であるということ。「中動態」の考え方として、(「能動」との対立において)「能動態」は動詞は主語から出発して、主語の「外」で完遂する過程。対して「中動態」は動詞が主語の「内」にその座となる過程。と説明している。つまり、主語が過程の「外」か「内」にあるかが問題であるそうだ。中動態の動詞として挙げられていたのは、「生まれる」や「死ぬ」「寝ている」など、確かに主語が主語の内部に留まる動詞であり、言い方を変えれば「生まれる」は受動態のニュアンスもある。「寝ている」も(何かの器官や状況によって「寝させられている」と考えることもできる。そういう意味では、「受動態」は「中動態」の派生であることも頷ける。 この後、「中動態」の特徴として「自動詞、受動、再帰性」が挙げられていた。 第5章の「意志と選択」では、「意志」は過去は断ち切る行為であり、元来そんなことは起こり得ないと述べていた。「りんごを食べる」行為は、過去のどこかでその決断(りんごを食べる)につながる何かがあるわけだ。(美味しそうなりんごを見たとか、りんごを食べたことがあるとか)。それ故に、「意志」のような、過去を切断し、自然と表れるものなど存在せず、単にそういった「選択」をしたに過ぎないと述べられていた。考えてみれば当たり前だが、複雑に絡まり合った過去から導き出された「選択」の連続にも関わらず、「意志」という言葉で一括りにされてしまう。「能動」⇄「受動」の世界に生きると確かに、複雑な背景は単純化され処理されてしまいがちである。 →「意志」についての哲学書を読みたくなった。哲学は「意志」を否定している風潮が強いように思えたが実際はどうなのか気になった。「選択」の中にも「意志」のかけらのようなものはあるとは思う。(これはこの後、論じられていたが)ただ、人は何か明確に意志を持って「選択」をしているときの方が少ない気がする。「無意識」まではいかないが、様々な要因によってその「選択」が導き出されているというか。だからあなたの「意志」でしょうというのはあまりにも冷たい気がする。「意志」と聞くとその人が1から100まで「責任」を負うようなそんな見えない壁のような突き放し方が頭に浮かぶ。「意志」を中心に話しすぎるのも良くない気がした。 第8章の「中動態と自由の哲学ースピノザ」では、外部刺激によって内部が変状するプロセスが「中動態」であるというスピノザの考え方が述べられていた。スピノザは感情を「何か外的な要因があり、そこから生まれる内的な変容は人によって違う」と定義していた。それが「本質」であり、その「本質」のグラデーションで「能動」か「受動」かが決まる。「能動」⇄「受動」は矢印のような関係ではなく、質的なものだとスピノザは言う。カツアゲの問題(やりたくないのにやらされるのは「能動」なのか「受動」なのか)もこれで説明がいく。行為を「やった」「やられた」の矢印で捉えるのではなく、行為者の「本質」を考えれば、カツアゲ問題ない限りなく受動に近いと考えられる。が、受動と決めつけるわけではなくあくまでも度合いの話。 →なんだか、スピノザの考え方はバランスが取れていてとても腑に落ちた。考えてみればまぁそりゃそうかって感じなんだけど、二者択一で考えがちな問題を「度合い」で考えるスピノザの思考は参考になった。 文庫本の追加コンテンツである「責任と帰責性」がとんでもなく面白かった。 「責任」とは本来、ネガティブな意味ではなく、英語ではレスポンシビリティ、つまり「反応」であり、小さい子に手を差し伸べる。困っていたら声をかけるなど他者に反応する行為こそが「責任の本質」だと述べている。しかし、「能動」⇄「受動」の世界において、「責任」は「負うもの、負わされるもの」として位置付けられがちである。現代の法では、「意志」の有無を前提に話が進むため、「意志があって殺人をした」ならば「責任を取るべき」そうでないなら「責任の所在は曖昧になる」。そうして、「意志によって根拠づけられる責任」を國分は「堕落した責任」と呼んでいる。それは責任の「帰責性」によるものであり、つまり責任のあり方は誰なのかをはっきりさせたい人間的な感情からきている。確かに、自分が被害者ならば加害者に「責任」を負ってほしいと願うだろう。「意志」有無も当然重要だ。しかし、帰責性の「責任」と本来の意味の「責任」はしっかりと区別しないといけない「帰責性」は必ずしも「責任」を伴わないと國分さんは言う。誰かに責任を負わせても(能動的)それは心から出てきた反省ではなく、「反省させた」という「受動的な」応答である。つまり、能動⇄受動の関係性では、本来の「責任」=心から湧き出る「反応」に辿り着けないと國分は言う。だからこそ、「意志」と言った個人まかせのものに縋るのではなく、全員で「なぜそうしたか」ではなく「どうやってそうしたのか」と事実ベースで考えることが、結果として自らの「責任」と向き合うことにつながると結論づけている。 →この「責任」と「帰責性」についてはYouTubeで國分さんが話をされているのを聞いたことがあった。「責任」=「反応」という考え方がとても印象的で納得。「帰責性」も必要な考え方で、それがないと救わない人も多く出てくるだろうし、自分が当事者になったら「責任の所在」と「意志」ははっきりさせたいときっと思う。でも、最初から「能動」⇄「受動」で考えるのではなくて、その「意志」に至るまで何があったのかは一緒に考えたいと思った。進路指導でも「あなたが選んだ進路だから」と自己責任論にしがちであるが、「責任」は負わせるものではない。相手の中に留めるものではなくて、「反応」して共に考えることだと改めて思った。YouTubeで國分さんが「自分のことは自分一人では考えない。みんなで考える。」とおっしゃっていた。本当にその通りだと思うし、優しい考え方だなと心が温かくなった。 まさかここにきて、「中動態」という新たな考え方を知るとは思わなかった。2026年の個人的流行語大賞受賞は間違いない。この先の人生にも大きな影響を与えてくれそうな一冊。それにしても國分さんの頭脳はどうなっているのか… - 2026年10月8日
「国語」と出会いなおす矢野利裕借りてきた読み終わった文学研究者の敷居の高さが苦手だから中高一貫の高校の教諭をしているという筆者。この時点でなんだかもう信用できそうだ。 「国語」と「文学」は共通するところもあり、定義付けは難しいが、あくまでも筆者のスタンスは「国語」=学校で読む小説と定義されていた。第一章でそのようなスタンスを示してくれたのはありがたかった。 第二章では、夏目漱石の「こころ」をスポーツ科の学生たちに向けて授業をしたときのお話がメイン。特に印象的だったのは、教科書に採用される文学作品の条件として、「構造のわかりやすさ」が重視される点だ。「こころ」は作品の一部を抜粋しているが、私とKと静の三角関係という非常にわかりやすい「枠」があり、スポーツ科の生徒もその構成を捉えることで「こころ」を読んでいた。 その「構成」捉える手立てとして、要約や人物相関図、単純化などが挙げられる。自分が授業をする際、心情の変化や表現の工夫などに気づかせたいあまり、物語の大枠を掴ませる手立てが弱いときがある。話の大枠は一度読んだだけでわかっているだろうと。しかし、そこにこそ罠があり、40人が同じ日本語を追いかけていても同じ物語を読めているとは限らない。物語の「構造」を掴ませるために丁寧すぎるくらいに時間をかけて取り組ませるのも大切だと思った。 特に、近年の生徒の読解力というか物語と向き合い理解するための集中力の低下を考えると、こちらがもう少し寄り添うところなのだろう。 矢野さんが考える授業の組み立て方も参考になった。第一段階として、まずは物語の「構造」しっかりと掴ませ、一見、わかったつもりにさせる。そして、第二段階として、物語によってもたらされる期待を裏切らせること。「こころ」でいえば、Kが自殺したのは、私が静と結ばれることを知ったKがそのショックで行動を起こしたと決めつけるのではなく、Kが信仰深い性格であったこと、向上心のないやつは自分なのだとK自身が思ってしまったこと、その自分の信じていたものを裏切ってしまったことによる行動だという視点。このように、「構造」的には三角関係のこじれが原因のように思えるが、よく読むとそれだけが原因ではないことが見えてくる。この授業ならば、スポーツ科の生徒も驚きがあるだろうし、文学って楽しいなと思えるだろう。 第三章では、「少年の日の思い出」を「語り手」の問題に焦点を当てることで作品の魅力が見えてくるという。額縁構造(もどき)であり、客=僕という「語り手」の構造は中1にしてはやや難解である。教育出版の教科書の「語り手」の解釈は興味深い。客=僕が私に話した内容を私が語りなおしているという解釈。物語後半の僕の葛藤にも私の解釈が含まれているという大変ややこしい解釈だ。確かにこの教材の最も大きな特徴として、盗みを働いてしまう瞬間の僕の心の揺れ動きが丁寧にかつ臨場感を持って表現される部分だろう。その点において、語り手が大人になった僕が話しているとするならば、それはそれで怪しい部分が出てくる。盗む気はなかったという割に用意周到感は否めない。ここで、中動態という考え方を筆者は持ち出すのだが、正直、本著の中で最も興味が湧いたのが中動態である。「少年の日の思い出」を読み解くための手段として提示された1つの要素に過ぎないのだが、この中動態の考え方に興味が湧いたので即座に國分さんの中動態についての本を買ってしまった。 というように、思いもよらぬところに思いもよらぬ出会いは転がっているのだと少し嬉しくなった。まさにセレンディピィティである。 第四章以降は未読だが、それなりに楽しめた一冊であった。 - 2026年9月26日
読み終わった買った阪神の監督といえば、岡田監督。そう思う人は多いだろう。自分もその1人。生まれた時から阪神ファンだが、2023年の優勝は本当に神がかっていた。 岡田彰布監督ほど人間的な魅力に溢れる人はそうそういないと思う。独特な言い回しや口癖、ユーモアセンスもさることながらその根底にあるのは勝負に徹することかもできる強さ、そして阪神タイガースへの底しれぬ愛情だろう。 岡田監督を親しい距離で取材してきた西岡さんが書かれた本著。非常読みやすく、熱量が伝わるような書き方で400ページ以上あるがあっという間に読んでしまった。 やはりすごいと感じたのは岡田監督の本質をつく研ぎ澄まされた野球観。特に、守備からチームを作り、エラー数を気にするのではなく、取れるアウトを確実に取るために連携プレーを徹底する。一つ先の塁に行かせない。思い返してみると2023年の阪神の守備は質の高い中継プレーと中野、木浪によるダブルプレーが多かった印象が強い。また、一点を確実にとるという手堅い野球。奇策はほとんど用いず、打順に応じた役割を求める。2023年の打線で突き抜けた成績を残した選手はいない。佐藤輝明も20本くらいだった気がするし森下もチャンスに強いが率を残しているわけではなかった。「追い込まれてもベースの大きさは変わらない」とフォアボールの重要性を説き、それぞれの役割に応じたプレーが徹底できていたからこそぶっちぎりで優勝できたのだろう。投手力はそもそも高かったが、打線に波があり、勝ちきれなくて2位や3位で終わる阪神の姿はなく、常に優位に試合を運べていた。 選手とのコミュニケーションを直接取ろうとしないのも岡田監督なりの考えがある。組織である以上、特定の選手に対する情は時に全体のバランスを乱すことになる。あくまでも選手を駒として扱い、チームが勝つための采配をする。 全ての選手が岡田監督のスタイルに合ったわけではないが、全く気にする素振りも見せず、自分の信じた道をいく。そして結果を出す。 だが、本作を読んでいると選手を駒として考えているというよりはむしろその選手の未来のことまでしっかり考えているように思えた。選手の特徴に合った役割分担や指導するときはこっそり指導したり、4番の大山を5番に降格させるときには、他の選手も打順を替えたりすることで「自分だけ」と思わせない選手心理を考えた配慮。選手への愛情を感じる監督でもある。 印象深かったのは2024年のキャンプ始めで「今年は選手の力で勝つ」と言った選手に対して岡田監督が危うさを感じた件だ。それは裏返せば2023年は「監督の力で勝った」と選手たちが思っているということ。岡田監督は「監督の力だけでも選手の力だけでも勝てない。団体競技である以上は」と述べている。奇しくも2023年ぶっちぎりで勝ったことが選手の個人的な責任感を助長する結果になったことは2024年のシーズン始めでは誰も予想できなかっただろう。 伝説的なシーズンの2023年、うまく歯車が噛み合わなかった2024年。勝ち方も負け方も知った選手が戦う2026年。2025年は、藤川監督のマネジメント能力がふんだんに発揮され佐藤や森下が覚醒。村上の復活、石井の日本記録などで史上最速優勝。2023年岡田政権を見ているようだった。そして、2026年現在、M4。2位巨人とのゲーム差2.5。戦力差を考えればもっとやれると思うかもしれないが、連覇の難しさ、歯車が噛み合わないながらも優勝争いをしているのは2024年に似ている気もする。あのとき連覇ができなかった選手たちが多く残っていることが、何よりの財産だと思う。岡田彰布監督が残した2年間。選手の意識を変え、勝てるチームのメンタリティと育て、阪神タイガースを38年ぶりの日本一に導いた。その功績は退任した後も阪神の根底に残り続けている。やっぱり岡田監督が大好きなのだと改めて思えるような一冊だった。 - 2026年9月16日
多類婚姻譚凪良ゆう借りてきた読み終わった結婚に関する短編集。 【Thank you for your understanding 】では、同性愛をテーマにした作品。「わたしの彼女」と言われて驚いてしまったということは自分の中にも恋人=異性愛であることが前提としてあったのだろう。最近よくある展開で食傷気味だったが、同性愛を受け入れ自分らしく生きていこうという展開にはならなかった。 母親の「それはあなたたちの傲慢」という言葉から繰り出される正論の数々。「自分たちのことを1番特別視しているのはあなたたち自身」。確かに、自分たちをわかってもらおうという気持ちが先行して、人と人同士の気遣いの面が抜け落ちていた2人。形式的な付き合いより自分たちに目が向いていた。「多様性だなんだの前に人と人」とSUPERBEAVERの「切望」の歌詞を思い出す。形式的な気の遣い合いに意味なんてないような気もするが、相手のことを考えて行動したり準備したりした想いは残る。自分に当てはめて考えても「それっている?」と思うことも多々あるが、形式的な付き合いがあってこそ深い付き合いにつながるのだろうなと思った。 一方で、2人の苦しさも伝わってきた。「異性が好きな理由を説明できる?」と父親に言い放ったセリフ。確かに、異性が好きな理由を説明できないし、同様に自分が同性が好きな理由も説明できない。当たり前のように好きなることに理由を求められても難しい。異性愛を「普通」と決めつけ、同性愛を「異端」とする風潮から段々と同性愛は「配慮してあげなければならないセンセーショナルな問題」と対応されることに対する歯痒さ。わかる側とわかってもらう側に住み分け、もちらんわかる側の立場が強い。その理由は多数派だからにすぎない。数が多いということはそれだけで強いときが存在する。わかってもらうことになることがわかっているから、話す土俵に身を置かない。秘密主義者だと言われていたが、そうならざるを得なかった苦しみがある。 それにしても、同性愛というテーマは難しい。小説や有名人ならば、そうなんだで終わるが、自分の身近な人ならそうはならないと思う。 やっぱり「普通ではない」という思いが出てきてしまうだろう。結婚→出産→子育て→次世代への一生のサイクルが当たり前となり、令和で多様性がどうのこうのと言われても、やっぱり街にはお父さん、お母さん、子どもの家族で溢れている。大きな視点で見れば、出産して次世代をつくることが人類存続のためのひとりひとりの役割となる。ということは、同性愛者はその一般化された見えないレールから外れたことになる。作中、2人は自分たちだけが幸せであればそれでいいと願うが、自分たちの幸せのために、人と人とが関わるための大切な気遣いが抜けてしまったという話。最終的にはハッピーエンドでよかった。母親が家に来たとき、「またか…」と思ったけれど、ここまで正論をしっかり言うとは… 昨今、取り上げられがちな同性愛の問題。それ以前の人と人との関わりの大切さに目を向けた素敵な短編であった。 【Beautiful Dreamer】では、田舎から都会に出てきた27才女性の葛藤が描かれる。最初こそ花織頑張りすぎだろ…と思っていたが、夢見て努力してその生活を手に入れている姿は素直に素敵だし、仕事もできる。ただ、やっぱり自分は東京生まれの恵まれた人たちよりも下の立場だと思っているからか常に有意に立とうとする姿が痛々しくも映る。彼氏の恵斗もきっと悪気がないんだろうが遅刻や突然のキャンセルは多い。育ちがいいから何に対してもおおらかで許された環境で育ってきたのだろう。決して花織を雑に扱っている訳ではないと思う。それでも2人がすれ違うのは前提となる生活経験が違いすぎるから。個人的に花織の立場だったら辛いのは途中、恵斗の友達カップルと夕食を共にする流れになったこと。2人も悪気はないのだろうが、自分なら「この人たちは世界の中心が自分だと思っている…」と感じてしまうだろう。花織はよくあの場の雰囲気に合わせたと思う。どうか花織は報われてほしい。そのために自分でつくった理想の自分でなくても充分魅力的だということに気づけるといいのだが。 【小鳥たち】が1番好きな雰囲気だった。なんというか越智くんも一葉も40を過ぎても悩んでもがいている。日々を懸命に生きている姿に心打たれた。「メンタルがやられると文字が読めなくなる。系統立てて考えることができなくなる」「贔屓の飯屋、贔屓の喫茶店、贔屓の飲み屋があれば日々はなんとかなる」不思議と心に残る言葉が多かった。自分はどんな40代になるのだろうか。20代のとき、31才はもっとずっと大人なように思えていた。でも、自分では20代のころとなんら変わっちゃいない。でも、世の中からの見られ方はなんとなく変わってきたように思える。後輩に子供がいたり、コンサートに行くと明らかに周りが若い子だったりする。自分だけ世の中から少しだけ取り残された感を覚える時がある。仲の良い友達も近くにはいない。ゆきちゃんがいるから自分が自分でいられるような、そんな気がする。子供がいなかったら思い切って突き抜けようと考えたりはするけれど、それは子どもができないかもしれないという可能性としてある未来から目を背けているだけだというのもわかっている。漠然した不安は日々付きまとう。が、「小鳥たち」に出てくる登場人物は皆、なにかうまくいかなかった人たちだ。それでも何も思わないどころか、懸命に日々を生きていて凄いと思う。生き方はそれぞれあるのだと少しだけ元気をもらうことができた物語だった。 【position talk】は1番ムカつきながら読んだ作品。とにかく「男だから〜」「女は〜」と主語が大きすぎる。いや朱里の気持ちも律の気持ちも言わんとしていることは分かるんだけど、スケール感が大きすぎて何も生まない。話し合っててもお互い疲弊するだけ。律が言った「男ではなく、佐々木律という『個人』」が全てだろう。 それに対して「でも律は『男』だよ」という朱里は本当にもう救いようがない。結局、何かを理由にして怒りをぶつけたいだけ、スケールの大きい会話の影には自分が異動になったという本当に小さい自分を守りたいだけ。律も律で主張が無さすぎてムカついてくる。第3の視点で正論まがいなことを言うから、かえって朱里をヒートアップさせるのに…まあ、これに関しては自分もそんなところがあるから強くは出れないけれど。にしても読んでいて両者共にムカつくなんて… 【C’est la vie】では、著者の「汝、星の如く」に出てきた「いつでも自立できる状態にしておくこと、それが自分の人生を生きること」を思い出した。祥子は一流の料理人として尊敬されており、いざとなれば自立できる状況。ただ、坂元が好きだから一緒にいるだけ。周りからはなかなか理解されないのも無理はない。側から見れば、明らかに都合のいい女性である。それをわかって愛人関係を続ける坂元。妻子がいるのに不倫をする坂元は「こういう人だから」と言われるような男性であろう。不義理でも、「そういう人」で、なぜか許される人は一定数いる気がする。天性のモテ要素なのだろうか。 終盤、祥子が後輩の渚と同列に扱われたと感じたことで坂元との関係は破綻する。祥子の中で自立できる要素が料理人という仕事であり誇りでもあった。仕事とプライベートを分けてスパッと切れる祥子はかっこいい。でも、もう少し早くてもよかったんじゃないかなと思ったりもする。 タイトルの通り5つの恋愛、結婚観を垣間見ることができた。共通して言えることは、完璧に全てを手に入れている人などいないということ。そう見せかけている人はいてもみんながみんな何かしらに悩んでいる。他者から見れば理解不能なことや小さな悩みであっても、当人からしたら大きな問題なのだ。だとするならば、逆もまた然り。自分で大きな問題だと捉えているが意外と大したことなかったりすることもある。短編集として非常楽しめた一作。 - 2026年8月22日
読み終わった買った自分の1番の趣味である「ウイスキー」 もちろん飲むのも楽しいが、なにより魅せられたのはその製造過程。糖化、発酵、蒸溜、そして樽熟成。3年以上待ち、そこからブレンドして消費者である我々の手に届く。作り方自体は同じなのにつくられた地域や環境によっても味わいが違う。突き詰めれば、貯蔵庫にある隣同士の樽ですら味わいが違う。本書でも書かれていたが、時間にするとウイスキーづくりの99パーセントは樽熟成。残りの1%に工夫を凝らす。そんな「つくる立場」からウイスキーを知りたくて、本書を手に取った。 もともと三郎丸蒸溜所の稲垣さんの存在は知っていた。動画で見た限り本当に失礼だが、冴えない人という印象だった。が、本書を読み進めていくうちにここまで聡明にウイスキー界の未来を考えている作り手は日本中探してもいないのではないかと思うようになった。稲垣さんごめんなさい。 本書はタイトル通り入門書であり、ウイスキーラバーであれば必読書である。第二章の日本のウイスキーの歴史では初めて知る事実も多くあり、現在のウイスキーブームに至るまでの紆余曲折を知ることができた。第五章からは三郎丸蒸溜所の歩みが描かれていた。一本のドキュメンタリー映画を観ているかのような稲垣貴彦さんの苦悩と熱量、現状を打破しようとする覚悟、そしてウイスキーが何よりも好きなことが伝わってきた。鋳造型のポットスチルZEMONの制作秘話では、稲垣さんと三宅製作所との偶然の出会いや老子製作所との二人三脚、そして三郎丸蒸溜所の特許とすることなく、権利を富山県とシェアしたことへの心意気。ウイスキーを一時のブームで終わらせるのではなく、日本の文化の一つとして確立しようとするその意思に感銘を受けた。現に、飛騨高山蒸留所もZEMONを使っており、日本のウイスキー界を支えてくれている。 経営の視点でみるとウイスキーは特殊だろう。莫大な初期費用のみならず、広大な土地と恵まれた環境、そして何より商品がない中でブランディングを進めなければいけない。近年のジャパニーズウイスキーは品質はいいが高価であり、一部の消費者しか手に届きづらい。キャッシュを確保しながら熟成も進めなければいけない厳しさが価格に表れている。おわりにも述べられていたが、企業間の競争を中心にウイスキー産業を考えてしまうと結局、クラフトディスティラリーは潰れてしまう。持続可能なサイクルを作ることができるように樽を買い取るボトラーズを増やし、蒸溜所がキャッシュを確保しながら操業できる仕組みを日本全体で整えていくことが大切だと思う。 一方で、日本洋酒酒造組合が制定した「ジャパニーズウイスキーの基準」の法整備化が難しいこともわかる。日本のウイスキーの文化的な価値を守るためにウイスキーの基準をスコットランドに合わせる努力は大きな一歩だが、それ故に、ジャパニーズウイスキーを名乗れる品質まで各蒸留所が耐えうることは簡単なことではないと思う。やっぱり企業間競争を超えた文化的な輪のような空気感がないと厳しい。法整備化が進まないのもおそらくジャパニーズウイスキーの品質や世界的評価は誰しもが知ってはいるが、ウイスキーが根付く土壌が日本にはあまりないのであろう。日本酒がある以上やはりウイスキーは海外からのお酒というイメージであり、繊細な日本の和食と度数の高いウイスキーがマッチするかと言われればそうではない。もちろんハイボール等、多様な飲み方ができるのが特徴だが、その特徴が故に日本人にとってウイスキーは好きな人が飲む趣向品であることに変わりはない。 ネガティブな方向に話が流れたが、個人的にはウイスキーは大好きだし、もっと世の中に浸透してほしいと思う。改めて本書は入門であり必読書である。満足度の大変高い一冊だった。 - 2026年7月26日
それがやさしさじゃ困る植本一子,鳥羽和久読み終わった買った読むのが怖いと思った。でも、ページをめくる手が止まらなかった。同じ教育者の立場として何度も何度もどきりとさせられた。心臓を掴まれているかのような、そんなヒヤりとした感覚。 短いエッセイと鳥羽さんの日記で構成される本書だが、心に残る箇所がそれはもう数え切れないくらいにあった。 本書の核となっている「やさしさと配慮」。平成も「配慮」という言葉はあっただろうが、ここまで一般的に使われる言葉ではなかったように思う。「配慮する」ということは相手を思いやりできる限り、嫌な気持ちにならないように傷つかないようにする「やさしい」行為。その一方で、あらかじめトラブルや衝突を回避することで、「配慮しているのだから」という息苦しさや責任は全てあなたという構図が生まれると鳥羽氏はいう。実際、子供たちをみていても本当に優しい子が増えたように思う。しかし、それは「配慮」の名の下に相手と深く向き合ったり傷つけたり傷つけられたりする経験を最初から避けているようにも思える。自分のわかる範囲内でしか他者と接することをしない。タイトルの「それがやさしさじゃ困る」というのは、令和の人と人との関わりに警鐘を鳴らしているのではないだろうか。 さらに、本作のテーマとして「揺らぎ」の重要性が挙げられる。無意識のうちに、正解を見つけようとしたり世の中の風潮によって作られた既成概念を持ったまま子どもと接したりしている大人。そこに悪気はなくむしろ子どもたちのことを深く考えるからこそ。しかし、鳥羽氏は大人の悪気なさが子どもの挑戦しよう前に進もうという気持ちを奪っていることもあるという。受験や進路と向き合っている子どもに対してで親ができることは「待つこと」「一緒に考え揺らぐこと」「他愛もない会話をすること」「美味しいご飯と安心できる場を保証すること」勉強のやる気や方法、不安を煽ったりあなたは〇〇だからと決めつけることではない。親は、自分の子どものことが誰よりもわかると決めつけないこと。子どもはわからないものだし、自分が思っている以上にその先を見ている。教師もそのように考えないと子どもを苦しくさせてしまう。僕は、「不安を感じるということは何かを成し遂げたいからこそ自然と出てくるもの。だから不安を受け入れてそれをエネルギーに換えてほしい」と常々伝えていた。でも、鳥羽氏が「不安そのものに押しつぶされる子もいる」と述べていて、はっとした。みんながみんなそんなに強くないんだと。僕の話を聞いている生徒の中にも「他者からの与えられる不安」に押しつぶされそうになっていたのかもしれないと反省した。もちろん、それで頑張ろうするきっかけになる生徒もいるから伝える場や伝え方って難しい。 三者懇談会や面談でも、子どもの意思を中心に聞いてしまいがちだが、10代のうちに自分の意思でなにかを話すことができること生徒はほとんどいない。そのことを頭に入れておかないといけない。現代社会は「あなたが決めたんでしょう?」とあたかも自由な環境で決められたように思わせるが、親や社会の見えないレールのようなもの子どもたちはそれを察して、「決めているようで決められている」もどかしさを感じているように思える。だから、「とりあえず大学に行きたい」と自分の意思かのように言う生徒はきっと、そんなもどかしさを抱えているのではないだろうか。もちろん、鳥羽氏によれば、「とりあえず大学に行く」「高校に入ってから考える」は子どもにとって立派な意思表明。思えば大人である僕たちもそうやって漠然な意思でここまできたはずなのにね。 書きたいことや思うことはいろいろあるが、定期的に何度も読み返しては考えなければいけないそんな一冊だった。 - 2026年7月11日
ファイア・ドーム(下)辻村深月読み終わった買った読書ペースがかなり遅く読み終わるまでに3週間ほどかかってしまった下巻。 全体的に下巻は静かに読者に訴えかけるようなそんな印象を受けた。展開的に派手な場面は序盤の巽と子供たちの場面くらいのもので、その後は透真のパートを中心に据え、事件後の影響と未来について語られている。 光太郎を攫った犯人は本間先生だった。どこか怪しい雰囲気は上巻からあったものの直接的に関わっていたのには驚いた。ましてや実行犯。噂に踊らされ、光太郎を攫う選択をしてしまった本間先生だが、悪人という印象は全く受けず、むしろ「晋也くんを忘れない会」を続けるなど生徒も想いのいい先生である。本間先生視点のパートは胸が苦しく、特に晋也くんにとっては辛い家庭状況と親の意向が本間先生にとってはもどかしかったのだろう。「本間先生お節介だな」と思っていたが、独白パートを読むと本間先生自身は悪くないのではないかと思えてくる。もちろん、何も関係ない光太郎を目の敵にするのはいただけないが、魔が差したとあるように根は本当にいい先生なのだろう。 下巻は透真パートが多く、久我の息子と忠治が対面する場面は非常に丁寧に描かれていた。自分の娘を殺した人の息子と向き合う忠治と好美は何を思ったのだろうか。息子たちは悪くないと思いながらもぶつけようのない怒りを感じている。同時に久我の息子2人も父親によって呪いをかけられた人物。忠治に会って話をするまでにどれほどの葛藤があったのか。仮に自分が同じ立場になったとしてもきっと向き合う選択はできない。このパートに出てくる人物たちの胆力には驚かされた。 本作のテーマは悪意のない悪意、つまり噂話の恐ろしさだったように思う。美冬や本間、忠治は直接的に噂話に身を削られるような思いをした。忠治の時代の新聞や町の噂話から現代のネットによる噂話。この先、デジタル化された世界では噂が噂である時間はすぐに過ぎ去り「ほんとうの話」として人々の手元に収まる。だめだとわかっていても、あくまで噂話だからと軽々しく話してしまう。そう話されると真実な気がしてきて、また誰かに話してしまう。やはりこの先も人間である以上そのサイクルは続くのだろうな。 1つ残念なのが、書店で展開されているポップがあまりにもミステリー小説として推しすぎている。ミステリーとして読むと本間先生が犯人だったくらいしか驚きはないし、予想できる範囲。わかりやすい謳い文句なのだろうが、ミステリーだと思って手に取った人からしたらあまりに重いヒューマンドラマやないかいと突っ込まれるだろう。噂話を中心に巻き起こる登場人物それぞれの葛藤や向き合い方を楽しめるならば本作は良作であろう。 - 2026年6月20日
ファイア・ドーム(上)辻村深月読み終わった買った上巻だけで読むのが辛いくらいに重い話だった。噂話が至る所に飛び火する。悪意のない悪意。スノードームのように揺らせば街を覆い尽くす。まさにファイアドーム。 本作はさまざまな人物の視点から語られる。25年前の事件の概要を説明するパート。行方不明になった光太郎の担任の美冬、その恋人、記者の透真、美冬の担任の生徒の速斗、そして25年前に娘を失い、今回は孫が行方不明になっている忠治。多視点で1つの結末に着地する物語は感情移入しずらいキャラクターが出てきがちだが、本作はどのパートもそれぞれの個性があっておもしろい。強いて言えば、透真のパートは物語を展開させる部分なため、やや淡白。 一方、中盤の美冬のパートには胸が苦しくなるほにリアルだ。小学校ではないが同職として本当に職員室内の雰囲気や学校の体制が事細かに描かれていた。副校長の小池や教育委員会の人たち。とにかく穏便に済まそうとするが故に、まず切られるのは美冬だ。序盤、美冬の仕事ぶりは本当に丁寧で2年目の教員とは思えないほどしっかりしており、向上心もある。光太郎に「早く帰るんだよ」と声をかけただけなのも勤務時間外だから当たり前のこと。むしろしっかり声をかけるだけでもえらい。なかなかできないんだよな。しかし、鍼灸院に行っていたことがエステに行っていたと報道されて、美冬先生全体のイメージ像が変わる。校長室へ呼び出されたときの刺さるような目線や空気、息をするのがしんどくなる感覚。仕事でミスをした時に辛いのはその後、周りが自分のことをどう思っているのかまで考えてしまうところだ。美冬の場合は、ネット全体からも攻撃を受けてしまった。たまに、「何も事情を知らない人から何を言われても平気」という人がいる。メンタルが強いことの一つの要因のようにも思える。しかし、実際に強い言葉でバッシングを受けたり、言われるべきことと関係のないことまで言われたすると知らない人であっても心は疲弊していく。強い言葉は誰が言うか以上に誰が言っても強い言葉になる。 さらに、鍼灸院の悪意のない行動。事件の渦中にいる特別感からか他人に話してしまう。その上、美冬に対して「助けようか」と声をかける。難しいのはこの人は何も悪くはないということ。ただ少しだけ、想像力が足りないだけ。責めることもできない。行動そのものは善意に満ちているから。 山極寿一さんの「人は印象をもとにそれを誇張したり脚色したりして他人に伝えたがる性質がある」という言葉を思い出す。本作のテーマはこれだと思う。みんな何かあったとき、それを伝えたいのだ。少し誇張して伝えたい。そこに悪意はなくただ伝えたいだけ。それが人間誰しもが持つ性質なのかもしれない。噂話はなくならないし、「〇〇って実は〜」とか「本当のところは〜」とか言われるとどうしても信じてしまう。 25年前の事件。小学生の行方不明事件は受付嬢誘拐事件の隅に追いやられた。報道や噂がエスカレートするあまり誘拐の代わりに保険金を掛けていたというとんでもない話にまで発展していく。発信者は実在しない。自分発信で言った人間はいない。だから責任もない。 美冬に対して感情移入しすぎて読むのが辛かった。下巻では少しでも報われる結果であってほしい。もちろんそれは忠治もだけれど。 話の展開としては、終盤で速斗と一樹の小学生コンビがヒヤヒヤする展開をつくってくれてはいる。25年前の事件と現在の行方不明がどう関わってくるのかがキーになるが、もはや真犯人が誰がはどうでもいいくらいにはテーマが濃い。展開やオチに頼らなくとも人物の背景や描写、テーマで読ませる小説が力のある小説だと思っている。下巻も楽しみだ。 - 2026年6月5日
借りてきた読み終わった書評本の書評は難しいが、やっぱり紹介系の本は自分には合っていないことを再確認できた。 色々なことを広く浅く知ることができるが、どこか勉強みたいに感じてしまう。ハウツー本を読んでいる感覚に似ている。やっぱり、物語に触れ思いを馳せることが読書の醍醐味の一つだと再認識されられた。 肝心の内容についてだが、今をときめく三宅香帆さん。なんというか早口オタク感溢れる文章で(いい意味で)テンポよく読むことができた。あくまでも読書習慣のない人、中でも中高生をターゲットにしているのだろう。一部界隈で三宅香帆アンチを見かけたことがある。アンチは彼女になにを求めているのだろうか。彼女はきっと読書をあまりしない人たちに向けて読書の楽しさを伝えようとしている。それがあまりにもライトな文体なだけだ。内容も深くまでは踏み込まず表面をなぞるに過ぎない。その浅さで勝負をしているのだからそこにムキになるのは滑稽というか。中学生の大会なのに全日本の審判がついて細かいところを指摘してくるみたいな興醒め感。「ここではその程度でいいんだよっ」と言いたくなる。 ただ、今作は小説を面白く読む方法がメインテーマのため、この作品はこう読むとよいと方法論が書かれていた。もちろん、その作品を読むきっかけにはなるが、その本の読み方が分かった上で読むことに読書の楽しみはないと思う。やっぱり、読みながらその世界に没頭できるかどうか、それもできる限り事前情報はいれないことが大切だと思う。もちろん、本作の方法でも読者のための助けにはなるのだろうけれど。きっかけを与えるなら「こう言う気持ちの時はこの本」のように読み方ではなく、読者の状況に焦点を当てる方法でもいい気がする。 ここまで書いたが、前述した三宅香帆アンチのような批評になってしまったかもしれない。真っ向から批評するような作品ではない。適材適所である。 - 2026年5月30日
借りてきた読み終わったタイトルの引きに釣られて読了。全体的に静かな雰囲気で展開も比較的ゆっくりめ。タイトル回収も驚くようなものでもない。ただ、妻が帰ってこないってだけの話。それが「なぜ」かが気になるところではあったが、その理由には肩透かし感が否めなかった。物語の締め方も「え?これで終わり?」と誰が読んでもなるだろう。 だか、考えれば考えるほど、この終わり方にこそ意味があるのではないかと思えてくる。要は、妻の思い込みからくる勘違いが解消される終末。その後は描かれていない。読者からすれば「いや、そんなこと話しておけばこんな大事にならんやろ…」と思ってしまうが、確かに夫婦だからこそ話しづらいことも多くある。なんでも話して共有するのが夫婦の在るべき姿のように思われがちだが、夫婦の間でも知らないこと、話していないこと、わかっているだろうと思っていること、そして勘違いしてすれ違っていること、そのことに気づかずにいることは多々ある。 主人公の暁生も理解のある夫で余計な口出しはしない。一般的に見ればいい夫が故に、夫婦であれどどこか一線を引いているような冷たさも感じる。何でもかんでも介入すべきではないとは思うが、セリフの節々に、相手に委ねる発言が多くみられた。自分はどうだろうか。腹を割って話ができているだろうか。自分の悩みや愚痴を相談するのは苦手だ。自分の中で消化しようとしてしまう。きっと玖美は暁生の思いを知りたかったのではないだろうか。本当はどう思っているのか聞きたかったのではないだろうか。玖美が帰ってこないことにイライラしながら読み進めたが、自分の子供のことを言い出せなかったのも暁生が本当はどう思っているかを知るのが怖かったからだと思う。一心同体のような夫婦もいれば個人を尊重しあう夫婦もいる。ガラス細工職人の「夫婦は熱すぎても固まらないし、冷えすぎると割れてしまう」 夫婦関係には答えはないということだろうか。 そして、子どもを持つ持たないの話。生物学的に判断され、できない人、できる人がいる。残酷だと思う。自分もその不安の中にいる。それ以上に妻の方が不安だろう。不安のバロメーターを合わせる日々や時間やお金をかける日々。 そこから精神的に参ってくる。終わりがないことが1番辛いこと。諦めるラインを決めないといけない。周りを見れば子供がいる。なぜ、自分たちだけ…と思ってしまうのだろう。想像できるからこそ、その状況下での自分がどうなってしまうのかが怖い。30歳でこんなことを言うのも失礼だとは思うが、数ヶ月の妊活でさえ不安はよぎる。今の自分にはタイムリーな作品であった。 - 2026年5月16日
会話の0.2秒を言語学する水野太貴読み終わった買ったゆる言語学ラジオの水野さんの著書。「ゆる」とつくだけあってか、軽快かつユーモアあふれる表現で読みやすい。 第一章では、文脈の解釈として、語用論が挙げられていた。興味深かったのは、「言葉が使われるときに事実そのものを伝えることってめっちゃ少ないよね」とジョンオースティンという人が言っていたことだ。会話のほとんどが「解釈」で成り立つ。「この部屋暑くね?」≒「冷房つけて」となる。言われてみれば当たり前なのだが、確かに英語の教科書における「Do you have a pen?」「Yes,I have」の違和感。ペン持ってる?と聞くならば、それは貸してくれという解釈になる。はい持ってます、で終わる会話などない。 そして、さらに面白かったのがポールグライスが説いた「協調の原理」。人が会話をする中で自然と従っているルールだという。 1 量の公理(必要なだけの情報を与えよ。また、必要以上の情報を与えるな) 2質の公理(間違っていると思うことや、十分な証拠がないことを言うな) 3関連性の公理(相手の発話と関連性のあることを言え) 4様態の公理(不明瞭な表現や曖昧な表現、冗長な表現を避け、順序だった言い方をせよ) というものだ。当たり前だと思うが、どうやら人はこのルールを破って会話をしていることが多いらしい。 その中でも叶響子の例は笑った。「好きなものはなんですか?」の問いに対して「美味しいものです」は、量の公理に反している。お笑いのボケとツッコミも関連性の公理に反していることが多いという。ルールから逸脱しているズレにに気づくと人は笑えるのかもしれない。 そこから発展した「関連性理論」。人は、①自分に関連する情報に興味を示す②処理能力が小さければ小さいほど関連性は高くなるらしい 占いも①の自分に関わる話②基本的にイエスかノーで答える、だから会話のテンポも自ずと上り信じてしまうのだろうか。 会話は暗号解読(事実ベース)で進んでいくのではなく、推論(解釈)で進んでいくことがほとんど。そして、その解釈は関連性理論に関連するかで大きく変わる。 「コミュニケーションが得意な人は相手が解釈しやすいようなヒントをうまく散りばめられる人」だという水野さんの意見には深く納得した。言ったのに(怒)という人は相手が解釈できる言葉や伝え方ができなかったということになる。耳の痛い話だが、この考え方は日々自分の話を振り返る上での大きな指針となる気がする。 【出てきた語用論】 * オースティンの言語行為論 * グライスの協調の原理 * スペルベル、ウィルソンの関連性理論 「言葉には奥行きがある」という第二章。 中でも、「警察は叫びながら逃げる男を追った」が二つの解釈を生むことに言及し、文法はなぜ存在するのかに迫っていた。面白かったのは間違った文法をあえて教えることはないのにも関わらず、子供が文法を自然と守りながら言語を獲得していくことだ。これは前々から疑問に思っていた。単語を獲得するのはわかる。しかし、その単語をつなげて文にしていく過程はどのように行われているのか。そうした疑問を元に、生成文法という文を作るための基本的なルールを定めた。といっても、生成文法は難解のそのもの。イメージしやすいように動詞句と名詞句に分けて樹形図を書いていくらしい。を 「僕の先生は自分自身を好いている」を僕=自分自身と解釈する人はいない。先生=自分自身と解釈するはず。これも生成文法における樹形図で説明できるという。 頭の中で樹形図をもとに言葉など選んでいない。受け取る方でも同じだ。それでも、一瞬の解釈で会話を成立させることができる人間…凄いを通り越して怖いまである。 第三章では、「言葉の意味とはなんだろう?」というテーマだった。ネコの意味は?と舐め腐った問いで始まるのだが、「哺乳類でネコ科、ニャーと鳴く四走歩行の動物」と答えてしまっていた。チェックリスト形式だとそうではないネコがいた時に対応できない。形式意味論では、大まかなカテゴリーの中からその場にあったネコをピックアップする、集合の考え方が活かされる。頭の中で思い描いたネコと目の前にいる実物のネコ。全く違う二匹のネコだが、広くネコというカテゴリーからピックアップするとわかりやすい。 一方、時間や愛など、実態のない概念に対する意味ではカテゴリーだけではなかなか説明が困難である。認知意味論という比喩に焦点を当て、「時が流れる」は、後ろから前に向かっていくイメージのように、時も過去から未来に向かって進んでいく。 また、「近づく」と「近寄る」の違いもおもしろい。両者共に何かに接近することを指すが、 雨雲が近づく→不自然でない 雨雲が近寄る→やや不自然 のように、「近寄る」では主語が主体的な意思を持つものでないと不自然になる。「寄る」と「付く」の違いを見ても「寄り添う」と「付き添う」では言葉の温かみが違う。「寄り添う」の方が意思を持って行動している感覚がある。 「近づく」の意味は両者が接近してその間がなくなること 「近寄る」の意味は、何か意思があって(あるかのように)接近して対象となるものや人に接近すること と言える。なんとなくで使い分けているが比較してみるとこんなにも奥深いとは驚いた。 第四章では、会話にフォーカスを当てた構成。 まずは、フィラー。一般的にはカットされ、会話においてノイズとされがちである。ここでは、「えー」と「あのー」の違い。これはゆる言語学ラジオの本でも取り上げられていたが、やはりおもしろい。「えー」は頭の中で伝えるべき内容を考えている時に使う。「あのー」は相手への伝え方を考えている時に使う。誰にも教わったことがないのにも関わらず、使い方を間違える人はいない。本当に不思議だ。 会話の間もコミュニケーションに多大な影響を与える。特に「いいえ」と答える場合、「はい」と答えるときに比べて沈黙の時間が長いそうだ。1秒答えるのが遅れたら、質問者は「あれ?まずいこと聞いたかな?」「聞き方変えようかな?」と気を回しだす。リモート飲み会が定着しなかった理由も沈黙のラグのせいでコミュニケーションが取りづらいから。確かに、話始めのタイミングと話終わりのターン変更がわかりづらい。 そして、ジェスチャーと言葉の関係。電話の例は本当に心から納得した。ジェスチャーをつけると言葉もついてくる感覚は本当にその通り。ジェスチャーが使えない状況だと、フィラーが多くなることも納得。 こうしたノイズとされがちなフィラーや非言語コミュニケーションであるジェスチャー。こうしたサブ的なものが会話に大きく影響を与えている。 「牛乳を一つ買ってきて。卵があったら6つお願い。」 自然言語の曖昧さを示すジョークだが、文字だけ見れば不完全だが、フィラーやジェスチャー、会話の間を使えば何も問題なく伝わるだろう。 終章では、世界のコミュニケーションの当たり前とか日本の中でも言語感覚は違うことなどバラエティに富んだ内容だった。 なぜ、人は会話と会話の間を0.2秒でできるのか。当たり前に行なっている会話のメカニズムを一つ一つ紐解いていくと「人間まじですげえ…」と空いた口が塞がらなくなる。こんな高度なことができている方が奇跡で、吃音や自閉症の人たちのようにスムーズに言葉が出なかったり、状況に合わせた言葉選びができない方が自然なのではないかと、水野さんの出した優しい答えが素敵だった。 そして、何より心に残ったのは、人文学は「自分と出会い直せる」という言葉だ。理系科目はヒトもそれ以外も同じ法則で扱う。でも、人文学はヒトを中心にする。他者を知り、自分の考え方と比べることで、新たな自分を知ることができる。本を読むことは、他者の考えをインプットすることを目的にするのではなく、そこからどんな自分と出会い直せるのかが本当の到達地点なのかもしれない。「自分と出会い直すため」に学び続ける。学べば学ぶほど揺らぎ、また「自分と出会い直す」。果てのない砂漠をひたすら歩くような途方もない行為なのかもしれない。それでも、力強く咲く花や時々出会うオアシスやすれ違う人。歩き続けないと出会うことはない。何のために本を読むのか、なぜ物語を必要とするのか。今のところしっくりくる答えを見つけられたかもしれない。どこでどう繋がるかがわからないのが読書の面白さなのだろう。 - 2026年4月25日
僕は白と黒の間で生きている。近本光司読み終わった買った1番センター近本。 当たり前のように毎試合聞こえてくるその名前。阪神タイガース不動のリードオフマン。入団からスランプらしいスランプはなく、一定して高水準の成績を残している。阪神ファンからすれば最も信頼のおける選手の1人である。 大体のスポーツ選手の著作は「あの打席の裏側」や「野球に活かすためのメンタル」など野球中心視点で描かれる。スポーツ選手なのでそのフィールドのことを書くのは当たり前なのだが、本作は少し違う。あくまで野球は材料に過ぎず、「考えること」がテーマとして据えられていた。前々から、野球は長く続けない旨を匂わしてた近本。野球そのものよりも考えるプロセスが何より楽しいというその姿は野球以外のフィールドでも成功を収めていたに違いない。 本作で1番心に残ったのは「揺らぎ」という考え方。問題が発生したとき、目を背けるか解決するかの白黒2択で考えてしまいがちであるが、問題を一旦保留し、「揺らぎ」をつくる。わからない、できないからこそ「揺らぎ」が生まれる。それが力になる。教室に入り生徒に話すとき、9年目でも不安がある。毎日毎日、信頼関係がなくなったらどうしようと不安のなか生きている。そうした状況こそ「揺らぎ」であり、だからこそ話す言葉を考える。不安はネガティブなものではなく、成長するためのエネルギーになりうる。不安だから行動する。不安だから考える。不安やわからなさは幸せに生きるための重要な要素だと思う。 だから、「このパターンはこうだ」と型に固執するのではなく、「わからない」状態で存り続けることが大切なのだと感じた。ましてや相手は人。その中でも子供だ。経験則に縛られず、パターンを作らず、「わからない」の中を楽しんで生きようと思えた。 近本自身も嫌いだったコーヒーに楽しさを見出し、「チカブレンド」を開発するまでに至った。 一見、興味のないものにこそおもしろさが隠れているのかもしれない。少しオープンに世の中と接してみようと思う。 そして、近本の抱える矛盾。野球選手でありながら目立つのが嫌い。野球選手らしさというものはあるが、そうじゃない野球選手がいてもいいのではないか。近本は野球選手である前に近本光司という人間としてどう在りたいかで生きているように思える。それが本当にかっこいい。選手としてもそうだが、人間としても尊敬できるところが多い。ひとつ年上とは到底思えない。 近本の今後がとても楽しみな一冊となった。これからも阪神を支えてもらいたいし、野球選手を引退しても社会に貢献する姿を見せてほしい。それにしても、この本を読んだ次の日に死球で負傷交代…大丈夫かな… - 2026年4月19日
暁星湊かなえ借りてきた読み終わった事件に至るまでの人間の機微を丁寧に描く展開は湊かなえの得意な手法。 宗教が絡み出すと途端に物語が重くなりがちだが、本作も違わずかなり重苦しいまま進んでいく。読み進めると何か既視感がある気がしていたが、おそらく「汝、星の如く」の2人に暁と星賀は似ているのだと思う。毒親ではなく宗教という違いはあるが、それは本質的には違わないものであるように思う。暁も星賀も「手持ちのカード」がない。宗教の恐ろしいところは判断力を鈍らせてあたかもその道しかないように思わせることだ。そんな親が子供に与える影響はとてつもなく大きい。実際、「星賀、逃げ出すの遅くないか?」とか思ってしまった。当の本人はそういう状況を客観視できなくなるのだろう。2人とも父親が亡くなっていたり病に伏していたりと母親の方が強い影響力を持っていた。不思議なことに2人の母親のどちらも幸せそうには思えない。金や地位の亡者となっていた。さらに恐ろしいのは、物語終盤で清原(清水)も偽物だと判明したことだ。暁と星賀の中では清原こそ恨むべき対象だと定め、殺人まで犯してしまった。そんな清原も誰かに操られ捨てられる運命。文部科学大臣刺殺事件は世の中に大きな影響を与えるには間違いないが、結局別の誰かが、その座に取って代わり、愛光教会は発展し続ける…結局2人はその輪廻の中のひとつに過ぎなかったのだ。 後半の「金星」でこの作品の本当のテーマは愛なのだと伝えたかったように思うが、如何せん、暁も星賀もキャラ造形が暗い。自ら進んで何かをしているようには感じられず、ぼんやりと考えぼんやりと生きているように感じた。まるでいつ死んでもいいみたいに。もちろん、宗教2世としての宿命を背負われたのだからそうなるのも当たり前なのだが、それにしても暗い。 フィクションとノンフィクションの両観点から一つの事件を深掘る展開は興味深かったが、かえってわかりづらくなっただけな気もする。「暁星」の終章も「金星」を読んだ後をおすすめするほど大したものではなかった。星賀を救おうとする暁に感情移入しずらく、テーマがぼんやりしてしまった印象を受ける。湊かなえははっきりとした落としどころは用意してくれない。その人物なりの救いで終わる。「自分ではどうすることもできないやるせなさの中にある一縷の望みや希望」を描くのが上手い。果たして2人は救われたのだろうか… - 2026年4月2日
借りてきた読み終わった今の自分には眩し過ぎる…そんな小説だった。 あまりにハートフルで優しい登場人物。それ故に物語に入り込めなかったのかもしれない。 本の製本を専門に行う「ルリユール工房」の出会いを通して、まふみが自身の過去を受け入れながら未来へ一歩踏み出す。そんな展開を予想していたが、ややズレがあったように感じた。 南魚庵さんや親方、そして由良子、店長の村上さんなどさまざまなキャラクターにスポットライトを当てる展開でその繋がりが「本」だった。 まふみ自身の悩みや葛藤は関わる登場人物に対するものがほとんどで、自分自身に関することは二の次な印象。主人公であるまふみの内面の成長を期待した分、感情移入ができなかった。六法全書をルリユールすることで過去の自分にケジメをつけたのはわかるのだが、そこの描かれ方があまりにも淡白で、「え、それで終わり?」と拍子抜けしてしまった。挙げ句の果てには、村上さんの好きだった本と死別した婚約者が好きだった本の結婚式というなんとも言えないメルヘンな展開で締めくくられる。一体何を見せられているのだろう…とそう感じずにはいられない… おまけに教員のステレオタイプな描き方も気になった。今どきあんな教員いないよ… よかったところを挙げるとするならば、由良子の「相貌失認」という障害で伏線が一気に回収されるところ。誰も予想できない角度からいきなり差してくる。「相貌失認」は初めて聞いたが、確かに人の顔の区別がつかないのは辛い。まふみの司法試験を諦めることよりも由良子が外へ出たことの方が心が動いた。 長編小説ではなく、章ごとに登場人物にスポットライトを当て、ルリユール工房を通して自分の気持ちを綴じていく展開にすればよかったと思う。 タイトルは素敵で思わず口に出したくなるし装丁も綺麗。登場人物に悪い人はいないし読んでいて心温まる小説ではあったが、登場人物に立体感がなくメルヘンな展開で物語との距離が遠のいてしまった。 - 2026年3月22日
失われた貌櫻田智也読み終わった買った静岡、長野の一人旅道中にてほとんど読み進めることができた。まず感じたことは懐かしさ。 高校生のときに読んでいたミステリー小説のようなド直球の王道ものだった。とんでも展開はなく、帯に書かれているほど賞賛の嵐ではなかったが、本格刑事ものミステリーとしては非常に質が高かった。映画化のイメージがはっきりと湧いてくるようなそんな作品であった。 主人公の日野は地味だが刑事としては優秀で組織に骨を埋める側の人間。要所要所に不器用さが垣間見えるが、娘との接し方や後輩の入江との接し方には優しさとユーモアがあり親しみやすい人物として描かれていた。対照的に、後輩の入江は真っ直ぐな性格で事件を解決したい一心で動く。日野のことを尊敬しているが故に歯がゆい場面もあったように思うが、物語終盤で息が合ってくる。バディものとまではいかないが、入江の存在は物語に推進力を持たせるために必要だったと思う。作中、最もユーモラスでポップに描かれていたのは弁護士の剣菱。持論がたくさんあり、胡散臭さしかないが、どこか憎めない彼は物語の展開においていいスパイスになっていた。彼がいなかったら終始、重苦しい小説だっただろう。羽幌は自分の正義像がはっきりしていた人物。それ故に、警察官として間違いを犯してしまうギリギリのところにいた。真犯人とも言える久美の精神力には恐れ入った。小沼が辻を殺した。しかも、辻加奈と不倫をしていて子供まで妊娠していた。そんな情報を一度に受け、動転するわけでもなく、辻との入れ替わり作戦を提案する。夫を捨てる選択だが、そこに迷いはなかったように思える。久美は夫が失踪したことにより被害者側の立場で描かれていた前半からは想像がつかないほど残酷な決断を下している。子どもである隼人の存在が母親をそうさせたのは自明であり、子供のためならなんだってする母親像が描かれていた。辻(小沼憲)が、久美の供述を受けても自分がやったと言い張るラストシーンは、隼人を人殺しの子どもにさせないため。生まれる前に死んだ存在として罪を被るためだった。本作のテーマの一つに「何を犠牲にしても子どもだけは守ろうとする親」が挙げられるだろう。 確かに、辻が小沼殺しの犯人で捜査を終了しておけば、誰も不幸せにはならなかった。日野もそういうことがわかった上での決断だったのだろう。「警察官としての正しさとは一体なんなのだろうか」それも今作のテーマの一つだと思う。ラストシーンで、「隼人に叩かれた体はもう痛まない」ところから日野の中に、警察官としての自分がやっぱり居て、それに対して苦しんでいるようにも見えた。 物語の展開としては、入れ替わり説は血液型の話あたりから気づいていたから、真新しさや驚きはそこまでではなかった。しかし、聞き込みを中心に話を聞いていく刑事の基本的な手法を丁寧に行い、細やかなズレを伏線とし、綺麗にはめ込んだ素晴らしい作品であった。伏線回収だけならもっと緻密な作品はいくらでもあるが、解決の先に、考えさせられるテーマを突きつけてくるあたりミステリーだけに振ってない、バランスの取れた作品であったといえる。 - 2026年3月17日
PRIZE-プライズー村山由佳借りてきた読み終わったほぼ1日でスムーズに読むことができた。直木賞の受賞に取り憑かれたかのような狂気じみた天羽カインの他者への関わり方は乱暴で自己中心的。こんな人と日常的に関わると息が詰まるだろうなぁと。同時にそれほどまでに1つの目標に向けて突き進むことができるそのエネルギーに羨ましさも感じた。かっこいいなぁとさえ思えた瞬間が何度もあった。 特に、天羽カインの作品に対する姿勢。一切妥協せず、我が子のように大切に大切に世の中に送り出す。作家というものは自分の作品にここまで愛を持って向き合うのかと感心させられた。さらに、その我が子を読む読者や本屋に対する心からのリスペクト。序盤、穏やかなカインが一転して、ペンの太さやらプレゼントの受け取り方やらを編集者に捲し立てる場面。「なにか間違ったこと言ってます?」の一言が強烈だ。間違ったことは何一つとして言っていない。全ては読者のためなのだ。とはいえ…周りの人はしんどいだろうな… 中盤にかけて、千紘とカインが心を通わせていく。距離が近づいていくにつれ、「なんかわからんが危ういぞ…」と不安が募る。千紘の性被害の体験談を小説に落とし込み、その小説が直木賞。しかし、1番近くで助けてくれた千紘を傷つけてしまう。賞よりも身近な人な大切。そんな展開を予想したが外れた。 千紘は編集者として一線を越える。カインに直木賞を獲らせたかったこと以上に千紘自身がカインと同化してしまう陶酔してしまった結果だ。思えば中盤あたりで千紘はカインに気に入られたいという潜在意識が垣間見えていた。独占欲や執着という言葉があったように思う。だった一行でも許さないカイン。直木賞以上に自分の書いた小説が何より大切だというブレない信念。朝井リョウの「インザメガチャーチ」にも類似した展開だと感じた。視野が極端に狭くなった千紘。編集者という立場を超え、千紘という人間として向き合ってしまった。編集者と作家の関係の難しさがリアルに描かれていた。どちらも作品をより良くしたいのは同じ。自分の生んだ子供を大切に思う親とその子供を育てる教師の関係に似ている。教師は親ではない。どれだけ自分が正しいと思っても超えてはいけない一線がある。そのことを改めて思い出させてくれた。 一冊の本が完成するまでに様々な人が締め切りに追われながら、作家と関わり合いながら確認作業を行う。その本が自分の手元に届くまでに書店員が工夫を凝らしてくれている。そのエネルギーを感じ取りながら本と向き合いたいと思った。 それにしても、直木賞の魔力とは何なのだろうか。ニュース速報で出るほど栄誉ある賞。しかし、何がどう優れているかは一握りの有識者(現役の作家)によって決められる。そもそも小説は審査できるものなのか。お酒と同じでどこまでいっても嗜好品の枠を超えないのではないか。ましてや、その善し悪しなど読者の生活体験や価値観が大きく起因するもの。フィギュアスケートの採点もよく分からないが、それ以上に小説の判定基準は曖昧この上ない。でも、だからといって直木賞が不要だとは思わない。一般読者も少なからず盛り上がるし、本への興味の入り口にもなる。受賞すれば否が応でも看板になる直木賞。狙って獲れるものではないことはよくわかった。運やタイミングも大きく左右する。判断基準が他の賞と比較して曖昧。暗闇の中をどこまでも進み続ける勇気と覚悟がいる。そんな状況で「直木賞を受賞したくてたまらない」とその覚悟をオープンにできるカインはやっぱりかっこいい。 もしかしたらありとあらゆる賞レースで最も獲得することが難しいのが直木賞なのかもしれないなと思ったり。 登場人物としては、天羽カインの輪郭がはっきりしており、物語を引っ張る主人公であった一方で、周りのキャラクターの輪郭がややぼやけていたようにも感じる。 もちろん、天羽カインのキャラクターを際立たせるためではあるが、石田も新も「物語の展開上の役割」以上の登場人物としての魅力がない。唯一、千紘はラストの描き方で一気に印象が変わった。最初は、性被害の背景が明らかになった千紘はもう少し深められる余地があったのではないか、ただ天羽カインに魅せられているだけでは?と思っていた。 ただ、「あなたを、許さない」のカードを見た千紘が「この一言が永遠に私だけのものならば許されなくていい」の一言はゾッとした。「あなたを、許さない」は天羽カインはインタビューで救いの兆しがない言葉だ。そのことを知らないにせよ、自分のしたことに罪悪感が無いような一言。編集者としてではなく1人の人間として天羽カインに陶酔していたのだなと。もはや教祖だな。天羽カイン。 村山由佳さんのインタビューを観ているとこの人自身が天羽カインのモデルのように思えてくる…裏では後部座席から蹴り飛ばしているのかな… - 2026年3月13日
熟柿 (角川書店単行本)佐藤正午借りてきた読み終わった途中から読む手が止まるほど、重く難しいテーマだった。本作のテーマの一つは「一度犯した罪から逃れることはできない」ということだろう。 市木かおりは常に怯えながら生きていた。自分の犯した過ちは決して消えることなく心に留まり続ける。世間は忘れてもどんなタイミングで誰が知るかはわからない恐怖。隠したい過去の一つや二つ、自分にもある。でもそれが露見したとき、生活そのものが一変したり人間そのものを否定されたりするようなものはきっとない。一瞬の判断ミスで一生を棒に振る。改めて運転には気をつけようと思った。 物語序盤。かおりは刑期を終えた後、息子に会いたいがあまり度を超えた行動をしてしまう。 結果、一目見ることも叶わなかった。せめて一目見るくらいいいのではないかと心が苦しくなった。ここで息子には新しい母親がいることも知ってより絶望するかおり。普通なら自暴自棄になってもおかしくはない状況で、一度も会ったことがない息子のために「死んだ母」としてお金を残すために働くことを決意する中盤。母親とは子供のためにそこまでできるのかと心動かされた。 中盤、旅館やパチンコ屋を転々とする中で駆けるように月日が過ぎ去る。書かれていない空白の時間もかおりは懸命に生きていて、仕事をしている。その姿を慮ると胸が苦しくなった。一瞬たりとも心から幸せを感じることはできなかったのではないだろうか。自分の過去がバレないかどうかの不安、息子はどうなっているのかを知ることができないやるせなさ、きっと心の中は濃い霧が立ち込めていてそれでも懸命に生きていたのではないか。そんなかおりにどうか救いがあって欲しいと願ってからの斉藤さんがかおりのお金を盗んだときは本当に絶望した。 しかし、終盤に向かうにつれ本作のもう一つのテーマが浮かび上がる。それは「自分のことを受け止めてくれると思えるような他者との出会い」百崎さんをきっかけに介護の世界へ飛び込んだり土居さんとの出会いだったりと少しずつ信頼できる他者ができていく。久住路さんに手紙を書いたのもそんな人たちとの出会いの中でかおり自身の心が開かれていったからではないだろうか。 クライマックスでは、元夫の姿が描かれる。「誰」の電話主の正体は元夫。ここに驚きはなかったが、元夫も自責の念から逃れたいと何十年も電話をかけ続けた。元夫も同じように苦しんでいたのだなと思うが、やはりかおりに比べたら何をふざけたことを…とも思ってしまう。 息子の拓と出会う?再会?するシーンは圧巻だった。とてつもなくリアルで丁寧な言葉が紡がれていた。第十二章は最近読んだ本の中でも特にのめり込んで読んでしまった。「なぜ離婚したのか」という拓の質問。本当は母親にそばにいてほしかったことが伝わってきた。かおりが離婚するに至った決断も拓のことを思ってのこと。どうすればよかったのだろうか。 「一度捨てた子なのに」という拓の言葉に対して初めて感情的になるかおり。本当にそうなのよ。かおりは拓のために生きてきたのだ。それでも最後はまた「次」につながるような別れだった。かおりの「行きなさい」の言葉に胸を打たれた。この辺りはもう言語化なんてできないほどに印象的なシーンだった。 物語の締め方も素敵だった。土居さんが「熟柿」のもう一つの意味「熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つこと」まさにこれからの拓と土居さんとの未来を表す象徴的なセリフであり、晴子おばさん好きだった熟柿とは違う意味の伏線回収は見事。そして、かおりは自分の過去を言い出せないで終わる。「言えば離れてしまう」というかおりに対して「離れない」「言えるときが来るよ」と受け止める土居さん、本当に素敵だ。自分の内面の話をするのがら苦手な僕にとってかおりが言いたいのに言い出せない気持ちはわかる。 誰かに話したときその人の世界から見た自分の印象が変わってしまうんじゃないかと不安になる。それでも熟柿のように焦らなくてもいい、時が来れば話せるのだと勇気をもらえた。 「きっとそうなると、私は信じられた。」の最後の文。土居さんだけでなく、これからの自分のことも信じることができたのだろう。拓とも少しずつ近づいていくのだろうし、土居さんとも暖かなパートナーであり続けるのだろうと微かな希望が持てる締め方だった。 とてつもなく思いテーマだったが、終盤の描写は圧巻だった。年間のベスト本に入る可能性が大いにある素晴らしい作品だった。
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