
DN/HP
@DN_HP
2026年10月15日
自然のものはただ育つ
イーユン・リー,
篠森ゆりこ
読み終わった
「人生は頑固だ。私もそうだ。でもこの奈落の底を、来る日も来る日も死ぬまで自分の住処にすることは受け入れた。ただしこの奈落の底では、自分の流儀でしか生きないつもりだ。」
思いがけず贈って/送って頂いた本はどんなタイミングで読むべきか。すぐ読めよって話のような気もするけれど、それが「10代の息子二人を自死で失った作家による、悲しみを超える『人生の極み』について書かれた唯一無二の心揺さぶられるエッセイ。」だとしたら、さらに悩ましい。みたいなことは、同じくイーユン・リーの「母親の『私』と自殺してまもない16歳の息子との会話で進められる物語。」である『理由のない場所』をまた別の方から思いがけず、しかし少しだけ予想もしながら頂いたときにも思ったりしたことなのだった。
そんな本を読み終わったいま、どんな風に読みはじめたかを思い出してみると、それは、なんとなくでしかなくて、つまりはチャンス・ミーティング(偶然の出会い)としか言いようがない、というかそう言いたい(だけ)のタイミングだったりして。まあそんなものかとも思うけれど、それでもそんな風になんとなくで読みはじめた本を、今回もそうだけれど、そのまま一気に読み切ってしまうみたいなことが稀にあって、そんなときには、そのタイミングもその本もそれを贈ってくれた人たちのことも、とても愛おしく思えてくるのであった。
さて、集中して一気に読み終わったこの本だけれど、そこに書かれていたものをどう受け止めれば良いのかはまだ全然わかっていない。共感や感情移入をすることは難しい、というかそうするべきではないとも思うし、「理解」出来るとは絶対に言えないし、だからと言って安易に同情した気になって「悲し」んだりしてしまうことは、この真摯に書かれたであろう文章に対してはそれも失礼に思える。それでも「心揺さぶられ」大きな感動をしてしまったときにはどうするべきなのか。その感動もわからなさも、そのまま受け止めて抱きしめるしかない。そんな風にいつものように、少しだけ言い訳を滲ませつつ思う。
この作家に訪れた状況をこれから経験することはないと思えるし、そこにあった衝撃は想像することも難しいし、それによって引き起こされる「悲しみを超える『人生の極み』」という状態、この本のテーマについても、実は完全には分かっていない。それでもこの本からは、彼女のそれとは別だとしても、わたしなりの奈落の底を住処とするとき、そうするしかないとき(もしかしたら今かも)、そこで「それでもなお人生を生きねばならない」と思うとき(これは今だ)、あるいは思えるようになるように、助けてくれるような(というか勝手に助かるわけだけど)ヒントや選択肢を幾つも受け取ったような気もなっている。付箋も沢山立っている。それらを「使う」ことがあるのか、わたしに「使える」のかはまだわからないけれど、それらがあって、またいつでも読み返すことだって出来る、と思えることは大切なことだしそれ自体にも「助け」られている気もしている。
というのは、他人の考え思いや流儀、その人生に触れるという本を読むことのエッセンシャルな部分や、そこには感動と同時に当然のようにわからなさがあることや、それが目的ではないにせよ、そこから何かしらのヒントや選択肢を受け取れたら最高なんだよな、読書って。という内容とはまた別のところで湧き上がってくる、読書の悦びを改めて思い出させてくれたりもして。その悦びにもまた、わたしは「助け」られている。
そんなことをこんな文章を書きながら思ってみれば、本自体もそれを手に取った夜のこともそこにあると思えたヒントや選択肢のことも、丸ごとがこの本を贈って貰えたことに含まれている、とても大切に受け取りたいギフトだと思えてくる。思えてくれば、ここに書いても届かないであろう感謝の気持ちを、それでも心を込めて書いておきたい。ほんとうにありがとう。










