
うえの
@uen0
2025年5月10日

あなたのことが知りたくて
デュナ,
ハン・ガン,
チョ・ナムジュ,
松田青子,
深緑野分,
西加奈子
読み終わった
知ろうとすることを諦めずにいたい。と同時に、緩慢な加害者になりうる可能性を忘れずにいたい。
印象に残った言葉----------
《韓国人の女の子》
いつからか、誰かの「正しさ」のために戦おうと思う時、「正しいこと」をなぞろうとする時、「正しいこと」を話している時、体のどこかが軋むようになった。簡単な場所ではなかった。私も触ったことがない、どこか分からない場所だった。自分自身でも気づかないほどの、疼きと言っていいほどの動きだった。いっそ、強い痛みを伴ってくれたらいいのに、それにはわずかな痛みすらなかったから、私はそれを無視した。
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《ゲンちゃんのこと》
黙ってたら私じゃなくなるっしょ
私は膨らみ続ける胸を小さく見せようと、背中を丸め、猫背になることにした。
小学生の時、すね毛が濃く生えてきた男子をからかう声を何度も聞いたけど、今は逆で、すね毛が生えていない男子の方が目立ってしまう。私は胸が膨らんできて触られ、前は力で勝っていた相手に勝てなくなり、かつて友達だった子は、遺書も書かずに飛び降りてしまった。これが大人になるということなら、私は大人になりたくないと思った。
「結構知られた噂だったけど、ま、人それぞれに知るタイミングも認知の方向も速度も違うからね。ゲンのお母さんがあの日、僕らにわざわざキムチと冷麺を食わせた理由がわかる?はじめて家に来た、つまりゲンのバックボーンに踏み入ったホリカワさんや俺がどんな反応をするか、ちゃんと見たかったんだ、たぶんね」
「お母さんは息子を守りたかったんだと思う。俺やホリカワさんが変な顔したり、嫌がったりしたら、家から追い出そうとしただろうしな」
ぼーちゃんに言われても、まだわからない。ただひとつわかるのは、この違いを嫌悪して振るわれる暴力が、学校にも、私の家族の中にさえあり、ゲンちゃんと家族はそれと闘っているのだ。ずっと。それなのに私は無邪気すぎて、こうやって教えてもらうまで気づくことさえできなかった。
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《名前を忘れた人のこと》
日本だとか韓国に限らず、世界中のそれぞれの国に、同じような痛々しい罵倒の言葉があるのだろう。詳しくわからないからこそ、不用意に口にしてはいけないという予感だけまとう表現は、あらゆる文化の中にひっそりうずくまっている。ひとつの旅ごと、映画ごと、本を読むごとに、私たちはそれらについて自然に、注意深くなっていくのかもしれなかった。それぞれの言葉には、痛みの伴う悲しい文化があるのだろうと思え、悲しみごとすべて引き受けてその痛々しい言葉を口にすることが、よそから来た人間にはどう考えてもできそうになかったし、とはいえその言葉を、文化のなかでないものとして扱ってはいけないようにも思えた。
知らないでいようとすることが、表面上は無実に思える弱さと無知と、わずかのやさしさで成り立っていたとしても、この先そんな気持ちを抱えたままであれば、私はいったいどうなってしまうのか。今はもちろん、この先もずっと恐ろしいままだ。
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《解説》
「わかる」という言葉について考えてみる。
例えば相手の話のなかに自分と似たものを見出したとき。あるいは単に共感を示したいとき。そうやって「私たち」の連帯を強調したいとき。すくなくとも私自身は頻繁に——多分に鈍感に、無知ゆえの無神経から、その言葉を口にしてきたように思う。
けれど「私たち」とは本来、ひとりひとりが個別に存在する無数の「私」たちのことだ。
「あなた」と「私」。それぞれの輪郭をまず確かめてみせなければ、両者が同じ場所に在ることぱできない。
82年生まれ、キム・ジヨン
映画版韓国のキャッチコピー「誰もが知っているが、誰も知らなかった あなたと私の話」
「私たち」という枠に収まりきらないもの。「あなた」と「私」を分つことではじめて見えてくるもの。
互いの言葉がもたらす隔たりを確かめあうことで、「あなた」と「私」は何度でも出会い直すことができる。その営みの繰り返しの果てに、「連帯」という言葉ははじめて力を持つのだ。