

益田
@msd
頑張って読んでます メモも兼ねて引用してます
- 2025年8月25日読んでる「あえて創作してまでも「敗者」が必要とした玉音写真の機能をメディア論からまとめておこう。 確かに、敗者は映像を持たない。しかし、自らの歴史を語るために、写真は不可なメディアである。写真は、一瞬の出来事を時間の流れから取り出し、固定させるパーソナルなメディアとして発明された。 やがて、出来事を忘却から守る写真は、「歴史」を生み出すメディアへと発展した。こうして証拠写真を所有するものが、過去を所有するものとなる。あらゆる写真には、歴史のポリティックスが内在している。 第一章で明らかにするように、戦後の日本人は玉音放送の八月一五日を終戦記念日と記憶し、戦艦ミズーリ号で降伏文書調印が行われた九月二日の降伏記念日を忘却した。」(p51-52)
- 2025年8月24日思いがけず利他中島岳志読み終わった利他は相手に受け取られて初めて利他となるという視点には目からウロコだった。相手が喜んでくれるだろうというだけでは利他にはならないというのは肝に銘じたい。 与格の話と情動的なことが利他というのも興味深く、また仏教や九鬼周造の話との関連性が面白かったので、そこら辺も学んでみたいと思った。
- 2025年8月24日いのちへの礼儀生田武志読んでる「わたしたちがペットの犬や猫を「オスが産まれたらただちに殺処分する」「方向転換できない狭いケージの中で死ぬまで飼う」「二週間程度、絶食・絶水して栄養不足にさせる」「排泄物まみれの寝床で飼い続ける」「去勢手術を獣医師でない者が麻酔なしに行なう」としたら、飼い主であれペット業者であれ、重大な動物虐待として厳しく批判されるにちがいありません。 しかし、牛や豚や鶏へのこうした行為は問題にされません。なぜなら、牛、豚、羊、鶏は「愛護動物」(家族の一員)ではなく「経済動物」(資本の一貫)だからです。事実、こうした家畜たちは、人間の食糧になると同時にペットの「エサ」にもなります。キャットフードの「原材料」表示にある主原料には「鶏、牛、豚、サーモン」がよく書かれています。国産のキャットフードは、主に食品製造段階で出る人間の食用以外の部位が原料にされているからです。阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震を通して、ペットについて「家族の一員」から「社会の一員」への転換の必要性が言われました。しかし、家畜動物はその意味での「社会の一員」とはみなされていません。 その背景の一つには、日本には「働く」家畜(役畜)は存在しても「食べる」家畜が存在しなかったという歴史的特異性があります。世界の多くの人にとって、肉食は「大事に育てた動物を、自分の手で屠殺して家庭や地域で食べる」というものとして文字通り血肉化していました。しかし、一二〇〇年の間、日本には「食べるための家畜をかわいがる(尊重する)」という関係は存在しませんでした。近代以降の日本人にとって、肉食は最初から「近代産業」として、家畜は単なる「食材」として捉えられたのです。」(p165-166)
- 2025年8月23日いのちへの礼儀生田武志読んでる「かつて「地域共同体の一員」だった犬や猫は、一九九〇年代以降、「家族の一員」であると同時に、ペット産業によって生死を管理される「商品」=「資本の一員」になりました。しかし、その「大量生産」「大量消費」の中で、ペットたちは過去に例のない虐待を受けるようになりました。 震災のさい、犬や猫は「社会の一員」として扱われず、行き場のない状態が大きな問題となりました。しかし、「生体商品」になった大や猫たちも、やはり必ずしも生命や健康を尊重される「社会の一員」としては扱われなかったのです。」(p71)
- 2025年8月21日いのちへの礼儀生田武志読んでる・犬/猫の名前が人間の名前と被るようになってきている 例:ハナ・サクラ・リク・メイ →犬猫の「見た目」などで決める名付けは避けられて、個人の嗜好を示すものになっている →ある時期まで日本人の名前は家族制度や国家政策、経済政策を反映していた。しかし、現在は「独特の個性」や私的な嗜好を感じさせるものに変化していて、キラキラネームなどの珍しい名前が珍しくない時代に変化→子供とペットの区別することが無くなってきている 牧野恭仁雄「名前にはその時代の欠乏感が反映される」 ・あらゆる地域・階層で「単なる愛玩動物ではなく、家族の一員、人生のパートナーとして扱う人」が増えてきてきいる ・「ペットは労働もせず食料も生産せず、手間だけかかっています。こういう存在を、かつては「穀潰し」と言っていました。同じようでも、多くのこどもはやがて働き手として役立つでしょうが、大やネコはほとんどの場合、役立たずなままです。このような「役立たず」な動物を愛するのは、ある種の「倒錯」ではないでしょうか?しかし、エス氏や他の多くの人たちは、こうした動物を「目に入れても痛くない」(=自分の一部の)ように大事に育てています。 こうした動物が「家族」の一員だとすれば、わたしたちの「家族」は「ファミリア(ラテン語で家内奴隷から家畜まで含む世帯単位)」でも「近代家族」でもありません。わたしたち現代家族は、異種間の感情的なつながりを優先した、人類史上例のない共同体なのです。」(p59-60)
- 2025年8月21日
- 2025年8月20日ナショナリズムと政治意識中井遼読み終わった読了 ナショナリズムが右翼的排外的なワードではないということを紐解いてくれる本。筆者の価値判断や主観はかなり少なくて良かったです! ナショナリズムは国や時代の移り変わりで姿が変わるし、左右は政治・経済だけでなく、社会文化(GAL-TAN)的争点を見なければいけないくらい多次元的になっているのは学びがあったし、思い当たるところもあった。データで読み解いていくので興味深く読めました。左右・リベラル・ナショナリズムとの関係は国によって姿をかえ、相互の結び付きも大いに異なることを考えると一概にこうだ!というのは難しい事だな〜…。 ナショナリズムについて振り返りたい時に読み返したい。 環境保全との関係性についてはなんとなく考えていたので、こういうアプローチも大事かもしれないと思わされた(利己的な今の私たちに環境保全が出来るかは置いといて…)
- 2025年8月20日ナショナリズムと政治意識中井遼「自国の伝統文化をその豊かな自然と牧歌的風景の中に求め、その生活様式こそが自分たちの本来の生き方であり文化であると主張する場合、ナショナリズムと環境主義は手を取り合うことになる。「『私たち』の山や丘、私たちの川や瀬や草原、それらの格別な美しさを賞賛しないナショナリズムなど考えられない」とはナショナリズム研究の第一人者スミスの言だ。環境主義からみて、ナショナリズムは、ありうべき自然と調和した自分たちの本来的な生活様式を回復しようとする運動となり、ナショナリストにとって環境主義の主張は自分たちの生活様式の姿を提供する原理となる。祖国の自然と環境を取り戻せ、というたぐいの主張が生まれる時、ナショナリズムと環境主義はむしろ同じ方向を向くことになる。この現象は、「エコナショナリズム」「環境ナショナリズム」 「緑ナショナリズム」(Eco-nationalism/Environmental nationalism/Green nationalisn)などの様々な名称のもとで、学術的にも議論されている。」(p117)
- 2025年8月18日ナショナリズムと政治意識中井遼読んでる3章メモ ・日本においてナショナリズムは右派の論理として受容されている風潮がある ・「日本の有権者の、ナショナリズム関連意識の結びつきをその程度に応じて大きく分けると、ナショナルプライド/愛国心と排外主義を中心として、2グループに分類できそうだ。日本が好きという素朴な帰属意識はナショナルプライドと強く関連しているが、中国嫌いに代表されるショービニズムや排外主義とは相関関係がない。ナショナルプライドはエスニックな日本人要件と相関しており、無視できない程度には排外主義とも相関している。ただし、排外主義感情は民族的ナショナリズムや反中意識のショービニズムとの両方でより強く相関している。」(p93) ・ナショナルな意識は右派に結びつく国が相対的多い(日本もそう)が、ナショナルな意識が政治的な左と結びついてる国は相当数ある。 →左の観念と「平等」が結びついて、右の観念と「伝統」が結びついている。ナショナリズムは伝統と平等どちらも包含する概念なのでどちらとも結びつく。→国民国家像を強化する保守の原理であることもあれば、現行の政治体制に立ち向かう革新の原理になるケースもある。 「もっと言えば、両者が特に明確に結びつかないパターンもある。(中略)半分程度の国では、ナショナルな意識が強いか弱いかということと、人々の政治的な左右認識はつながっていない。そういった国々で、仮にナショナリズムの高まりや、そういった政治的主張の高まりが見られたとしても、それは右傾化とはいいがたいだろう」(p97)
- 2025年8月18日
- 2025年8月18日アレント入門中山元気になる
- 2025年8月18日定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)ベネディクト・アンダソン,ベネディクト・アンダーソン,白石隆気になる
- 2025年8月18日道徳感情論アダム・スミス,高哲男気になる
- 2025年8月18日ナショナリズムと政治意識中井遼読んでる2章メモ ・歴史的に見てナショナリズムを利用したのは右翼だけでなく、フェミニスト・社会主義者・アナーキスト・共和主義者・世俗主義者などの勢力も利用している→日本の戦後は右派以上に左派が"民族統一"などのワードを使用していた(軍国主義の打破し、社会的連帯をめざすために) ・ナショナリズムは、政府と人々の関係そのものについては多くを語らない。ナショナリズムが気にかけるのは、国家と人々の関係を議論する土台ともいえる人々の社会的なまとまり(共同体)が、どのような単位でどのような人々によって担われるべきかに関して何かを主張する→誰が所属できて誰が所属できないかを論ずる。 →ナショナリズムにはエスニック(民族的)な紐帯を基盤とする要素が避けがたい要素として含まれている。それが前面にでるか後退してるかは主義主張次第。 ・ナショナリズムを構成する三要素、ナショナルプライド(誇り)とナショナル・アイデンティティ(帰属意識)とゼノフォビア(排外主義)があるが、その結び付きはさほど強くない。しかし社会がより開放的になるほど排他的な信念を持つ個人の中では、アイデンティティと排外性を強固に結びつける指摘がある。→「ナショナリズムを構成する諸要素の結びつきは複雑でニュアンスに富んでおり、簡単に「すべてのナショナリズムが排外性を帯びる」とも言い切れなければ、「自国を愛することと排外的になることは違う」とも言い切れないということである。」(p52) ・左右といっても(大雑把に)経済次元の左右もあれば社会文化次元の左右もある→自身の中にある左右の定義をしっかりしないと現実社会の議論で混乱のもとになる! 左派が平等という価値観を重視しているからといって右派が不平等に価値をおいている訳ではない→人々の才覚や能力・美徳などの自由に重きを置いているパターンもある →いずれにしても伝統と平等が国際比較的には左右認識の中核である
- 2025年8月18日民族とは何か関曠野読み始めた
- 2025年8月17日ナショナリズムと政治意識中井遼読んでるナショナリズムとは、一言で言ってしまえば、同じ文化を共有する人々がいるという言念のもと、そういった同じ文化の人々で公的な営みを進めていきたい、という意識や運動のことである。本書が全体を通じて示したいのは、ナショナリズムに関わるような主張は多様性を持つ政治の意識であること、そしてまた、現代の政治を読み解く選となっているということである。実際、研究者の間では「ナショナリズムは自身の政治色を持たない」(中略)などと表現されることがある。 政治の対立や争点を、単純な左右の一つの評価軸だけで見ているとわからないことがたくさんある。そこに、ナショナリズムという別の次元を補助線として用いることで、現代の政治的対立への理解がクリアに見えてくることがある。もちろん、潜在的に使える補助線の中には、ナショナリズム以外にも様々なものがあるのかもしれない。しかし本書では特にナショナリズムとのつながりにフォーカスを当ててみることで、現代政治を彩る様々な政治現象を見ていくことにする。 よくある「右翼≒ナショナリズム≒反リベラル≒権威主義」といった連想だけでは説明できない現象が多々あること、そういった連想が時に根拠に基づかない思い込みであることを示すのが本書のゴールである。もう少し正確に言えば、そうした連想がつながる国や時もあれば、そうではない国や時もある。それを示すことが着地点だ。(p20-21)
- 2025年8月17日くらしのアナキズム松村圭一郎気になる
- 2025年8月17日
- 2025年8月17日八月十五日の神話増補佐藤卓己気になる読みたい
- 2025年8月17日ナショナリズムと政治意識中井遼読み始めた
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