
DN/HP
@DN_HP
2025年4月27日

孤独の要塞
ジョナサン・レセム
読み終わった
手に入れたことで満足してしまっていた約八百頁の単行本を二週間程かけて「ゆっくり読」んでいた。「ゆっくり読む」というのは、この小説を教えてくれた友人が一緒に教えてくれたことで。それを意識しながらの二週間は、この本を読むことが徐々に生活に馴染んできて、物語がじっくりと染み込んでくるような読書、というか体験、LIFEだった。ああ、そういうことだったのか、と友人のことも思う。ため息が出た。
「ニューヨーク・カルチャー満載」の「成長小説」。たしかに。特にグラフィティの描写には興奮したし、少年の成長に自分のそれを重ねてみたりもしていた。しかし、わたしはこの小説を、“成長“することで失ってしまったもの、裏切ってしまったもの、そうせざる得なかった当時の自分への怒りや哀しみ、過去への後悔と贖罪の告白のようにして読んでいた(少年の成長は街の高級化とも重なる)。
そんな物語、告白がじっくりと染み込んでくれば、その分だけ溢れ出してくるものがある。記憶。わたしの後悔と罪。過去の具体的な場面と忘れることが出来なかった感情が停めどなく浮かんでは、消えずに積み重なっていく。主人公が地下室でライナーノートを読みレコードをかけながら「そこで、一人の人間のアートが、一撃で時間を殺すということを学んだ」ように、わたしは2階の部屋でラップ・ミュージックをかけながらこの本を読んで、一冊の本の物語が、一文で時間を蘇らせるということを改めて学んでいた。
ノートに箇条書きされた幾つかの場面、後悔と罪、それが連なる成長の物語は語られるべきなのだろうか。物語ることが出来るだろうか。語り始めるきっかけになるような手紙が件の友人から昨日届いていた。わたしは人生における偶然を信じている。けれど、さて。


