
いぬい
@inuiru
2026年10月11日

告白(1)
アウグスティヌス,
山田晶
読み終わった
回心ってどんな気持??? と思ったので読んだのだが何も分からなかった。
Confessio(告白)はラテン語では「罪を打ち明ける」「神を讃える」の両方の意味があるんだって。なぜに「罪を打ち明ける」が「神を讃える」とおなじ言葉なのか? もとのラテン語「Confiteor」は「認める」「はっきり口に出して言う」みたいな意味らしく、神を認めたら讃美、罪を認めたら告白、みたいな感じらしい。もとのヘブライ語でも、「感謝、讃美」と「罪の告白」はおなじ言葉で表されるとのこと。へ〜。
アウグスティヌスの「罪の告白」はすなわち「そんな罪深い私をも神は見捨てなかった」ということになって、自動的に神への讃美にもなるんだよね。
ということでとにかく神への讃美がすごい。あらゆることが神のおかげということになっている。私に勉強を強制してきたひとたちはいいひとではなかったが、結果的には強制してもらってよかった、それも神のおかげである。じぶんはかなり勉強ができるけど、それも神の賜物である、と自慢を謙虚っぽく言うこともできる。
そんな感じで終始、名前しか知らんアイドルグループの推しの話を聞いている気持だった。
164p
" 生が恐ろしかったのは、半分で生きるのがいやだったからであり、それにもかかわらず死を恐れたのは、あんなに愛していた友人の全体が死なないためであったのかもしれません。"
友人をうしなったときのこの話だけが唯一「分かるよ」てなったんだけど、のちに本人はこの文章を「軽佻な空言」と言っているようだ。もともと「友人はじぶんの魂の半分」っていう表現はローマの詩人ホラティウスがウェルギリウスについて書いたものらしくて、その上手い言いまわしを拝借しちゃったことが恥ずかしくなっちゃったんじゃないかな? とはAIくんの言。なるほどね。
300p
" でも、有力な先輩のところにはいつ挨拶にいったらよかろう。こういう先輩の愛顧も必要だからな。学生に売るものは、いつ仕入れたらよいか。気づかいからおこる緊張をときほぐすための休息はいつとったらよいだろう。
こんなことはみな消えてなくなれ。こういうつまらないむなしいことは、ほうっておこう。ただ真理の探究だけに精神を集中しよう。生は悲惨だ。死はいつやってくるかわからない。突然しのびよってくる。どんな状態でわれわれはこの世を去ることになるだろう。この世で怠ったならば、どこで学ぶことができるだろう。それどころか怠りにたいし、罰をうけねばならないのではないか。だが、死によって感覚とともにいっさいの心配が断ち切られて終わるとしたらどうだ。この点も探究してみなければならない。
しかし、絶対にそんなはずはない。キリスト教信仰のこんなにすぐれた権威が全世界にひろまっているという事実が、むなしい無意味なことであるはずはない。もし身体の死とともに魂の生命も滅びるとすれば、こんなすばらしい偉大なことを、神がわれわれのためになさるはずはけっしてない。ではなぜわれわれは、この世ののぞみをすてて、神と至福の生を探究するために、全身心を投ずることをためらうのか。
だが待てよ。こういうこともやはりたのしい。そこには独自の甘美さがすくなからずふくまれている。それをのぞむ気持も、かんたんに断ち切ってはならない。いったんすてたものに、まいもどってくるのはかっこうわるいからな。じっさい、何か名誉の地位にありつくのも、もうすこしのしんぼうだ。これについては、まだどれだけののぞみがあるだろうか。有力な先輩も数多いことだし、そんなにあわてなくても、県知事くらいにはらくになれる。そうしたら、いくらか持参金つきの妻をもらう。こうすれば生活費の負担は軽くなる。これで欲望に節度をつけるのだ。もっとも模範とすべきえらい人で、妻帯しながら知恵の探究に没頭してきた人だってたくさんいるんだ。
こんなことをいいながら、風むきの変わるたびごとに心があっちへ押しやられこっちへ押しかえされしているあいだに、時は移り、私は主にむきなおることをおくらせ、あなたのうちに生きることを日一日とのばしながら、日ごと自分のうちで死ぬことはつづけていました。私は至福の生を愛しながらも、本来の座にある至福の生を恐れ、さけながらそれをさがしもとめていたのです。"
ここは面白かったというか、考えがあっちこっち行くのを読んでるのが好きなので楽しかった。アウグスティヌスというひとはかなりの女好きだったようで苦労したそうな。
で、結局この一巻では回心せずに終ったのである!