綾鷹 "コーヒーが冷めないうちに" 2026年8月18日

綾鷹
綾鷹
@ayataka
2026年8月18日
コーヒーが冷めないうちに
過去に戻れる不思議な喫茶店「フニクリフニクラ」を舞台にした、心温まる4つの物語。 「過去に戻っても、現実を変えることはできない。」というルールがあり、過去は変えられないが、その意味合いが変わっていく。 特に夫婦の話がよかった。 若年性アルツハイマーで妻のことを忘れていく夫、看護師としてその夫を支える妻。 忘れていく恐怖、忘れられていく寂しさがありつつもお互いを思いあっていることが感じられた。 自分が妻のことも忘れてしまうことを悟った夫から妻への手紙はうるっときた。 ・若年性アルツハイマーの進行は、年齢や男女、原因や対応によっても人それぞれではあるが、房木の進行は他の事例に比べるとずいぶん早いものだった。 高竹は、房木に忘れ去られたショックを受け止めきれないまま、この場の沈んだ空気をどう すればいいのかもわからず途方に暮れていた。 すると、突然、計がキッチンに姿を消したかと思うと、未開封の一升瓶を持って戻ってきた。 計は「お客さんにもらったの」と言いながらカウンターにドンと置き、「飲みます?」 と、にこやかに言った。目は笑っているが真っ赤である。そのお酒のラベルには「七幸」と 書いてあった。 思いもよらない計の行動で、沈んでいた空気に少し隙ができた。三人の緊張が解けたといっていい。高竹は困惑しながらも、このチャンスを逃すわけにはいかない。 「じゃ、ちょっとだけ…・・・」と、答えていた。 高竹にとっては、場の空気が変わっただけでもありがたかった。計がよく突飛な行動をとる事は高竹も知っていたが、まさかこのタイミングで経験するとは思わなかった。これこそが平井がよく言っている「計の幸せに生きるための才能」なのかもしれない、と感じずにはいられなかった。 ・「コーヒー、冷めちゃうから・・・・・・」 房木はルールの事もよく知っていた。コーヒーが冷める前に飲みほすようにと、高竹を促した。房木は終始、優しい笑顔である。 高付は小さくうなずくだけで、何も言えず、コーヒーカップに手をのばした。 「…」 房木は、高竹の手がカップを掴むのを確かめると、くるりと高竹に背を向けた。 夫婦の時間が終わろうとしている。高竹の目から大粒の涙がこぼれた。 「あなたっ」 高竹は房木の背中に向かって思わず叫んでいた。しかし、房木は振り返らなかった。小さく、房木の肩がえているように見える。 その背中を見て、高竹はコーヒーを一気に飲みほした。 コーヒーが冷たくなりかけていたからではない。その背中が高竹を未来に無事返すための優しさである事に気づいたからである。どこまでも房木らしい優しさである。 「あなた・・・・•・」 高竹の体をゆらゆらとした感覚が包み込んだ。カップをカチャリとソーサーの上に戻すと、カップを離した手が湯気になるのが見えた。これで、あとは現実の世界に戻るだけである。束の間の、夫婦の時間は終わった。 すると、突然、房木が振り向いた。おそらく、カップがソーサーに置かれた音を聞いての行動だろう。 高竹には、房木の目に自分がどう映っているのかはわからない。だが、房木はしっかりと高竹の姿を堪えているように見える。 高竹はゆらゆらと湯気とともに薄れていく意識の中で、房木の口が小さく動くのを見た。 見間違いでなければ、その口はこう動いていた。 「ありがと」と。 ・水は高い場所から低い場所へと流れていく。それは重力による現象だが、人の心にも重力のようなものがある。自分が認め、心を許した相手の前では嘘がつけない。本当の自分をさらけ出してしまう。悲しい気持ちや、弱い自分を隠している時は特にである。 そんな時は、むしろ、他人や、信用していない相手を前にしているほうが楽である。 平井にとって計はすべてをさらけ出せる相手であった。心の重力が強い。なんでも受け止めてもらえる。許される。そんな気がする相手だ。そんな計が差し伸べる優しい一言には、限界まで張りつめた緊張の糸をプツリと切ってしまう破壊力がある。
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