ピエ "草枕" 2026年9月27日

ピエ
ピエ
@pie_202
2026年9月27日
草枕
草枕
夏目漱石
一人旅をする時に、よく読みたくなる本である。岩波文庫版も持っているが、暗い機内でも読めるのでたいていは電子書籍端末で。 有名な「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」に始まり、地の文のテンポが良いため、気が散りがちな場所でも読みやすい。 語り手の画工は、山を越えた先にある温泉地に滞在する。投宿先は立派な家だが、他に客も無く、那美さんという出戻りの一人娘がいる。嫁ぎ先が没落したために自ら実家に戻ってきたと噂され、評判は良くない。近所でも変り者で通っている。気が触れていると言う者もいる。 映画のシーンのように情景が浮かぶ小説というのはよくあるが、この本の描写はむしろ紙芝居のようだ。その静止した画の中で、那美さんだけがやにわに動く。襖をすらりと開けて入ってくる。引き抜いた短刀を閃かす。湯煙をたなびかせ、ホホホホと笑いながら階段を駆け登る。読者は画工と一緒に、呆気にとられて見つめるしかない。 家の主人(那美さんの父)と懇意な和尚さんの言によれば、那美さんも元から芝居がかった生き方をしていたわけではなさそうだ。静止画の中でひとりアニメーションを演じることに決めた彼女は、かっこよくもあり哀れでもある。どこまでも周りに馴染むことが無い。 そんな彼女も、最後には画になる瞬間が訪れる。鎧っていた仮面をふと取り落としてしまったかのようである。画工は無邪気に喜んでいるが、私はどこか寂しさを覚える。結局のところ、私は那美さんのことをちっとも理解できていないのかもしれない。 熊本県は玉名市に、この本の名を冠した「草枕温泉てんすい」という日帰り温泉がある。初めて読んだ十代半ば頃、熊本に帰ると、まだ健在だった祖父がよく連れて行ってくれた場所だ。 きちんと調べたことはないが、あの辺りがこの本の舞台なのだろう。穏やかな有明海に向かう斜面に、みかんの木が一面に植わっている。どこからか逃げ出した鶏が、悠々と道路を歩いている。いまも作中とさして変わらぬ風景である。
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