
益田
@msd
2025年5月24日

悪について
エーリッヒ・フロム,
渡会圭子
読んでる
「集団的ナルシシズムは個人のナルシシズムほど認識するのが容易ではない。誰かが「私(そして自分の家族)は世界一すばらしい人間だ。私たちだけが清潔で、知的で、善良で、上品だ。他の人はみんな汚れていて、愚かで、不正直で無責任だ」と言えば、たいていの人はその人が粗野で、バランス感覚に欠けており、正気でないとさえ思うだろう。しかしこの狂的な人間が、大勢の聴衆に向かって、“私”や“家族”を“国家”(あるいは民族、宗教、政党など)に代えて語れば、彼はその国や神などへの愛に満ちた人間として賞賛され尊敬されるだろう。しかし他の国家や宗教はそのような演説を聞けば、見下されたと感じて憤慨するはずだ。それでも持ち上げられた集団の内部では、全員の個人的なナルシシズムがくすぐられ、何百万もの人々が賛同しているのだから、それが正当なことに思える(大部分の人がそれを“正当”だと考えるということは、全員ではないとしても、少なくともかなりの数の人が贅同していることを意味する。大半の人にとって“正当”であるということは、理性ではなく世論の問題なのだ)。集団が全体として、生き残りのためにナルシシズムを必要とする限り、さらにナルシシスティックな姿勢を助長し、自分たちが特に立派な存在であるという特権を与える。」(p105-106)

