えみ "BUTTER" 2025年3月6日

えみ
えみ
@caleidoscopi0x
2025年3月6日
BUTTER
BUTTER
柚木麻子
良い小説だった。面白いかと聞かれると私が面白いと思う基準からは外れているし、これを面白いと言っていいのか分からない節があるので表現しないが、さまざまな問題について考えるきかっけを与えてくれる本であることは間違いない。私は物語(ストーリー)の強制力が好きでなく、感情移入してのめり込みたくない性格だが、この小説は古典的な構成になっていたため、物語として読まずにはいられなかったし、「物語に引き込まれた」という体の書き方しかできないのがある意味で悔しく思う。 人はさまざまな役割を引き受けている。それは無自覚なこともあれば、成り行き上そうなったり、自ら望んで引き受けたりする。社会生活を送る上で誰一人として役割から逃れることはできない。そういった意味では、実存主義的な生き方を現代で貫徹することはかなり難しい。 主人公である里佳は、いわゆるバリキャリで仕事に打ち込む女性である。恋人も仲の良い友人もいて仕事もそこそこ順調で、何も不満なく生きているように見えた。華奢でおそらく容姿も良いのだろう。気取らず、謙虚で「非の打ちどころがない」。ここに異分子である梶井真奈子(以下カジマナ)という存在が入ってくる。 里佳は人に甘えることをしない自立した女性として描かれていたが、カジマナを知った序盤でこんな話をしている。 「どんな女だって自分を許していいし、大切にされることを要求して構わないはずなのに、たったそれだけのことが、本当に難しい世の中だ。取材を通して知り合う、成功者と呼ばれる女性ほど、それが顕著に表れている。皆、何かに強く怯え、ストイックに我慢し、異常なほど謙虚で、必死に自分を守ろうとしている」 これはおそらく彼女自身の最初の気づきだろう。皆が必死に自分を守ろうとしている、と書いているが皆のなかに自分も含まれているのではないか。里佳は己のスペックを無視して、自分が一人の女であることにOKを出していたカジマナを知り、驚嘆した。大切にされるためには努力をしなければならない。里佳はそう考えているようだった。実際、容姿、特に体型に気を使い、モデルのようなスタイルを維持し続けている様子が描かれている。 しかし、カジマナの機嫌をとって事件に関する情報を聞き出すために、言われた通りの食べ物を次々に食べるうちに里佳の体重は増えていく。体重が増え、太ると、里佳の予想以上に周囲から非難される様子が描かれている。自分でもなんだかひどく悪いことのような気がしてしまい、ダイエットを始めるが、カジマナにその必要がないことを諭される。恋人の誠曰く、努力を怠っているように見えるからダメなんだと言われるが里佳は腑に落ちない。 この辺りの話で浮き彫りになるのは、女性にかけられている圧力の一つが「美しくあること」。ここで大事なのは容姿の問題だけではなく、女性が社会からかけられている圧力が複数あるということだ。何のためにその圧力に耐えているのか。一つは自分を守るためであり、もう一つは「大切にされるため」なのかもしれない。大切にされるとはどういうことだろうか。(もちろん男性も社会から圧力をかけられているが、その話は後ほどする) 人は誰しもが愛されたいと願っているし、愛したいと思っている、とするならば(多分この価値観も絶対ではない)、そのためには他人の評価から目を背けることはできない。そういった理屈で私たちは社会から要請される理想像に近づくために日々努力を惜しまない。なぜ親以外の愛は条件つきなのだろう。そして、どこを読んでも、「大切にされるため」について、詳しく描かれていない。全体を読み込んだ限り、批判されず受容されることが「大切にされる」ことなんじゃないかと推測する。誠はこんなことを言う。 「──心を鬼にして言うけど、太ることだけは、本当によくないって。俺は別に女の人の体型に理想とかないけど、まわりに努力が足りないって思われて、信頼を失うよ」 つまり、一般的には、男性は「女の人の体型に理想がある」のだ。そして、そのために努力を惜しまないのが絶対条件なのだろう。現代では、女性にとどまらず男性の容姿についても女性にとって何らかの理想があり、努力を惜しまないことが良いとされている。例えば若い世代では、清潔感を強く意識するために脱毛をする人は増加傾向にあるし、メイクをする男性も増えてきた。眉毛サロンに通う人もいるし、美容室を日常的に利用することは一部の人にとっては当たり前になっている。歯のホワイトニングも欠かさない。歯のホワイトニングなんて実際の口内環境が良くなるわけでもなく、清潔感があるように見えるだけだ。人に見られる仕事の人は必須で、その他の人もしている人は少なくない。男女差を綯い交ぜにして語ったが、要するにただ単に美の追求をしているのでなく、「大切にされるため」≒批判されずに人に受容されるために容姿に気遣うのだ。体型管理なんて当然で、仕事でも趣味でも努力し続ける姿が賞賛されるし、努力しない人はまわりの信頼を失うらしい。 カジマナは周囲の批判の目を気にすることなく、生活してきたのかもしれなかった。なぜなら彼女は欲望に忠実な人間として描かれているからだ。それが里佳にとっては鮮烈だった。里佳は、欲望することも、欲望させることも良くないことだと思い込んでいた。しかし、それも徐々に悪くないのではないかと思うようになる。欲望を抑えつけていると、自分が欲しているものが分からなくなる。実際里佳はカジマナに出会うまでは食の楽しみは少なく、自分が何を食べたいのかさえ分からなかったのだ。食べたいものを自分で作って好きなように食べることを豊かであると感じ始めていた。 カジマナは決して善人ではないし、正しい存在としては描かれていない。主観の世界で生きている人間で、現実を捻じ曲げて自分の世界に閉じこもっている。しかし、彼女が自分を愛しているのは本当かもしれない。なぜなら、自分の欲望には素直に従ってきたし、自分の身体も愛おしく思っている。そして、里佳にも「あなたはもっと自分を好きになるべきなんじゃない?そうしたら、合わない相手とのデートなんかで自分をすり減らすのはもったいない、と自然に思えるはずよ。自己評価が低すぎるんじゃないの」とアドバイスしているのだ。カジマナは、決して悪人でもないと私は思った。 里佳は彼女に振り回され、価値観をどんどん変えられていく。恋人や友人とギクシャクして、何もかもが崩壊しそうになる。けれども、彼女は潰れなかった。いや、一度は解体されてしまったのかもしれないが、里佳の仕事は形をやや変えて続くし、周りの人が離れていったわけでもない。彼女が捨て去ったものは、他人軸で生きることだった。自分の軸で生きたい、そして欲望も役割も「適量」でいい。里佳は誠にこう言っていた。「もう他人に消費されたくない。働き方とか人との付き合い方を、自分を軸にして、考えていきたいの」と。 里佳は皆が安らげる場所を提供するに至る。玲子は「里佳が中心に居ると、みんな役割から自由になれるんだよ。性別とか地位が関係なくなるの。磁場が歪むっていうのかな。昔からそういうところあったけど、最近は特に……」と話していた。この社会で生きていくのに役割を全て、そして常に降りる必要はなく、「適量」でいいのだ。主婦も会社員も、男も女も、いつもその姿を保たなくていいはずだ。私がこの本を読んで一番感じたのはそういったことだった。 カジマナについての話をする。彼女は本当に結婚相手を探して、男性を包み込むような存在でありたかったのか。「根本のところでは、誰にも所属するつもりはなかった。それは確かだ。でなければ、こんな時間に男を残してラーメンを食べたくなるわけがない」という話を本当だとするなら、彼女は男性をケアする役割を全うしたかったわけではないのかもしれない。彼女もまた、里佳たちとは異なる形で役割を引き受け、生活してきた。これは想像だが、そうしなければ彼女は生きていけなかったのではないか。料理を作らなければ、男性をケアしなければ自分を保てなかったのではないだろうか。 カジマナが執拗に本物にこだわっていたのも気にかかる。カジマナはおそらく「本物」ではなかった。なぜなら生まれも育ちも田舎で、対比的に描かれている料理教室に通う人たちのような優雅な暮らしをしていたわけでもないのに、ジョエル・ロブションのフレンチを里佳に食べてくるように話していた。つまり、本物にこだわるのは本物への憧憬であって、元々本物ではないことがコンプレックスだったのではないか。(念のため言っておくと、実際のところ本物や偽物といった表現は適切ではない。カジマナが使っていた言葉だから借用して話している)彼女にとって心から愛せた食べ物はバター醤油ご飯で、それこそが本物だったのだ。なぜなら、カジマナの育った場所に良いバターがあり、自分のために作るといえば「バター醤油ご飯や、たらこパスタくらい」だったからだ。里佳に初めにすすめたのも、もしかしたらそれが自信を持って言える料理だったからかもしれない。彼女の原点はバターを使った簡単な料理にある。彼女は料理が得意だったのかもしれないが、本物にこだわるあまり、何かと何かをミックスするなどのアレンジが不得意だった。レシピ通りにしか作れないのは、オリジナリティの欠如を物語っている。彼女のアイデンティティとは何だったのだろう。 彼女はずっと孤独で、確かに心から話せる友人あるいはパートナーを求めていたんだろうと思う。カジマナが料理教室で七面鳥の料理を習って、教室の皆を招待して振る舞おうとしていたのは、きっと友達が欲しかったのだ。里佳ともあと一歩でなれたかもしれなかった。 「料理って、自分のために作ってもいいんですねって、ぽつんと言っていた。自分のためにしたことないの?って聞いたら、ええ、って。妹や恋人と一緒の時はちゃんと作りますが、一人のときはご飯とバターと醤油とか、目玉焼きご飯とか、たらこパスタとか、そんな簡単なものしか、ってしょんぼりした感じで言うの。私が、それずぼらな私にしてみたら立派な料理だけど、って言ったら、みんなが笑って、その時、梶井さんは初めてニコッてしたの」 カジマナが初めて笑った描写を読んだとき、とてつもなく胸が苦しくなった。彼女の料理教室での願いは果たされることなく、そして里佳とも友達になれなかった。裁判の際にカジマナは誰かを探していたのに、目が合わずそのまま退出した。その場面も印象的だった。 女性らしさ、男性らしさとはなんだろう。私にはそれが分からないのだ。誠が里佳の料理を素直に受け入れずに「そういうのは求めてないから」といった言葉に里佳はモヤっとするのも、どうしてモヤっとするのか分からないのだ。普通に読めば「女性は料理をするもの」という認識が見えるからフェミニズムに理解がある素振りをする誠に嫌気が差していると解釈できるかもしれないが、里佳を一人の人間として見れば、元々料理を作らない人に料理を求めるなんてことしないよ、くらいの意味にしかならない。 要所要所でそういった場面があり、その度に書き手の意図(問題提起する意図)が見えすぎて、読者が作者の狙い通りに引っ張られることを想像しながら読むと食傷気味になるのだ。 皆がなるべく平等にありのままで暮らすことを目指すとしてやや環境を変えるとするなら、女性が働きやすい環境を整えるのは大事だが、働かなければならない空気をつくるのは良くないし、主婦が肩身の狭い思いをしなくて済むような雰囲気がないといけない。逆も然りで、男性も仕事をしてもいいし、主夫でもいい。でももっというならば、極端になるが、自分のことを自分でケアし、一人一人が自立できるようになった方がいい。仕事も家事も一人できて当然だし、それが平等ではないのか。生物学的な性差はあるのかもしれないが、例えば生理が重くて仕事ができないので、休みをつくるのでなく、生理が来ても辛くならないように医学を進歩させるべきなのではないか。机上の空論だが、極端なことをいえばそんな気がしてしまう。 カジマナの周囲で亡くなった人たちは、自分をケアできない人たちばかりだった。男性という大きな主語で皆そうだとは言いたくないが、男性の一部はこのケアの問題に悩まされている。仕事一筋でやってきた人が、家事を一切できないのは想像に易く、そういう人は一定数いるだろう。「威厳のある父」は弱音を吐くことも許されず、仕事も何食わぬ顔で淡々とこなさなければならない。同性同士でケアしあうことは少なく、異性にそれを求める場合、可能であったとしてもパートナーくらいだ。男社会では、絶対になめられてはいけない。女性が痩せてなければならないという圧力を感じている一方で男性もこのような圧力のかかった中で生きている。 なんて生きづらい世の中なんだろう。だからこそ、男や女や社会的地位を忘れて羽を伸ばす場所が必要なのだ。大きな場所を作る必要はなく、二者関係のなかでそれがなされてもいいし、小規模な複数人のグループでそういった場を設けてもいい。地域社会が機能していた時代にもしかしたらそのような場があったかもしれない、上手く形を変えて復活させればいいのだ。皆、時々は普段の自分を忘れて休んだ方がいい。 この本を人に簡単に説明するなら、どう紹介したらいいのだろう。フェミニズムの話?否。実際にあった事件を元にしたミステリー?否。玲子と里佳の再生の物語?惜しい。私なら「本当に主体的に生きるとはどういうことなのかを探る話」というかもしれない。
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