DN/HP "99999" 2025年5月24日

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2025年5月24日
99999
99999
デイヴィッド・ベニオフ,
David Benioff,
田口俊樹
青山南のエッセイ『本は眺めたり触ったりが楽しい』で出会ったブルース・ウィバーの発言を読んだら、小説のことが考えたくなった。小説のことを考えていたら、大好きな短編集が読みたくなった。デイヴィッド・ベニオフの『99999【ナインズ】』。ここにはオールタイム・ベストな短編小説『幸せの裸足の少女』も収録されているのだ。 久しぶりに冒頭の表題作から最後の一編まで順に読み通した。どれも、これが短編小説だ、と思えるような素晴らしさで改めて感動した。完全にクラシック。それでも、そのうえで、やはりこの一編は特別なのだった。 自分も未来も、世界すらも信じていた16歳。上級生の父親の車を盗んで体験する、輝いていた初夏の日、特別な出会い、幸せな数時間。 挫折し信じていたものにも裏切られたような14年後。なんとかやっている人生のなかで、甦るあの時、幸せだった記憶。しかし、そこにあったのは懐かしさや悦びよりも、世界と時間の冷淡さ、過去から現在を見つめ直すことの残酷さ、それに追憶することの哀しみだ。 わたしにも幾つかのことが信じられていた16歳があった。一年くらい前にもこの短編を読んで、つい最近もジャズを聴き中上健次の『路上のジャズ』を読んで思い出していた。今も思い出している。万引きした少女、溶けたチョコレート、新宿のリハーサル・スタジオ……輝いていた、かもしれないその時代と、なんとかやっている現在の間にも挫折も裏切り(自分を裏切る、か)も当然のようにあって、思い出し今を見つめ直せばやはり、哀しみが湧き上がってくるのだった。一年前より、今の方がそれを強く感じる気がするのは、ブルース・ウィーバー言うところの「自分の心の変化や成長」があったからだろうか。思い当たる節は、ある。 訳者あとがきで田口俊樹はこの短編集の収録作には「あきらめ」が「通奏低音のように流れているような気がする」と書いていたけれど、わたしは「あきらめ」を哀しみに入れ替えて、どの短編にもこの哀しみが流れている、と感じていた。レコード会社のA&R、ロシアの若年兵、元パートナーの嘘を暴いてしまった男のそれぞれの物語にも、その哀しみがあると思った。どんなかたちにせよ追憶には哀しみがついてくる。過去を思い出すことは、それが過ぎ去ってしまったという時点で、既に少し哀しい。 そうなのだとしたら、小説が基本的には過去形でしか表現出来ないアートフォームだということを考えると、そこに追憶の哀しみが「通奏低音のように流れているような気がする」のは当然なのかもしれない。そこでは哀しみは描かれるべきもの、少なくとも感じるべきものだ、とまで考え始めている。それは言い過ぎかもしれないとも思っている。 また小説のことを考えている。 今もまだ、少し哀しい。 この短編集は今2冊持っている。またみつけたら何冊でも欲しい。出来ればミント・コンディションだと嬉しい。理由は大好きだから。
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