
K
@weitangshaobing
2025年4月15日

「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし
一橋大学社会学部加藤圭木ゼミナール,
加藤圭木
読み終わった
【好きなところ引用】
広島の原爆詩人である栗原貞子氏は,「ヒロシマというとき」という作品で,次のように書いています。「〈ヒロシマ〉というとき 〈ああ ヒロシマ〉とやさしくこたえてくれるだろうか 〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉」。そして,栗原氏は詩の最後を次のように締めくくっています。「〈ヒロシマ〉といえば 〈ああ ヒロシマ〉とやさしいこたえがかえって来るためには わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない」(『ヒロシマというとき』三一書房, 1976年)。
歴史修正主義者は,よく日本の恥となるような植民地支配などについて教科書に載せることを,「自虐史観」に基づいていると言います。しかし,日本の過去の「恥」となるようなことを学ぶことは「自虐的」なのでしょうか。植民地支配や戦争について教科書に載せず児童生徒が学ばないことは,知識が身につかないばかりでなく,植民地支配責任や戦争責任について考える機会を失うことでもあります。そうなれば,過去から学び,反省して二度と同じような過ちを犯さないでほしいという被害者の願いも無視されることになるのではないでしょうか。
現代人は過去の過ちを直接犯してはいないから直接的な責任はないけれど,その過ちが生んだ社会に生き,歴史の風化のプロセスには直接関わっている。そのため過去と無関係ではいられないというものでした。そして,日本の侵略・植民地支配や日本軍「慰安婦」制度のような過去の不正義を生んだ「差別と排除の構造」が残っている限り,現代人には歴史を風化させずに,その「差別と排除の構造」を壊していく責任があるというものでした。
つまり,「差別と排除の構造」を壊すとは資本主義社会のもとに現在も続く民族(人種)差別・ジェンダー差別・階級差別といった差別に対し,社会の一員として,そしてひとりの人間として,反対していくことなのではないかと思うようになりました。





