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うえの
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@uen0
  • 2025年8月15日
    そっと 静かに
    そっと 静かに
    曲が分かったら、聴きながらその言語が聴き取れたら、もっと素敵な読書体験になるんだろうなぁと思った。 印象に残った言葉--------- そっと静かに 称賛はパワーになると言うけれど、度が過ぎるとかえって勇気を削ぐことにもなると、そのときはじめて知った。 よく知らないという渇き 私が自分の魂を売り渡したとき あなたは買い戻してくれて 私を支えてくれた これはこそらく、一糸乱れず、かっこよく、速く進む行進とは異なるのだと思う。よろめきながら、ふらつきながら、倒れそうで倒れない、それでもなんとか顔を上げて進む「歩み」なのなと思う。行進というよりは、行進しようとする姿勢とでもいうのだろうか。 もっと良くなるはずだという思いだけが 人生と道を変えるはず 淡々って、あんなにも大きな力なんだ。 生きてゆける道を取り戻すこと 愛する時間は多くない 「子育て中だからって残り物ばかり食べたり、疲れてるのに窮屈な格好で寝たりしてはいけませんよ。引け目を感じることなく食べて、手足を伸ばして寝なさい。妻を見ていて思いました。そうやって生きてきた結果、痛かったり具合の悪かったりするところがどれほど多いことか…。一度きりの人生じゃないですか」 私たちの胸にも白い雪が降るときがあるでしょう その雪が溶けるまで一緒に歩いてみましょう 見てください 私は踊っています 燃え立つ車椅子で なんの魔術も秘法もありません ただ、いかなるものも私を完全に破壊できなかっただけ 傷ついても損なわれない人たち。いかなるものにも破壊されない「最後の私」を感じさせる人たち。 痛みよりは光として残る思い出。 そんな思い出があなたにもあるだろうか。百通りの気遣う言葉よりも胸が締め付けられる、黙って手を差し出す握手みたいな思い出が。 エイブルビー (誰か私の手を握ってください) もう、立ち上がって歩く時間 (もう、私の手を握って行きましょう) 誰か私の手を握ってください、という言葉を声にして出して言うのは難しい。だから断崖絶壁の上でも、手を伸ばせなくなってしまう人がいる。
  • 2025年8月3日
    八重歯が見たい
    八重歯が見たい
    訳者あとがきに、著者が物語の最後をどう改編したかが記されてるんですが、そこをそういうふうに変えてくれるチョン・セランさん一生好きだわ〜となった。 その性別であるが故に被る暴力や被害や偏見をたしかに描きながら、重さだけでなく軽やかに駆け抜けてゆくような希望とユーモアが胸にのこる。 印象に残った言葉--------- システムがシステム維持のためにしか回ってないことを知ってからは、耐えられなかったですね。放っておけばますますひどくなるのは自明なことでしたし。 役に立つ生命体じゃないかもしれないけど、それなりにおもしろくはあるよなぁ そんなものになる必要ないと思うけど。誰かの何にもなる必要ないよ。 必ず幸せになるべきだとも思わないで。それは一時的な状態でしかないんだって。みんなその一時的な状態を手にしようとしてもがいてるのよ 確かに、失礼極まりない奴らに公正だなんて、クソくらえです 人類は二十万年も進化しながらも、明らかな悪の部分をどうして取り除くことができなかったのだろう。この陳腐な話からどのようにして抜け出すことができるかについて書く人間として、何度も噛み締めるべき問いだった。 著者あとがき 会ったことのない誰かの口の中で、ポッピングシャワーのようにパチパチと弾けたいという気持ちは、ずっと変わっていません。軽さを恐れなかった時にこそ得ることができる重さを推し量りながら、へこたれずに書き続けていきます。 訳者あとがき いろいろなところで非常ベルを見かけた。トイレで盗撮についての注意喚起とともに設置されたものや、ズバリ「女性安心ベル」と名付けられたものもあった。その非常ベルを見るたびに、安心する一方、なぜか複雑な気持ちにもなった。私たちの周りには、のんなにもたくさんの危険が潜んでいるのか、と。
  • 2025年7月25日
    交渉力
    交渉力
    上司に勧められて読んだ。著者とは政治的思想は合わないので、そこの観点では疑問に思う部分は多々あったが、交渉にだけ割り切って読んだという感じ。読みやすい一冊だと思う。 「政治家は道徳家ではない」とあったが、直近の選挙を見るに、最低限の倫理観はやっぱ必要だと思う。交渉力という面では不要なのかもしれんが、政治家の仕事は交渉だけじゃなかろう。 そんで、交渉という側面では日韓の歴史を踏まえる必要はないとかいう言葉もあったが、そんな態度を続けてしまっているからこそ、近年の排外主義や歴史修正主義的なヤカラが幅を利かせてしまってるんじゃないか。 交渉という目先よりも、もっと重んじることの方がほんとはある。そういう部分を頭の片隅に置きながら、学び取れるところだけ学びとる読み方が良さそう。
  • 2025年7月8日
    回復する人間
    回復する人間
    急に傷つくことはあっても、急に回復することはないのかもしれない。光の加減で少し煌めく細い糸を少しずつ手繰り寄せていくような、そんな回復。 全てを手繰り寄せたとて、壊れる以前の自分に戻るわけではない。 それを分かりながらも、手繰り寄せていくような歩み。 そして夢がどの物語にも現れる。 印象に残った言葉---------- 回復する人間 彼女はまるで散歩に出てきた人みたいにゆぬくりと、壊れやすい沈黙を保護しているかのような慎重な足取りで階段を上っていた。 どんな人間関係にもありうる誤解と幻想が、彼女と私のあいだにもあった。 姉さんの罪なんて、いもしない怪物みたいなものなのに。そんなものに薄い布をかぶせて、後生大事に抱いて生きるのはやめて。ぐっすり眠ってよ。もう悪夢を見ないで。誰の非難も信じないで。 だけどそのうち一つだって、私は口にすることができなかった。 彼女が帰ってこない。この文章を消して私は待つ。全力で待つ。あたりがほの青く明るくなる前に、彼女が回復した、と最初の一行を私は書く。 これらのすべての痛覚はあまりにも弱々しいと、何度も両目をまばたきしながらあなたは思う。今、自分が経験しているどんなことからも、私を回復させないでほしいと、この冷たい土がもっと冷え、顔も体もかちこちに凍りつくようにしてくれと、お願いだからここから二度と体を起こせないようにしてくれと、あなたは誰に向けたものでもない祈りの言葉を口の中でつぶやきつづける。 こんな日の夜の散歩でいちばん大事なのは視線に耐えるということだ。偏見と嫌悪、軽蔑と恐怖の視線、ときに露骨でときに慇懃なそれらの視線を感知しながら黙って前へと進む。 離れ小島に二人きりで漂着したように、私たちはしだいに互いを窒息させるようになった。そうして、二度と渡れない川を作っていった。互いへの配慮、相手のためになりたいという気持ち、友情、仲間意識などは川の向こうに残された。 痛みがあってこそ回復がある。 韓国の小説を読んでいると往々にして、本を閉じても登場人物が何処かで生きつづけているような気がすることがある ページを閉じても終わらない、読者と一緒に生きていく女性たち。
  • 2025年7月3日
    アーモンド
    アーモンド
    分かり合えなくても、ともに生きてゆけると信じてやまない。
  • 2025年6月28日
    戦争は女の顔をしていない
    戦争は女の顔をしていない
    映画「戦争と女の顔」と小説「同志少女よ、敵を撃て」を経て、このドキュメンタリー小説に辿り着いた。女性から見た戦争が描かれることの少なさ。 女性が前戦で戦っていたということにも驚いたけど、その時代のプロパガンダの恐ろしさを垣間見た気がした。そして戦後のメンタルケアが行き届いてはいないのだなということも。それは日本も同じだだたんだろうと思う。 善悪ってなんなんだろうな。 理想家だと言われようが、現実が見えてないと言われようが、「戦争反対」と言い続けられる側でありたい。 印象に残った言葉---------- 戦争は女の顔をしていない わたしはただ録音し、書き取っているだけではない…話を集め、苦悩のおかげでちっぽけな人間が大きくなるときの心の道筋をたどろうとしている。 大きな内容を秘めたちっぽけな人たちを探している 苦しみ抜いた人は人間より自由になる、自分にしか従わないでいいのだから、と以前は思っていた。その人自身の記憶がその人を守ってくれる、と。だががならずしもそうではないらしい。苦しみを知ったというそのことは決して触れることのない予備として、あるいは多層の鉱石にまじっている金粉のように別個に存在するらしい。長い時間をかけてありふれた岩を磨きだし、一緒に日常の雑事の積み重なった中を掘り返すと、ついにそれが光を放ち、価値を持つ! 男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿となった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。〈普通の女の幸せ〉とかいうものにこっそりすり替えられてしまった。 忘れちゃいません、何一つ。でと、捕虜を殴れなかった。相手が全く無防備だという理由だけでも。こういうことは一人一人が判断したこと、そしてそれは大事なことだったの。 あたしたちと別れていく時にゃ、振り返ってあたしたちを、あたしたちの小屋を見ておくれ。他人行儀に一度だけじゃなくて、身内がやるように二回だよ。それだけで、他には何もいらないよ、ただ振り返ってくれりゃあ…
  • 2025年5月24日
    私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯
    読むたびに好きだなぁという感慨が深くなる作家の1人。人の確かな優しさと信念と逞しさが、柔らかな温度を持って染み渡ってくる。そんな物語がたくさん入っていた。 アラという名前の主人公たちの物語は優しい強さを持っていて、痛みと向き合う姿が眩しかった。彼女たちの目を通して見える世界が、たしかに今の私たちのどこかに存在している。 マリ、ジェイン、クレールがあまりにも愛おしくて抱きしめたくなる物語だった。 印象に残った言葉---------- アラの小説 恋愛諸説を読み書きする人を愛した。しかし、女性が三日に1人殺されていることを知ってから、性産業の大きさと惨憺たる実態を知ってしまったから、トイレにある穴の正体に気づいてから、デジタル性犯罪についての調査報道を追いかけて読んでから、アラの中にある何かが死んだ。 物語が社会に影響を与えると同時に、社会も物語に影響を与え、ついに物語と社会の二つが双方向の矢印になる。その責任から目を背けてはならない。 女性の書き手だけが、薄氷のうえを歩くようにして倫理的な悩みを抱くと嘆く同僚もいる。数千年に渡って男性の書き手たちがやってきたように、ありとあらゆる禁忌の上に寝転び、胡座をかいてはいけないのだろうかと。そんな想像をするだけでも慰めになるけれど、もっと巧みに書く方に足を向けることができなければ、いつしか見限られてしまうだろうという不安から抜け出すことができない。 泰然とした顔をする暴力の気配を、素早く察知し、安全でかつ自由になる主人公について書いてみようと思った。愛情のように見えて愛情ではないことについて、緻密に。恋愛の話のように読めるのに、恋愛の話ではない物語を、とぼけているような顔をして。 妥協でしかない、というのは承知の上だ。だか、進み続けているうちに妥協を乗り越えた答えが見えてくるかもしれない。 アラの小説2 自分を疑うのではなく、攻撃する人たちの意図を把握するようにしよう、と何度も自分に言い聞かせているが、それで生まれながらの瞬発力の鈍さが鍛えられるわけでもない。 読みやすい小説がどれほど難しいプロセスを経て完成されるかは、読みやすく書ける人にしかわからないことだと信じてきた。 復讐は、このようにして世の中が代わりにやってくれるものなのかもしれない。 コラムを一つ発表すると、そこに何百個もの悪質なコメントがつく。そんなものに対してシールドを一枚貼り、性別をわかりにくくして、もっと好意的な評価を受けることもできたかもしれない。だけど、胸の内では、そんなことはしたくないと思った。若い女性を思わせる名前で、しっかりやってのけたかった。 M 「うん、通報もするけど、みんなに知ってもらわなくちゃいけない気がする」 Mを避けなければならないということを?あるいは、読者から注がれている愛情を、作品を掲載できる紙面を、権力を、Mから奪ってこなければならないということを?私にも明確な答えはない。 最悪の状況を想定して書いた話が現実に近づいてしまうことが二度と起きないことを願うばかりだ。 私たちのテラスで 私たちは剥奪された世代で、世の中は私たちから奪っていったものを永遠に返さないだろうし、その確固とした拒否によって、世界はいつか崩れ始めるだろう。それまで私たちにできることは何もなく、限界にぶつかりながら一瞬のセンスを輝かせ、消えていくはずだ。 私は同意するつもりで、エムジェイのグラスに私のグラスをぶつけた。なんの音もしなかったけれど、そんな効果音くらい、いくらでも頭で想像することができる。 好悪 みんな立派に暮らしてめでたい訃報になろう、と言って笑いました あなたがこらえて のみこんでいるものについて 私が代わりに想い 捨てられるならば、 有毒でも嬉しいことでしょう スイッチ 何重ものフィルターで濾されて出てくる言葉が好きなんです。私にはできないことなので。 アラの傘 歳にそぐわない疲労感のせいで、若者が老いぼれていく。変わらない世界、分かち合えない世界、過酷な方へと悪化してしまう世界で、老化は加速される。 人生の質を犠牲にして得るものがなければ、自分を燃料がわりにして燃やそうと思えないだろう。 恋人は済州島生まれ育ち 彼女でもなく彼氏でもなく、恋人という言葉を思いっきり使ってみた小説でもある。 ヒョンジョン ロアルド・ダールが口癖に言っていた言葉が記されている。「私は思う。親切こそが人間の持ちうる最高の資質だと。勇気や寛大やその他の何よりも。あなたが親切な人間なら、それで十分だ」。 訳者あとがき 「完全に回復できないことを認めたうえで続ける」
  • 2025年5月10日
    あなたのことが知りたくて
    あなたのことが知りたくて
    知ろうとすることを諦めずにいたい。と同時に、緩慢な加害者になりうる可能性を忘れずにいたい。 印象に残った言葉---------- 《韓国人の女の子》 いつからか、誰かの「正しさ」のために戦おうと思う時、「正しいこと」をなぞろうとする時、「正しいこと」を話している時、体のどこかが軋むようになった。簡単な場所ではなかった。私も触ったことがない、どこか分からない場所だった。自分自身でも気づかないほどの、疼きと言っていいほどの動きだった。いっそ、強い痛みを伴ってくれたらいいのに、それにはわずかな痛みすらなかったから、私はそれを無視した。 __________ 《ゲンちゃんのこと》 黙ってたら私じゃなくなるっしょ 私は膨らみ続ける胸を小さく見せようと、背中を丸め、猫背になることにした。 小学生の時、すね毛が濃く生えてきた男子をからかう声を何度も聞いたけど、今は逆で、すね毛が生えていない男子の方が目立ってしまう。私は胸が膨らんできて触られ、前は力で勝っていた相手に勝てなくなり、かつて友達だった子は、遺書も書かずに飛び降りてしまった。これが大人になるということなら、私は大人になりたくないと思った。 「結構知られた噂だったけど、ま、人それぞれに知るタイミングも認知の方向も速度も違うからね。ゲンのお母さんがあの日、僕らにわざわざキムチと冷麺を食わせた理由がわかる?はじめて家に来た、つまりゲンのバックボーンに踏み入ったホリカワさんや俺がどんな反応をするか、ちゃんと見たかったんだ、たぶんね」 「お母さんは息子を守りたかったんだと思う。俺やホリカワさんが変な顔したり、嫌がったりしたら、家から追い出そうとしただろうしな」 ぼーちゃんに言われても、まだわからない。ただひとつわかるのは、この違いを嫌悪して振るわれる暴力が、学校にも、私の家族の中にさえあり、ゲンちゃんと家族はそれと闘っているのだ。ずっと。それなのに私は無邪気すぎて、こうやって教えてもらうまで気づくことさえできなかった。 _________ 《名前を忘れた人のこと》 日本だとか韓国に限らず、世界中のそれぞれの国に、同じような痛々しい罵倒の言葉があるのだろう。詳しくわからないからこそ、不用意に口にしてはいけないという予感だけまとう表現は、あらゆる文化の中にひっそりうずくまっている。ひとつの旅ごと、映画ごと、本を読むごとに、私たちはそれらについて自然に、注意深くなっていくのかもしれなかった。それぞれの言葉には、痛みの伴う悲しい文化があるのだろうと思え、悲しみごとすべて引き受けてその痛々しい言葉を口にすることが、よそから来た人間にはどう考えてもできそうになかったし、とはいえその言葉を、文化のなかでないものとして扱ってはいけないようにも思えた。 知らないでいようとすることが、表面上は無実に思える弱さと無知と、わずかのやさしさで成り立っていたとしても、この先そんな気持ちを抱えたままであれば、私はいったいどうなってしまうのか。今はもちろん、この先もずっと恐ろしいままだ。 ________ 《解説》 「わかる」という言葉について考えてみる。 例えば相手の話のなかに自分と似たものを見出したとき。あるいは単に共感を示したいとき。そうやって「私たち」の連帯を強調したいとき。すくなくとも私自身は頻繁に——多分に鈍感に、無知ゆえの無神経から、その言葉を口にしてきたように思う。 けれど「私たち」とは本来、ひとりひとりが個別に存在する無数の「私」たちのことだ。 「あなた」と「私」。それぞれの輪郭をまず確かめてみせなければ、両者が同じ場所に在ることぱできない。 82年生まれ、キム・ジヨン 映画版韓国のキャッチコピー「誰もが知っているが、誰も知らなかった あなたと私の話」 「私たち」という枠に収まりきらないもの。「あなた」と「私」を分つことではじめて見えてくるもの。 互いの言葉がもたらす隔たりを確かめあうことで、「あなた」と「私」は何度でも出会い直すことができる。その営みの繰り返しの果てに、「連帯」という言葉ははじめて力を持つのだ。
  • 2025年4月23日
    菜食主義者
    菜食主義者
    痛みの蓄積。その回復を求めずに、ただ朽ちてゆく。それが唯一の復讐のようでもあり、誰にも主導権を渡さずに全うする強固な意思のようでもあった。 印象に残った言葉---------- 彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった。 慰めや情け容赦もなく、引き裂かれたまま最後まで、目を見開いて底まで降りていきたかった。
  • 2025年4月19日
    別れを告げない
    別れを告げない
    歴史における虐殺やジェノサイドというテーマで書き続けようという意思と、その影響力をこの分野に使おうとする生き様に、ただただ圧倒されるし、尊敬の念を送りたくなる。 その力強さが、静かに私を見つめているような読了感。 そのピリッとした眼差しを忘れないで生きてゆけたら。 日本も無縁の話ではない。 あの戦争がもたらしたもの。あの戦争がなければ起きなかったこと。 そこに想いを馳せる時間にもなると思う。 加害の歴史を持つ国の立場として、その歴史を改めて実感する意味でも、読んで良かったと思う。 在日と呼ばれる人たちが存在する歴史のひとつでもある。 知ろうとすることが、何かをすこしでも解決することにつながると信じたい。 そして、ケアの物語でもあり、親から子・子から親の理解の物語でもあり、「この人の存在が私を生かした」という愛の物語でもある。 哀悼は終わらない。終わらせてはならない。
  • 2025年3月9日
    私と踊って
    映画ウィキッドを見たら、なんだかこの短編を読みたくなった。
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