
サリュウ
@salyu_carefully
2025年4月26日

約束された場所で
村上春樹
読み終わった
“河合 (前略)たとえばね、少年A事件が起こったときに、子供たちが陰に隠れて悪いことをしたらいかんからということで、そのへんの樹木を全部切ってしまったんです。僕はそれを聞いてものすごく腹が立ちました。話はまるっきり逆なんですよ。子供たちは大人の見ていないところで、子供なりに悪いことをして成長するんです。いつもいつも大人から見られているから、あんなことが起こってしまうわけですよ。ほんまに腹が立つ。僕は木が好きやからね、木を切るというだけでも腹が立つんやけど(笑)
まあみんな了見が狭いというか、一所懸命監視していたら正しい子ができるというような考えは、とんでもないことです。自分がずっと誰かに監視されとったらどんなに大変か、ちょっと考えてみればわかると思うんだけれど。”
P.312-313
引用箇所は、オウム真理教信者や元信者へのインタビューパート後の、村上春樹と河合隼雄の対談パート。
対談パートは章がふたつに別れていて、これは後半の「「悪」を抱えて生きる」という章。河合のこのあたりの述懐というか問題提起というか憤りみたいなものは、ある時代まではこの言葉通りに素直に有効なものだったのだと思うし、わたしも読んでいて「そうだよなあ」みたいな感情になる。しかしいまは環境が逆転していて、むしろ子供/青少年が積極的にSNSやGPS共有アプリを使用してお互いを監視し合っているし、親世代も似たようなデバイスで赤子のころから常時子供を監視している。親も子供も、社会も個人も、互いを過剰に監視し合う世界でわたしたちは生きていて、いまの世は過剰な監視が行き着く先の価値転倒に陥っているのかもしれない(例えば、旧来の“監視されていない状態”≒樹木の陰が、いまでは“監視されている状態“になっていて、逆に旧来の”監視”は現代だと"樹木の陰“ということになるのかもしれない。自分でもなに言ってんのかよくわからないけど)。
河合隼雄はいまをどう見るのだろう。村上春樹はいまなにを思っているのだろう。そして、『アンダーグラウンド』とこの本で取材に応じた当事者の面々は、いま、どこにいてなにを思っているのだろう。生きているのだろうか。それとも。


