ツァラトゥストラはこう言った(下)
ツァラトゥストラはこう言った(下)
ニーチェ
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
Friedrich Nietzsche
氷上英広
氷上英廣
岩波書店
1970年5月16日
8件の記録
- ごうき@IAMGK2026年3月22日読み終わった「わたしは眠りに眠りーー、 深い夢から、いま目が覚めた、ーー この世は深い、 『昼』が考えたよりもさらに深い。 この世の嘆きは深いーー しかしよろこびはーー断腸の悲しみよりも深い。 嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。 しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬーー、 深い、深い永遠を欲してやまぬ!」 読み終わってから整理するのに、少し時間がかかった。 本書は哲学書というよりは文学書の形式を取っており、ニーチェの著作の中でも読みやすい部類とされているが、だいぶ昔に書かれた本であることから、最初はなかなか読むのに苦戦した。そういう本でありがちなのは、中盤や終盤に差し掛かって漸く読む要領を得るということだ。なんともじれったい気分である。 私の話をする。私がこの本を手に取った理由は、数年程前私がここに描かれている「超人」と似たことを考えていたからだ。人間は、絶望しなければならない。絶望し、絶望し、絶望する。その絶望の底にある残滓こそが、幸福というものなのだ。そしてそれを達成する条件こそ、「自己を愛する」ということなのだ。絶望の底の幸福には、自己を軽蔑し尽くし、愛することによって初めて到達できる。そうした考えを私は持っていたから、「人間は克服されるべきものである」と謳う「超人」の概念は首肯できるものがあり、慰めからの読書など何も齎さないと分かっていながらも、本書を手に取ったわけである。 しかし本書には、もう一つ大事なキーワードがある。3章より徐々に強調されていく、「永劫回帰」である。私の解釈が間違っていなければ、ニーチェの思想の反映体であろう本書の主人公・ツァラトゥストラは、この永劫回帰を受け入れることこそ「自己を愛する」ことになると説く。この永劫回帰とは簡単に言えば万物は繰り返されるという主張だが、思うに、ツァラトゥストラの言う「自己を愛する」とは、永遠の絶望があるならば永遠の幸福があるということを認識し、その微かにニヒリズムを予感させる一切の価値転換を受け入れ、究極的にポジティブになろうとする試みなのであろう。 また、文学的に本書を捉えるならば、これはツァラトゥストラが宗教を否定して人々に教えを説くというあらすじになっているが(宗教による束縛を否定する本書がこう捉えられるのも皮肉なものだが、これもまた、キリスト教と同じく宗教的なものに見える。本書の最終節の『徴』というタイトルは、正しくそういう類のことを思わせる)、同時に、ツァラトゥストラが自己超克する物語であるとも取れる。特に、読者である私をも神的存在と捉えていたツァラトゥストラが永劫回帰を受け入れ、同情に甘んじ、「大いなる正午」を迎える結末には、震えるものがある。 当たり前だが、私は本書を完全には理解できていない。だからこそ、2周目を読んだ時の喜びは、もっと大きなものになるだろう。分厚い本だから読むのがとても大変だが、またいつか読み直したい。 余談であるが、本書は解釈が難解な点に関しては、chatGPTと訳者解説を参考に読み進めた。なかなか良いものであるので、お勧めしたい。 また、第二の余談として、1章だか2章だかの、気に入った一節を載せておく。 「孤独はいつも1×1だがーー長いあいだには、それが2になってくる。」 あと、これが一番好き。 「そうだ、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れたからではない。むしろ愛することに慣れたからだ。」

- 秋雨芽@Akiame1900年1月1日読み終わった読了。 宗教もののような切り口で行われる、現状の否定とじゃあどうすれば?となったところにやってくるニーチェの目指す先の描写。 物語調にニーチェの思想を読むことができるが、ツァラトゥストラが物語のなかの人間であることで幾分か分かりやすく思想を知ることができると感じた。



