
ケイ
@flyingkei
2026年10月28日
ツァラトゥストラはこう言った(下)
ニーチェ,
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ,
Friedrich Nietzsche,
氷上英広,
氷上英廣
読んでる
「古い石の板と新しい石の板」から第三部終わりまで
「古い石の板…」は、旧約聖書の十戒を念頭に置きつつ聖書における神との契約を破棄するよう語る章である。同時に新約聖書のイエスによる救済も否定し、所詮「善人」を自認する者たちはイエス言うところの「パリサイ人」=偽善者だと説く。
正直なところ、ニーチェ自身の純粋な思想・哲学と言うより対聖書、対キリスト教(教会)の闘いのための言論といった印象が強い。クリスチャンとしてはその過激さに驚くと同時に自省の念も抱く部分はあるが、逆に言えばクリスチャンないしキリスト教社会に生きる者以外にこれらの言葉がどこまで鋭く刺さるのか疑問も感じる。また、これだけ必死にキリスト教社会と戦わざるを得ないニーチェの立場というものに悲哀も感じる。
続く章では、聖書の記述を翻案したような文体で、いよいよ永劫回帰についてその根本認識が語られる。一切の事物は永遠に回帰する、すべての存在が「新しい人生、もしくはより良い人生、もしくは似た人生にもどってくるのではない…永遠に繰り返して、細大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくる」。おしまいの人間たちと言われる人間たちは無限に繰り返し現れ、ツァラトゥストラは無限に繰り返し人間たちに超人を伝え永劫回帰を説くのである。
ここにその論拠は示されていないが、神は死んでおり、奴隷の生の果てに待つ天国などないという認識がまずあり、この世の始まりと終わりがないのであれば時は永遠であり円環をなすという、ある意味これも聖書とキリスト教社会の否定の結果としてたどりついた思想のように思える。東洋においては、生の繰り返し=輪廻転生(こちらは異なる生を生きて業から解脱するためのものであり、永劫回帰とは全く異なる思想ではあるけれど)思想が身近で、ニーチェの「発見」はそれほど衝撃的ではないが、神による創世がありやがて最後の審判があると信じるキリスト教社会の中では革新的、むしろ異端過ぎて受容されようのない思想だったのではないか。この思想、この書物が想定していた聴衆は一体誰なのか。読めば読むほどニーチェ自身の孤独が浮かび上がってくる気がする。