
ケイ
@flyingkei
2026年10月20日
ツァラトゥストラはこう言った(上)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ,
氷上英広
読み終わった
上巻読了。思ってたより読みにくくなかったし、思ってたよりツッコミどころも多い作品だった…。
第二部
一度山へと戻ったツァラトゥストラは、自身の教えが歪み始めているとの夢の暗示を受け、再び人々のもとへ現れる。
聖職者、道徳家、学者たちを手厳しく批判するツァラトゥストラの語りは、従来の価値観を破壊しようとする「獅子」そのものの鋭さだ。救われる者・義しい者としての立場から、他者を裁きの眼差しによって救われない者・不義なる者と断罪することの不義。他人の不幸に同情することで自らの安寧に感謝する卑しさ。善行も徳行も報いをもとめての商取引でしかないという計算高さ。ツァラトゥストラは、神や道徳はもはや卑小な人間個人の満足のため、自らが支配者へ従属するがごとく他者を支配し従属させる力を持つための道具でしかないと指弾する。
自分自身を超克するためにこそ用いられるべき「力への意志」、精神ではなく身体から湧き出る本当の「おのれ」の意志が、誤った形、誤った方向へ向けられているという糾弾。それは、ニーチェが生きた19世紀末ヨーロッパに実際に蔓延していた、空気化した宗教心に対する強い反発の現れなのだろう。しかし、本質的なキリスト教信仰とは、神の恩寵(赦し)がまずあり、そこへの応答として人間の奉仕があるというものだ。宗教観については、どうしてもニーチェ個人の怨嗟が混ざり思想的には本質からずれたところを攻撃している感もある。
自分自身を超克せよ、そしてツァラトゥストラの教えをも超えて自らの中から新たな価値観を創出せよと語るツァラトゥストラ。「あなた方が私を否定し、私を忘れたとき、私は帰ってくる」と説くその口ぶりは、捕縛直前のイエスの言葉を裏返したものであり、イエスの反転としてのツァラトゥストラのアイデンティティが色濃くにじむ。ただ、ゲッセマネで祈るイエスをよそに弟子たちが居眠りしていたように、ツァラトゥストラも弟子や彼を愛する群衆の中にあって孤独である。孤独の中でなお、人間への愛ゆえに教え続けるツァラトゥストラ、人間のために山上の穏やかな暮らしを捨て「没落」を選ぶツァラトゥストラの姿は、どうしたってイエスと重なる。ただしツァラトゥストラは、弱きもの小さきものの味方とは言えない。彼は、未来の超人のために自らを破滅させるもの、世界を前に進める強い意志を持つもののための救世主なのだ。
ツァラトゥストラは、第二部ラストで、「静かな声」に呼び戻される。「お前の教えは熟しているが、お前自身がその教えを語るまでに熟してはいない」と厳しく告げるその声に、ツァラトゥストラは苦しみ泣き崩れる。告げるべき「真実の教え」が、いかに人間たちにとって厳しいものであるかを知るからこその苦しみ、涙である。自分はまだそうした重荷は背負えないと泣いたツァラトゥストラは、逃げるように再び山へ戻るのであった。
