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益田
益田
益田
@msd
頑張って読んでます メモも兼ねて引用してます
  • 2025年9月12日
    クリーンミート 培養肉が世界を変える
    クリーンミート 培養肉が世界を変える
    畜産が抱える資源の問題や環境問題についてていねいに取り上げていて良かった。 培養肉が万博では試食できないのを聞いて、まだそこまで気軽に衛生に問題なく配れるの段階じゃないのかとは思いつつもいつかスーパーなどに並ぶ日が来たら絶対食べようと思った。
  • 2025年9月5日
    クリーンミート 培養肉が世界を変える
    クリーンミート 培養肉が世界を変える
    ・培養肉の購買層として想定されてるのはベジタリアンではなく肉を好んで食べる人 ・人口の増加・国がゆたかになることは富裕層だけのものだった畜産製品に大勢が手をつけることになった。→畜産物の需要が急増すれば地球は持ちこたえられない ・畜産物の包装の表示によくある「地場産」「オーガニック」「遺伝子組み換えでない」といった流行のキャッチフレーズをどれだけ並べようと、この非効率性は変わらない ・本物の肉を培養することで動物の飼育や殺処分を不要にして、肉を食べ続けれるようにすることが目的 ・フェイクミート(大豆ミートなど)の植物性由来のものと細胞農業(培養肉)は別分野 ・培養肉は食の安全性が肉より遥かに高く動物由来の伝染病蔓延のリスクも劇的に減らせる ・食肉生産にな膨大な量の土地と水と肥料と石油などの資源が使われている→世界で生産されている大豆の半分は動物の肥料(熱帯雨林破壊などの問題もある)
  • 2025年9月5日
    ヨーロッパ思想入門
  • 2025年8月31日
    14歳から考えたい 暴力
    14歳から考えたい 暴力
    暴力について歴史的・文化的背景で変化している旨と、様々な学者や主義主張・統計を紹介し、本当にそれが正しいのか、正確なのかを我々に考えさせる本だった。国家が暴力の独占をしている所は昔読んだヴェーバーの本を思い出した(実際述べられている)ので、読み返したいと思った。また、国家の暴力については元々気になっていたから読めて良かった。 暴力反対と言っても私たちが生活の中で得たイデオロギーによって暴力に参加する可能性があることを忘れてはいけない。(特に気軽に参加できるネットには!) 「歴史のなかでわたしたちが何世紀にもわたって目撃してきたことからすれば、すべての人間は、文化的、社会的、宗教的、政治的な背景がととのって条件が合致すれば、暴力行為や、場合によっては残虐行為をおこなう可能性を秘めているのです。」(p230)
  • 2025年8月31日
    14歳から考えたい 暴力
    14歳から考えたい 暴力
    西洋が若干中心的ではあるが、様々な大陸地域での歴史的経緯と学者の見識を通して考えさせる構造になっていてすごくありがたい。 ・「殺人の周縁化」、犯罪とはおもに法の枠外にいる社会的地位の低い人びとによっておこなわれる攻撃的な紛争管理の一形態であるという主張(ドナルド・ブラック) →実際、そうした人びとは法律を抑圧的で、自身の日常生活からは遠いものと考えることが多いから、紛争の解決に殺人を含む攻撃的手段を用いる傾向が強い。 →殺人の減少は、必ずしも国家の強大化そのものが理由ではなく、国家と市民の関係によるもの。 ・16世紀以降主権国家として暴力の独占が進んでいた。暴力を行使する司法機関を管理し、暴力の脅威や違反者に対する実際の身体的な処罰によって国民に法律を遵守させる側面と、(西ヨーロッパで)儀式や典礼、象徴を通じて国家の「自然的脅威」を示す広いメッセージを伝える行為でもあった。 ・宗教は必ずしも暴力の原因ではないがしばしば暴力に対して道徳的な正当化を提供する。
  • 2025年8月30日
    14歳から考えたい 暴力
    14歳から考えたい 暴力
    「正当である」と「正当ではない」の区別は、暴力の性質よりも、法や国家権力の性質に関係があります。 なぜなら、そこには<正当なこと>と<正当ではないこと>を決めるのはだれなのか、という問題が隠されているからです。そして、専制政治の打倒、植民地主義者の追放、搾取構造・制度の解体といった「正しい目的」を達成するために役立つ手段としての暴力を含めて、「正当性」という概念が拡大されると、この問題はさらに複雑になります。 こうした抵抗運動の場合には、暴力はおそらく道徳的な要請であり、その過程で人びとを救うものともなりうるのです。
  • 2025年8月30日
    クリーンミート 培養肉が世界を変える
    クリーンミート 培養肉が世界を変える
  • 2025年8月29日
    14歳から考えたい 暴力
    14歳から考えたい 暴力
  • 2025年8月28日
    八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)
    八月十五日という作られたナラティブなナショナリズムの経緯とそれに対するメディアの在り方が辿れて面白かった。かなり重厚で、戦後の日本によって作られた八月十五日という存在がつくられた集合的記憶でしかないという指摘にはスピヴァクのナショナリズム批判を思い出した。80年経った今、戦後を象徴するためのナラティブという存在を今一度考える必要があるなと思った。
  • 2025年8月28日
    いのちへの礼儀
    この手の話題は割と相手サイドを冷笑か罵倒しているイメージだったが、この本はかなり冷静に話を書いていて好感をもった。工業化の実態や捕鯨問題の何が問題なのかなどを丁寧に書いており、それに加えて動物とはどういうモノなのかということに誠実に向き合っている本だと感じた。人間の傲慢さをつきつけつつも、動物と共存・福祉の点を話していてここら辺に疎い身としてはかなり学びが多く、勉強になった。 途中のヴィーガンの論理である人間優先から人格優先になった場合、本当に障害者差別などは起きないのか?と不安と疑問に思った。ここら辺のヴィーガンの論理を学びたい!
  • 2025年8月25日
    八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)
    「あえて創作してまでも「敗者」が必要とした玉音写真の機能をメディア論からまとめておこう。 確かに、敗者は映像を持たない。しかし、自らの歴史を語るために、写真は不可なメディアである。写真は、一瞬の出来事を時間の流れから取り出し、固定させるパーソナルなメディアとして発明された。 やがて、出来事を忘却から守る写真は、「歴史」を生み出すメディアへと発展した。こうして証拠写真を所有するものが、過去を所有するものとなる。あらゆる写真には、歴史のポリティックスが内在している。 第一章で明らかにするように、戦後の日本人は玉音放送の八月一五日を終戦記念日と記憶し、戦艦ミズーリ号で降伏文書調印が行われた九月二日の降伏記念日を忘却した。」(p51-52)
  • 2025年8月24日
    思いがけず利他
    利他は相手に受け取られて初めて利他となるという視点には目からウロコだった。相手が喜んでくれるだろうというだけでは利他にはならないというのは肝に銘じたい。 与格の話と情動的なことが利他というのも興味深く、また仏教や九鬼周造の話との関連性が面白かったので、そこら辺も学んでみたいと思った。
  • 2025年8月24日
    いのちへの礼儀
    「わたしたちがペットの犬や猫を「オスが産まれたらただちに殺処分する」「方向転換できない狭いケージの中で死ぬまで飼う」「二週間程度、絶食・絶水して栄養不足にさせる」「排泄物まみれの寝床で飼い続ける」「去勢手術を獣医師でない者が麻酔なしに行なう」としたら、飼い主であれペット業者であれ、重大な動物虐待として厳しく批判されるにちがいありません。 しかし、牛や豚や鶏へのこうした行為は問題にされません。なぜなら、牛、豚、羊、鶏は「愛護動物」(家族の一員)ではなく「経済動物」(資本の一貫)だからです。事実、こうした家畜たちは、人間の食糧になると同時にペットの「エサ」にもなります。キャットフードの「原材料」表示にある主原料には「鶏、牛、豚、サーモン」がよく書かれています。国産のキャットフードは、主に食品製造段階で出る人間の食用以外の部位が原料にされているからです。阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震を通して、ペットについて「家族の一員」から「社会の一員」への転換の必要性が言われました。しかし、家畜動物はその意味での「社会の一員」とはみなされていません。 その背景の一つには、日本には「働く」家畜(役畜)は存在しても「食べる」家畜が存在しなかったという歴史的特異性があります。世界の多くの人にとって、肉食は「大事に育てた動物を、自分の手で屠殺して家庭や地域で食べる」というものとして文字通り血肉化していました。しかし、一二〇〇年の間、日本には「食べるための家畜をかわいがる(尊重する)」という関係は存在しませんでした。近代以降の日本人にとって、肉食は最初から「近代産業」として、家畜は単なる「食材」として捉えられたのです。」(p165-166)
  • 2025年8月23日
    いのちへの礼儀
    「かつて「地域共同体の一員」だった犬や猫は、一九九〇年代以降、「家族の一員」であると同時に、ペット産業によって生死を管理される「商品」=「資本の一員」になりました。しかし、その「大量生産」「大量消費」の中で、ペットたちは過去に例のない虐待を受けるようになりました。 震災のさい、犬や猫は「社会の一員」として扱われず、行き場のない状態が大きな問題となりました。しかし、「生体商品」になった大や猫たちも、やはり必ずしも生命や健康を尊重される「社会の一員」としては扱われなかったのです。」(p71)
  • 2025年8月21日
    いのちへの礼儀
    ・犬/猫の名前が人間の名前と被るようになってきている 例:ハナ・サクラ・リク・メイ →犬猫の「見た目」などで決める名付けは避けられて、個人の嗜好を示すものになっている →ある時期まで日本人の名前は家族制度や国家政策、経済政策を反映していた。しかし、現在は「独特の個性」や私的な嗜好を感じさせるものに変化していて、キラキラネームなどの珍しい名前が珍しくない時代に変化→子供とペットの区別することが無くなってきている 牧野恭仁雄「名前にはその時代の欠乏感が反映される」 ・あらゆる地域・階層で「単なる愛玩動物ではなく、家族の一員、人生のパートナーとして扱う人」が増えてきてきいる ・「ペットは労働もせず食料も生産せず、手間だけかかっています。こういう存在を、かつては「穀潰し」と言っていました。同じようでも、多くのこどもはやがて働き手として役立つでしょうが、大やネコはほとんどの場合、役立たずなままです。このような「役立たず」な動物を愛するのは、ある種の「倒錯」ではないでしょうか?しかし、エス氏や他の多くの人たちは、こうした動物を「目に入れても痛くない」(=自分の一部の)ように大事に育てています。 こうした動物が「家族」の一員だとすれば、わたしたちの「家族」は「ファミリア(ラテン語で家内奴隷から家畜まで含む世帯単位)」でも「近代家族」でもありません。わたしたち現代家族は、異種間の感情的なつながりを優先した、人類史上例のない共同体なのです。」(p59-60)
  • 2025年8月21日
    いのちへの礼儀
    めっちゃおもしろい!!
  • 2025年8月20日
    ナショナリズムと政治意識
    読了 ナショナリズムが右翼的排外的なワードではないということを紐解いてくれる本。筆者の価値判断や主観はかなり少なくて良かったです! ナショナリズムは国や時代の移り変わりで姿が変わるし、左右は政治・経済だけでなく、社会文化(GAL-TAN)的争点を見なければいけないくらい多次元的になっているのは学びがあったし、思い当たるところもあった。データで読み解いていくので興味深く読めました。左右・リベラル・ナショナリズムとの関係は国によって姿をかえ、相互の結び付きも大いに異なることを考えると一概にこうだ!というのは難しい事だな〜…。 ナショナリズムについて振り返りたい時に読み返したい。 環境保全との関係性についてはなんとなく考えていたので、こういうアプローチも大事かもしれないと思わされた(利己的な今の私たちに環境保全が出来るかは置いといて…)
  • 2025年8月20日
    ナショナリズムと政治意識
    「自国の伝統文化をその豊かな自然と牧歌的風景の中に求め、その生活様式こそが自分たちの本来の生き方であり文化であると主張する場合、ナショナリズムと環境主義は手を取り合うことになる。「『私たち』の山や丘、私たちの川や瀬や草原、それらの格別な美しさを賞賛しないナショナリズムなど考えられない」とはナショナリズム研究の第一人者スミスの言だ。環境主義からみて、ナショナリズムは、ありうべき自然と調和した自分たちの本来的な生活様式を回復しようとする運動となり、ナショナリストにとって環境主義の主張は自分たちの生活様式の姿を提供する原理となる。祖国の自然と環境を取り戻せ、というたぐいの主張が生まれる時、ナショナリズムと環境主義はむしろ同じ方向を向くことになる。この現象は、「エコナショナリズム」「環境ナショナリズム」 「緑ナショナリズム」(Eco-nationalism/Environmental nationalism/Green nationalisn)などの様々な名称のもとで、学術的にも議論されている。」(p117)
  • 2025年8月18日
    ナショナリズムと政治意識
    3章メモ ・日本においてナショナリズムは右派の論理として受容されている風潮がある ・「日本の有権者の、ナショナリズム関連意識の結びつきをその程度に応じて大きく分けると、ナショナルプライド/愛国心と排外主義を中心として、2グループに分類できそうだ。日本が好きという素朴な帰属意識はナショナルプライドと強く関連しているが、中国嫌いに代表されるショービニズムや排外主義とは相関関係がない。ナショナルプライドはエスニックな日本人要件と相関しており、無視できない程度には排外主義とも相関している。ただし、排外主義感情は民族的ナショナリズムや反中意識のショービニズムとの両方でより強く相関している。」(p93) ・ナショナルな意識は右派に結びつく国が相対的多い(日本もそう)が、ナショナルな意識が政治的な左と結びついてる国は相当数ある。 →左の観念と「平等」が結びついて、右の観念と「伝統」が結びついている。ナショナリズムは伝統と平等どちらも包含する概念なのでどちらとも結びつく。→国民国家像を強化する保守の原理であることもあれば、現行の政治体制に立ち向かう革新の原理になるケースもある。 「もっと言えば、両者が特に明確に結びつかないパターンもある。(中略)半分程度の国では、ナショナルな意識が強いか弱いかということと、人々の政治的な左右認識はつながっていない。そういった国々で、仮にナショナリズムの高まりや、そういった政治的主張の高まりが見られたとしても、それは右傾化とはいいがたいだろう」(p97)
  • 2025年8月18日
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