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ピエ
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@pie_202
スペイン語圏の文学、歴史、美術/英米児童文学 川野芽生/山尾悠子/皆川博子 などを好んで読みます。 今年はイタリア文学に力を入れて読みたい(全然読めてない)。
  • 2026年5月24日
    「差別」のしくみ
  • 2026年5月24日
    犯罪
    犯罪
  • 2026年5月17日
    セファラ-ド
    セファラ-ド
    買った本まで呟くときりがないので普段はあまり書かないが、これは運命的な出会いであったので… 神保町ブックフリマで而立書房に行ったところ、なんとこの本を売っていた…! 最近、『スペインのユダヤ人 : 1492年の追放とその後』(エリー・ケドゥリー編)という論文集を読んでおり、まさかほぼ同年に出版のセファラード(イベリア半島系ユダヤ人)について書かれた本に出会うとは…!と一人で興奮してしまった。 しかもこの本は音楽を中心に書かれているようで、著者のアルカライ収録のカセットテープまで付いている。カセットデッキまだ動くかな… 1992年はスペインにとって象徴的な年だったと聞く。レコンキスタからも500年、コロンのアメリカ大陸到達からも500年、そしてユダヤ人追放からも500年であった。 そのため、セファラードについて書かれた本も多く出版され、その中から日本語訳される本もいくつもあったのだろう。 今だとこのテーマで本が出ることはほぼなさそうだ。イスラエルのせいもあり、アシュケナジムは注目されやすいが…
  • 2026年5月9日
    牡猫ムルの人生観 (下) (岩波文庫 赤 414-4)
    牡猫ムルの人生観 (下) (岩波文庫 赤 414-4)
    え、ここで終わり?と思いながらあとがきを読んだところ、実は次の第3巻も構想されていたが、作者のホフマンが亡くなったために上下2巻となったとのこと… 読み書きできる猫のムルの自伝に、吸い取り紙として使われた楽長クライスラーの伝記が挟み込まれたまま、まぜこぜに出版されてしまった!という建付けなので、クライスラーの物語には連続性がなく、飛び飛びになっている。 クライスラーの話が挿入される度に、前回との行間(頁間?)を埋めるように、間の展開を想像しながら読み進めるのが、頭の体操のようで楽しかった。 段々とムル=クライスラー=ホフマンの人生の浮沈が呼応していくのがこの本の面白さだと思うが、ホフマンの死で物語が尻切れトンボに終わってしまったことにより、この3名のシンクロが完成したような気がしてぞわっとする。話の展開や語り口も楽しく読んだが、この幕切れがこの本の一番の魅力かもしれない…
  • 2026年5月5日
    新装版 苦海浄土
    水俣病公式確認から70年の記事を読んで、そういえばこの本を積んでいたと思い引っ張り出してきた。 私は熊本生まれだが、小学校低学年で東京へ越してしまったので、水俣病については四大公害病の一としてしか知らない。 水俣病や水俣市および不知火海周辺の産業や生活について、自分があまりにも知らないことを少し恥じながら読み進めている。 この本に出てくる水俣の人々の言葉に、(同じく鹿児島との県境にある)人吉の生まれであった祖父の訛りを思い出す。 特に第一章に出てくる仙助老人に、晩年は少し頑固であった祖父の姿を重ねてしまい、ぼろりと涙が出た。
  • 2026年4月30日
    るん(笑) (集英社文庫)
    しばらく積んでいたところ、手持ち無沙汰な折にふと手に取ったら、面白くて一気に読み切ってしまった。さすがは酉島伝法… いわゆるスピリチュアルが世間の常識となり、科学や医療が忌避されるようになった日本が舞台。 スピ系の「あるある」や「ありそう」がこれでもかと描写され、なかなかキツいものがある。 ただ、最後に医師でもある久坂部羊による解説を読むと、「医学」の歴史においても、今から見ると「野蛮」な治療法が数多く行われてきたことの指摘にハッとする。今の我々が「科学的」だと信じているものも、数百年後にはトンデモだスピだと笑われているのかもしれない。 酉島は現実にある社会構造を、SF世界の別のものに仮託して描くのが本当に上手いが、本作もその描写力が発揮されていた。現実にある言葉の漢字を置き換えて読者に作中での意味を読み取らせる、解説不要のオリジナル用語たちも健在である。 更に今作では、人々が疒を忌み言葉として避けたり(病院→丙院、など)、逆に語り手の言葉が疒に侵食されていったりと、漢字で遊ぶ楽しさもありつつ、言葉が穢されていくようなおぞましさも感じてくらくらした。酉島の作品は、つくづく小説でなければ描写できないなと思う。
  • 2026年4月25日
    牡猫ムルの人生観 (上) (岩波文庫 赤 414-3)
    牡猫ムルの人生観 (上) (岩波文庫 赤 414-3)
    好きなTwitter連載漫画『ねこに転生したおじさん』で紹介されており、気になって読んでみた。 読み書きのできる猫のムルが書いた自伝だが、吸い取り紙として原稿に挟んでいた楽長クライスラーの伝記までが一緒に印刷され、ふたりの物語が数ページごとに混ざり合ってしまった…という建付けの小説。 初版は1935年と古臭さのある翻訳だが、そのお陰で、古典ばかり読んでいるムルの気取った性格にうまく合った文体になっている。 ムルは世間知らずで喧嘩も弱い割に、自分の学の高さを鼻にかけている嫌味な性格なのだが、まあ猫だしな…と思うとかわいい気がしてくる。ホフマン自身も猫を飼っていたそうで、仕草の細かな描写に愛情を感じる。 ムルの飼い主であるアブラハム先生がクライスラーの師匠でもあることは冒頭で明かされるものの、それ以外の繋がりは上巻時点ではまだ分からない。 後半にかけて、ふたりの伝記が徐々にシンクロしていくのかなと想像しつつ、今のところはクライスラーの伝記部分の方が面白いので、ムル君頑張れ…!と思いながら下巻に進む。
  • 2026年4月25日
    テラ・ノストラ
    テラ・ノストラ
    フヅクエさんで先日までやっていたページ数割をきっかけに、ようやく読み始めることができた…! 1091ページの大長編、果たして読み終える日が来るのだろうか…と思いながら数年ほど積んでいた本。 ヒエロニムス・ボス「快楽の園」の鮮やかな表紙、「われらの大地」を意味するかっこいいラテン語のタイトル、そして作者はフエンテスときたので、中身もろくに見ずに買ってしまったのだ。 ページが二段組かつ流れを掴むのに手間取っており、10時間ほど読んでまだ180ページ付近…何となく面白くなってきた気がするが、まだどんな小説なのか全貌がまったく分からない。 いくつもの時代や場所に偏在する3人の登場人物、セレスティーナとルドビーコ、そして背に十字架の印を負った謎の人物…かれらが物語の緯糸になっていくのだろうか。 パリの通りで一斉に出産し始める老若あらゆる女たち、夫の遺体と共に霊柩車に乗りスペイン各地を旅する狂女王フアナなど、各場面が幻想的で印象深い。 日本語版は、14〜17世紀あたりのスペインの歴史を大まかに知っている読者を想定して訳されているように思う。注の付け方はかなり丁寧だが、スペイン史において一般的な用語や人物には訳注が無いので、中近世史をざっとおさらいしてから読むといいかもしれない(知らなくてもググれば読める程度)。
    テラ・ノストラ
  • 2026年4月18日
    無声映画のシーン
    無声映画のシーン
    スペイン北部の鉱山町オリェーロスで過ごした少年時代を、30枚の写真を見ながら回想する、という構成の小説。1枚の写真につき1話、想起したエピソードが語られる。 主人公が語る少年時代の記憶の断片から、1960年代のオリェーロスの姿が立ち上がってくる。炭鉱から出るボタ山の黒と、雪の白、この町のイメージは基本的にモノクロである。一転して、鉱山会社からの給料の「支払日」には、サーカスや旅芸人がやってきてのお祭り騒ぎとなり、あまりの賑やかさに笑みが浮かんでしまった。 しかし、そんな楽しげな「支払日」のエピソードにさえも、死の影が差している。リャマサーレスの小説は『黄色い雨』と『狼たちの月』も読んだが、どれも孤独と死のイメージによる静寂に包まれており、悲しいのに妙に心地良さを覚える。この独特の読み味は他には無い。 オリェーロスの坑夫たちは、鉱山での事故や粉塵による肺疾患の恐れに常に晒されている。また、時はフランコの独裁下にあり、少しでも反体制的な言動をすれば誰に密告されるか分からないという不信感が、国全体を覆っている(とりわけ、坑夫たちは内戦時の抵抗から目をつけられている)。 しかしそういった悲惨や不穏は表に出過ぎることはなく、語り手の少年時代の視点が貫かれている。このバランス感覚が絶妙で、改めて描写力に優れた作家だと感じた。
  • 2026年4月12日
    のせごはんとかけごはん
    私は長谷川あかりの信奉者で、あかりさんのレシピを週5以上の頻度で作っている(それ以外の日はそもそも料理をしない日である)。 中でも、最近はこの本に助けられることが増えてきた。 この本は、ご飯に「のせる」もしくは「かける」に特化した、少し尖ったレシピ本である。 全体的に工程の少ないレシピが多く、長谷川あかりの提唱する「きちんと料理する気力は無いが、レトルトや出来合いの気分でもない時に、ちょっとだけやる気を出せば作れる料理」が詰まっている。「普段の料理」と「レンチンだけで作れる料理・包丁を使わない料理」の間に位置するレシピ群である。 最近は料理する気力が湧かないことも多く(そもそもが料理嫌いなのだが)、「2章 卵と豆腐のほっとするのせ・かけごはん」のレシピばかり作っている(これだけだと栄養が偏るので、翌日は野菜や肉魚多めでリカバリする)。 お気に入りは「なすたまのせごはん」、炒り卵と炒めた茄子を合わせるだけだが「家の味」っぽい味付けが絶妙で、掻っ込むように食べてしまう。
  • 2026年4月11日
    奏で手のヌフレツン
    素晴らしい。本当に素晴らしかった!! 酉島伝法の描く世界は、我々が今いるこの世界より過酷な環境にあるのは明らかなのに、なぜこんなに心惹かれるのだろう… この小説は、読み進める中で少しずつその世界について分かっていくのが楽しいので、まだ読んでいない人にはなるべく事前情報を与えたくない。おすすめしたいのに何も話せないことがもどかしい。 私も帯だけ見て「どんな話か全然わからんな」と思いながら読み始めたので、これをあなたに勧める人がいたらどうか信じて読んで…としか言いようがない。読み始めて世界観を掴むまでが少ししんどいが、ちょっとだけ我慢して読み進めてほしい。 まだ酉島作品を2本しか読んだことがないのだが、作中世界の描き方が巧みで舌を巻く。 作中の物の名前は、我々の言葉と音は似ているが別の漢字で構成されていることが多い。例えば、料理に「爽酢(そうす)」をかけて食べている描写がある。この単語だけで、役割としては我々の「ソース」に似ているのだろう、しかし酸味がありさっぱりした味なのだろう、ということが分かる。大量に出てくるオリジナルの言葉を一々説明せず、読者の想像で補完しながら読めるような構成が素晴らしい。 一方で、我々の世界と漢字も音も全く同じ単語が使われている場合、それが必ずしも同じ物質を指すとは限らない。初めはこの世界と同じ球体で想像していたものに、急に足が描写されてぎょっとする、というような楽しさも魅力である。 デビュー作『皆勤の徒』も大好きだが、こちらは1本の長編から成っており時間軸も1本なので、より読みやすかった。平日はあまり本を読めないのだが、通勤時間も昼休みも夢中で読んでいた。というか読んでいない時の記憶がほぼなく、この1週間は作中の「球地(たまつち)」で暮らしていたような気がする。今週の仕事も何してたかほぼ覚えていないので、来週どうしよ…
  • 2026年4月5日
    うたう百物語 Strange Short Songs
    一時期は歌集をよく読んでいたのだが、ここ数年はなぜか詩を読む気力が無くなってしまい…リハビリも兼ねて積読していたこの本を。作者の佐藤弓生は、私が初めて好きになった歌人でもある。 一首の短歌から膨らませた掌編が2ページずつ、100の物語が収録されている。不気味だったり不思議だったり、たった2ページでも引き込まれるような世界が展開される。物語は必ずしも短歌をそのまま解釈したものではなく、この歌からこんな不穏な物語を作り出すのか…!と驚いてしまうものもあった。 山尾悠子や塚本邦夫の歌からは、彼らの小説をオマージュした物語が生まれており、ニヤリとしてしまう。私が寡聞にして気づかなかっただけで、他にもそのような物語があったのかもしれない。 暫く絶版していたが、このほど『短歌百物語』のタイトルで文庫化されるらしい。異なる100人の100首を集めるだけでも大変だろうが、「続短歌百物語」なども出たらよいのに。
  • 2026年4月2日
    ペンギンの憂鬱
    ペンギンの憂鬱
    私はペンギンが好きなので、出てくる小説はとりあえず買ってしまう。 この小説に出てくるペンギンのミーシャは、憂鬱症を患っており、寡黙であまり動かない。しかし動作にどこか愛らしさがあり、この陰鬱な物語世界を想像するのを楽しくしてくれる。一番好きな登場人物を訊かれたら、ほとんどの読者はミーシャと答えそうだ。 売れない小説家の主人公ヴィクトルは、新聞に「まだ生きている人物の」追悼記事を書く仕事にありつく。しかし暫くすると、追悼記事を書いた人物たちが次々に死んでゆき…というストーリー自体は、誰が見てもミステリでも何でもない。この小説の面白さは、話の展開よりもニヒルな人物描写にあると思う。 舞台はソ連崩壊後の不安定なウクライナで、マフィアが幅を利かせ、銃撃音や爆発音にも人々はさほど驚かない。登場人物たちの物分かりの良さは、不穏さの蔓延する社会特有のものだろう。 そんな中でもペンギンをきっかけに交友が生まれ、人生がうまく回り始めたかに見えた前半部と、奇妙な仕事の後ろ暗さに目を背けながら続けていて、何も起きないわけがないよね…という後半部のやり切れなさの塩梅が良かった。 ラストはかなり唐突な幕切れだが、私は割と好きだった。舞台ではまだ劇が続いていきそうなのに、急に幕が下りてしまったような終わり方は、小説ならではのものだと思う。 ペンギンのその後を知りたいという読者の声を受けて、続編も出されたようだが、仮に日本語訳が出ても読みたいと思うかどうか…せっかく下ろした幕をまた上げて気まずい芝居を続けるようなもので、陳腐化してしまわないのか不安だ。
  • 2026年3月26日
    飛ぶ孔雀 (文春文庫)
    先日、母と芦ノ湖で三社参りなどしてきたのだが、その際のお供に持って行った。収録の「飛ぶ孔雀」と「不燃性について」にはどちらも日本の地方都市のような雰囲気があり、それが国内旅行中にこの本を読みたくなる理由かもしれない。 昨年、初めて岡山城に行ったことを思い出す。対岸の中州にある後楽園を見て、「飛ぶ孔雀」に出てくるQ庭園としてイメージしていた景観に近いことに驚いた。実は後楽園自体に入る時間は無かったのだが、後から園内の写真や案内図を見て、あまりに想像していたままのQ庭園であったので、入らなかったことを心から悔やんだ。なお、後楽園には孔雀こそいないが、丹頂がいるらしい。 庭園以外も、この本は全体的に中国地方を思わせるところがある。初めて読んだ時には行ったことがなかったので想起しようがなかったが、今回は、中国山地(瀬戸内海側)の緩やかだがどこまでも連なって続いていく稜線や、川の多い街で橋を渡っていく市電などを思い出した。 宿では早寝の母がさっさと寝てしまった後、乾き物を買い忘れたなと思いながらビールを啜りつつ、この本を読んでいた。山尾悠子の作品には、母系というか女が中心となる一族や集団が多く登場する。今回は母に連れられての二人旅であったことも、山尾の本を選んだ無意識の一因であったかもしれない。
  • 2026年3月22日
    エル・スール 新装版
    エル・スール 新装版
    何となく読みたくなって再読。100ページほどで行間も広いのでさらりと読める中篇だが、この孤独で閉じた世界に浸れるところが好きだ。 ビクトル・エリセの同名映画の原作だが、私は映画の方は観たことがない。同じくエリセの「ミツバチのささやき」と「瞳をとじて」は昨年末に観たのだが、エリセの静かで余白を大事にするような世界観に、この本は更に孤独を深めたような雰囲気がある。 語り手の少女アドリアナとその家族は、村から少し離れた家に住んでおり、(母とお手伝いのホセファは別にして)互いに理解し合うことはなく生きている。しかし読者としての私から見ると、彼らに仲良し家族として団結していてほしいとは思わない。母は夫や娘にこうあってほしいという気持ちを押し付け、娘は母や父の思惑には沿わず育ち、父はそんな家族を顧みずずっと望んでいた死を選ぶ、そのバラバラなあり方がこの家族には相応しいと思える。 物語の終盤、アドリアナは父の故郷セビーリャに向かう。タイトルの『エル・スール』はスペイン南部アンダルシア、このセビーリャを指しているのだが、この場面になると描かれる情景の日差しが強くなったように感じるのは私の先入観のせいだろうか。 私にとってアンダルシアは、明るい日差しを浴びたパティオ(中庭)の中で歴史が眠り込んでいるような場所である。この物語でセビーリャが描かれる場面はとても短いが、まさにそのイメージに沿っており印象深い。 物語自体は短いが、最後に野谷文昭による訳者解説が20ページも付いているのが嬉しい。また、巻末の著者・訳者の来歴に、野谷の膨大な訳書がかなり網羅的に記載してあるのも有難かった。
  • 2026年3月20日
    文字渦(新潮文庫)
    目まぐるしく変貌する文字の渦に取り込まれてしまったかのような読書だった。しかし溺れているような感覚はない。文字たちの語りにはある種の秩序があり、こちらを置いてきぼりにはしない、人間への歩み寄りがあった。 だが、斬新で奇妙な小説ではある。ジャンルとしてはSFなのだろうか…ページをめくった瞬間のビジュアルに思わず噴き出してしまうような箇所もあり、あまり先の方までパラパラと見ずに、初めから読んでいく方が楽しいと思う。 どの短編も、初めは突拍子もないことを言っているように感じる。文字が闘ったり、光ったり、独立運動やスパイ活動をしている。しかし読み進めていくと、実はこの世界で既に起きていること、あるいは普通に起き得ることについて話しているのだと分かってくる。特に、文字による侵略戦争の話である「誤字」が好きだったのは、私がデジタルな文字の方に馴染みがあるからかもしれない(そもそも全体にコンピュータ言語やソフトウェアに関わる話が多いのだが)。 新たな話に入る度に、「次の話は私に理解できるだろうか…」と不安を抱きながら読み進めるのだが、気づけばどれも面白く読んでいた。私は知らない言葉が出てきても一々調べたりせず勘で読んでしまうのだが、高校レベルの教養しかなくてもまあ各話の大意は取れたのではないか…と信じたい。 とはいえ、巻末の解説を読むと、「えっそういうこと!? …ちょっと読み返してきてもいいですか」となることが何度も発生し、全く自信を失ってしまう。どうやら作者本人による解説がWeb上に存在するようなので、少し置いたら次はそちらを見ながら再読してみたい。
  • 2026年2月20日
    ブエノスアイレス食堂
    ブエノスアイレス食堂
    面白かった…! これまで読んだスペイン語文学の中で5本の指に入るほどに好きかもしれない。 表紙は親しみやすそうなレストランの写真に『ブエノスアイレス食堂』のタイトル、小粋なビストロにまつわる物語であることは想像に難くない。しかし小さく書かれた原題は"Manual Del Caníbal"―「食人者の指南書」、この本はカニバリズムを描いたノワールでもあるのだ。 ただ、物語が猟奇的な方向に動き始めるのはラストにかけての3分の1ほどで、私はむしろ先に来る年代記的な部分が気に入った。 ブエノスアイレス食堂の開店前夜から主人公のセサルが生まれるまでの時間の流れを、短い章ごとに繰り返す構成が面白い。各章にテーマがあり、それに沿って数十年の流れが記述される。事実がミルフィーユのように重なり、物語が徐々に堆積してゆく感覚が新鮮だった。 食堂を継承していくイタリア移民たちの描写に、彼らを取り巻く政治や社会情勢が巧みに織り込まれており、20世紀アルゼンチンを描いた時代小説としても興味深く読んだ。 カニバリズムの描写はかなりシンプルであり、グロを期待して読むと拍子抜けするだろう。 恐怖を煽るような描写はない。過剰な暴力や血肉の生々しさを強調する表現もない。牛や豚と同様に解体され、それまでに出てきた他の料理と変わらず、工程が簡潔かつ整然と描かれる。 これまでのレシピの淡々とした描写は、食人においても同じ冷静さで記述し続けるために用意されていたのでは、と思わせる。 読み終えた直後は、割とあっさりした話だったな…という感想を持った。しかしラストをよく思い返してみると、この物語はまだ終わっていないのでは、という気がしてきてぞっとした。ブエノスアイレス食堂の秘伝「南海の料理指南書」はセサルと共に失われたが、セサルが心血注いで書き残したレシピ、おそらくは「食人者の指南書」であろうそのレシピは、まだ食堂に残されたままなのでは…そして次にブエノスアイレス食堂を受け継ぐ料理人が、そこで見つけるのは…ブエノスアイレス食堂の新たな秘伝となる指南書は…
  • 2026年2月8日
    R.U.R.
    R.U.R.
    カレル・チャペックの"R.U.R. (ROSSUM'S UNIVERSAL ROBOTS)"の英訳版を大久保ゆう氏が日本語に訳し、青空文庫に収めたもの。 「戯曲を読もうの会」(ゆーぐれなゆーりんちー様の主催)に参加した折に、第二幕まで参加者みなで朗読した。第三幕は終了後に一人で読んだ。 「ロボット」という言葉を初めて使用したことで知られているが、この作品における「ロボット」は、人間と同じ外見と体構造を持ち、工場で生産される代替労働力というような意味である。人間の労働者の何倍も効率よく働けるが、心や感情を持たない。 そのロボットの生産を一手に担うロボット製作所に、会長の娘ヘレナがやって来るところから第一幕が始まる。この世間知らずのお嬢様の目的は… 人間より安価に働かせられるロボットにあらゆる労働を任せていったらどうなるか…という展開は、今となっては見慣れたものになってしまったが、結末は衝撃的だった。 生命を創り出すという、神に成り代わろうとするかのような行為の描き方は、キリスト教の要素が強い。ロボットの反乱を予防するため、地域ごとに言葉も外見も異なるロボットを創り、彼らの意思疎通を妨げて反目させようとする計画など、バベルの塔の逸話そのものだ。 登場人物、特にヘレナの心情に分かりづらい部分があったが、他の人の朗読の仕方を聞くことで解釈が深まった気がする。 また、掛け合いのシーンも多いので、誰かと一緒に声に出して読むのがとても楽しい作品だった。
  • 2026年2月5日
    ブエノスアイレス食堂
    ブエノスアイレス食堂
    原作が良いのか翻訳が良いのか(おそらく両方だろう)、文章のテンポがよく、ぐいぐいと読んでしまう感覚がある。 言葉で描かれる料理があまりにも美味しそうなのは言わずもがな、人の外見や風景の描写に使われる独特な言葉に妙な説得力があり、本からイメージが押し出されてくるような気がする。例えばブエノスアイレス食堂の創設者である若きカリオストロ兄弟の描写に、「…、白い肌は海風に鍛えられていた。暗い色をした目がそんな肌の上で黒光りするさまは、あたかも海面にばらまかれた石油のようだった。…」(p14)というのがあり、印象に残った。 ※私の読んだ範囲ではまだ一般的な(異国風であってもヨーロッパ趣味的な)「料理」の描写しか出てこないが、本作はカニバリズムを主体として扱う文学であるため苦手な方は注意してほしい
  • 2026年2月4日
    ロサリオの鋏
    ロサリオの鋏
    1980年代のコロンビア第二の都市メデジンを舞台とする、麻薬カルテルの女殺し屋ロサリオ・ティへーラスの物語。コロンビアでは『百年の孤独』と並ぶベストセラー小説だそうで、映画やドラマにもなった。私はメデジン出身のJuanesが本作をオマージュした楽曲"Rosario Tijeras"が好きで、それをきっかけに読んだ。 冒頭、ロサリオは撃たれて病院に運び込まれ、死にかけている。ロサリオに片想いする「俺」が、病院の待合室で夜を明かしながら、出会いから現在までの彼女の人生を回想していく。 スラムに住むシングルマザーの家に生まれたロサリオは、仕立屋である母の鋏を使い、自分を強姦した男に復讐したことから、ロサリオ・ティへーラスと呼ばれている(tijerasは鋏の意)。殺し屋になったことで金を手に入れたロサリオは、上流階級出身の「俺」とその親友エミリオに出会い、エミリオの恋人として3人でつるむようになる。 女殺し屋というと冷酷な女を想像したが、ロサリオは感情の起伏が激しく、兄や仲間の死に激しいショックを受け、人を殺した後は罪悪感から過食して著しく太る。彼女を殺し屋にしたのは、麻薬カルテルの牛耳る暴力と、固定化された階級と、女性を踏み躙るマチズモであることを、痛々しいほどに感じた。 邦題『ロサリオの鋏』について、Tijerasは二つ名なのだから寧ろ「鋏のロサリオ」ではないかと疑問を覚えながら読んでいたが、本編最後の2ページで腑に落ちた。「鋏」は、周りを傷つけながら、何より自分が傷つきながら生きるしかない彼女自身の象徴なのかもしれないと思う。 最後に、この話の舞台は前世紀であり、現在のメデジンとは全く状況が異なるという点には留意したい。コロンビアに染み付いた麻薬と暴力のイメージが再生産され続けることは本意ではないので。
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