みーる "寝ながら学べる構造主義 (文..." 2026年10月20日

みーる
みーる
@Lt0616pv
2026年10月20日
寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
読むのは2回目だと記憶している。5年くらい前にKindleで購入した。その時は全て読んだわけではなく、構造主義=ソシュールの言語論だと思い込んでいた。今読み返すと本当に読んだのか不安になる解釈だ… そんなわけで再読。 まずもって、「まえがき」が秀逸。「まえがき」から面白いかどうかは本全体が面白いかどうかに密接に関わると思っている。 「『専門家のための』本は買いません。つまらないからです。」冒頭の入り方が最高だ。落ち着いて話しているのにズバズバ言っていくスタイルが素敵。 そもそも構造主義とは「ある時代、ある言語、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」と定義していた。前に読んだ「中動態」における「意志」の考え方を思い出した。自由意志などやはりなく、周りの環境や状況から総合的にみた選択に過ぎない。考えてみるとそりゃそうかと思うが、言われてみないとこの世界は構造主義にまみれでいることを見落としてしまう。現に、それぞれの視点に立って物事を考えることが常識になったのは1960年台だと言う。そりゃ、戦戦の連続だわな… 本著では、こうした構造主義の考え方を中心とした哲学者を紹介する形になっている。あくまでも、構造主義は根底の考え方であり、それぞれに主張はまるで違ったりする。備忘録も兼ねて、出てきた人物の大まかな主張を記す。 カールマルクス マルクスは「人間は行動を通して何かを作り上げ、その創り上げたものが自分が何者かを規定し返す」という考え方だった。つまり「労働→生産」においで自分を獲得することであり、何もしなければ人間ではなくただの動物だと言っている。「存在」ではなく「行動」にこそ主体がある。 →思った以上にスパルタな考え方だが、言われてみれば当たり前な気もする。実績や労働成績を中心に自分の歴史を振り返るものだ。「なにをしたか」を中心に物事を考えているのは当たり前のようにマルクスの考え方に影響を受けているのかもしれない。 ソシュール 「ことばは『モノの名前』ではない」 聖書では、アダムの前が一つ一つに名前をつけていった。これは犬、これはライオンのように。だから、ことばとは『モノの名前』だと思いがちだが、ソシュールは逆だと言う。 言葉で世界を切り分けるからその『モノ』が生まれる。言語によって同じモノでも切り取り方が違う例を挙げていた。例えば、フランス語でムートン=羊。これは生きていても死んでいてもムートンしかし、英語で羊はシープとマトン。シープは生きている羊、マトンは調理された羊。つまり、フランス語話者と英語話者では羊の捉え方がまるで違う。同じ羊ではないのだ。言語による思考のフレームワークが違う。つまり、名前をつけること(世界を分断すること)でその「モノ」は存在するという考え方。 →構造主義といえばソシュール!と思っていたが、やっぱりこの考え方はすごい。使う言葉が違うと思考が変わるのは言葉の範囲や切り取り方が違うから、世界の見え方が変わるから。国語の授業でも似たようなこと(世界の切り取り方)について話しているが、やはりこの考え方は子供達にも知ってもらいたい。 フーコー フーコーは歴史を「いま、ここ、私」とする人間主義的な考え方に異を唱えていた。 つまり、歴史は過去から現在まで一本の線で繋がっているわけではなく、大切なのは「何が語られなかった歴史か」だと言う。わかりやすい例として、「〇〇の子孫」という言葉。この言葉は歴史を語る中でよく出てくるが、子孫ということは、父方だけでなく母方の血も引いているはずである。そちらは無視されて、父方(もしくは母方)のみ注目を浴びる。まるで半分の地はなかったように語られる。 またフーコーは身体も一つの社会制度に使われるという。体育座りは児童の均一化、標準化を目指すためになされた身体的制限であり、しかしそのことに子どもたちは気づいていない。この気づかぬうちに刷り込まれることが重要であり、身体的なの制限は社会制度を作るためにしばしば使われる。 王政における「国王ニ体論」では、王様は、二つの体「身体的なもの」「政治的ななもの」があるという。「政治的なもの」は意味によって編まれているという。王政の処罰が残酷なのは「身体的なもの」を超え「政治的なもの」まで罰するからであると記述されていた。また、身体的な痛みや苦痛は「政治的なもの」の前においてはコントロールできるものである。政治的な大義において、痛みを感じない兵士を作り上げることも可能である。 →フーコーは、なかなかに難しかった。「権力」という構造がどういうものなのかにフーコーは迫っていたように感じた。標準化してカタログ化することで統治したり支配したりすることができる。その際、必ず「権力」的な考え方が出てくるということか。 ロラン・バルト 「記号」の定義として、自然的な因果関係があるもの(「黒雲」は「嵐」のしるし) 象徴であるもの(現実的に連想可能なモノ。例えばトイレの男性女性のマーク)は当てはまらないと定義した。 つまり、「記号」とは社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」である。(将棋の『歩』のコマを無くした時、みかんの皮を『歩』に見立てるなど) そんな「記号学」の視点のうちバルトが掲げた「エクリチュール」という概念。これはある社会集団における選択的な言葉遣いだそう。 例えば、日本では「僕」と言ったり「俺」と言ったり、さまざまな一人称が存在し、自由に選択が可能である。ここで考えたいのが、バルトはその言葉遣いの「型」に応じて、考え方や振る舞いが変わるということだ。教師としての言葉遣いやヤクザとしての言葉遣い、おじさんとしての言葉遣い、言葉遣いが変わるとその振る舞いが変化する。さらに、このエクリチュールはさまざまなエクリチュールから影響を受けるため、純粋なエクリチュールは存在しない。純粋なエクリチュールが存在したとしても、そのエクリチュールはまた「型」となり影響を与える。その繰り返しである。 →ソシュールの言語論を展開させたような考え方だと思った。確かに、エクリチュール(言葉遣い)でその人らしさや社会的立場が決まってくる。エクリチュールの「型」にはまって生活をすること自体、まさに構造主義の中に身を投じることである。ソシュールと並んでわかりやすい言語的な観点からの構造主義論であった。 レヴィ=ストロース サルトルを論破したと書かれていた前半部。歴史的な観点から善悪を判断するサルトル。そこには歴史のない未開の地に住む人たちが劣っているという前提のもと成り立つ理論であった。レヴィ=ストロースは、未開の地の人はその人の物差しで世界を分断しているだけであって、そこに優劣はないと痛烈にサルトルを批判した。 レヴィ=ストロースは社会集団は「感情」や「価値観」で動いているわけではなく、「人間社会は同じ状態にあり続けることはできない」「人間社会は贈与と返答の繰り返しである」という2つのルールをもとに動いていると論じていた。 子孫が繁栄するためには近親相姦を避けなければならない。それ故に自分の娘を相手の男に贈与し、その子どもをまた他の男に贈与しそれを繰り返す。そうして少しずつ緩やかに変化しながら社会を回っていく。 →レヴィ=ストロースの「贈与返答の繰り返し」は哲学的な概念というよりも生活の中で息づいており大変理解できる。お土産をもらったら返さなきゃという風に自然と思うもんなぁ。 それに人間社会は緩やかに形を変えないと機能しなくなるときいて、朝井リョウの『生殖記』を思い出した。 フロイトやジャックラカンの「精神分析」は難しく言語化できなかった。構造主義の基本的な考え方が大変よくわかる一冊であった。構造主義はもはや人間社会の大前提なのでは…?
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