
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年4月16日

地球にちりばめられて
多和田葉子
読み終わった
かつて読んだ
読み返した
10年以上前、ロンドンでホテルのスタッフに「あなたは中国人?」と英語で聞かれた。いえ、日本人です、と答えると、彼は手元のノートパソコンを操作して、「日本人なら知ってる?」と言って画面を見せた。画面にはどこかの公園のような屋外の風景が映し出されていたが、私にはよくわからなかった。彼はヒントを出すように「サナア」と言った。それで、SANAAのサーペンタイン・ギャラリー・パビリオンの画像だと思い当たった。SANAA! 知っています、と答えると、彼はうれしそうに笑って、自分は建築が好きなのだ、ということを、短く、私に理解できるくらいの英語で話した。
彼にとって私はSANAAの国の人だった。でも私は自分とSANAAが「同郷である」と意識したことは全然なかった。海外に行くと、そんなふうに他者の目を通して、自分の帰属を意識させられることがある。どこから来たのか。どこに属しているのか。その所属をどのように代表するのか。それはしばしば、いくつかの固有名詞との接点で問われることになる。トヨタとか、富士山とか、北斎とか。
俺はジョージと違って海の向こうの知らない国を批判する動機は全く持ち合わせていなかったし、エスキモーであることに誇りもロマンも感じていなかったが、逆に劣等感も持っていなかった。それがコペンハーゲンで暮らしているうちにだんだん民族という袋小路に追い詰められていった。
(『地球にちりばめられて』文庫版p.146)
多和田葉子はこういう外国のなかで異分子になってしまう人を描くのがうまい。外国で外国人としてだれかに見られ、見なされ、見分けられることについてまわる居心地の悪さ、自分が自分のある属性のなかに縮減され、還元されてしまうような所在なさを、『地球にちりばめられて』では、複数の人物を通じて描いてみせる。とりわけナヌークが印象的だった。
外国でだれかと話すとき、自分のナショナリティから自由であることはむずかしい。どこにも属さない自分でいることはむずかしい。母語の外に出ていった(多和田はその状態をエクソフォニーと呼ぶ)にもかかわらず、私たちは自分の出自とする国家へ、民族へ、集団へ逆戻りしていく自分を見つけ出す。でも一方で、それは、実はほかの人が見つけ出す自分、あなたはこうなのだね、と私たちを仕分けようとする力にみちびかれた自分にすぎない。だから他者によって見つけ出される自分が別のものであるとき、私たちは別のものになることができる。ナヌークが〈第二のアイデンティティ〉を、嘘や誤解によって身につけたように。
星野道夫はアラスカのシシュマレフ(今その村は温暖化の影響で海に沈みかけている)に滞在したとき、「エスキモーそっくり」と言われる外見で、たちまち現地に溶け込んだという。日本人とエスキモーは同じモンゴロイドだ。ナヌークはそうした言語以前、民族以前の、生物学的な近似性を手がかりに、自分のアイデンティティを複数化する。それは環太平洋文化圏に、私たちの祖先と、もはや私たちのものではない祖先がちらばっていった名残だ。
言語は隔てられている。民族も隔てられている。しかし言語でも民族でもないものがめぐり合わせによって奇妙に接続してしまうことがある。そこに現れる〈第二のアイデンティティ〉の起源は、言語や民族以前の、人類の行為の痕跡のようなものだ。残響のように消え切らない人類の行為の痕跡が、私たちを私たちでないもの、私たちではなかったかもしれないものへと連れていく。
ロンドンで「あなたは中国人?」と聞かれたときに、ええ、中国人です、と答えた自分を想像する。そのとき私はSANAAの国の人ではなくなっただろう。そのとき私は日本人がさらされる偏見をはなれ、中国人がさらされる偏見に迷い込んだだろう。そんなふうにして自分を見失い、見失うことによって見出すような試みのことを考える。その誤解は、ナショナルアイデンティティというものの〈頼りなさ〉によって成立している。頼りないものがそこにあり、頼りないものが揺らいでしまうからこそ、そのゆらぎをむしろ足がかりに自立するものがある。ゆらいでいる場所にしか立ち上がらないものがある。私はその不確かな足場のことが好きだ。
三部作の1冊目であるこの『地球にちりばめられて』は昔一度読んで、当時は続刊が出ていなかったので、そのまま離れてしまっていた。せっかく再読したので、『星に仄めかされて』も買った。読んでいきたい。






