
雨氷
@supercooling
2025年6月10日

きみはメタルギアソリッド5:ファントムペインをプレイする
ジャミル・ジャン・コチャイ,
矢倉喬士
まだ読んでる
✔︎「きみはメタルギアソリッドⅤ:ファントムペインをプレイする」を読み終える
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✍️ 父さんは色黒でがっしりしていて、きみとは全然似ていなかったから、小さい頃のきみは、いつかハグリッドがやってきて、お前さんは「穢れた血」の生まれだと教えてくれて、そこから本当の人生が、つまり、父さんの人生の痛みとか罪とか絶望とか無力感とか裁判とか恥辱とか、そういうものの重みに縛られない本当の人生が始まるんだと思っていた。(pp.11-12)
✍️ きみは愛国者ではなく、民族主義者でもなく、帽子(パコル)とカミーズを身に着けて歩き回り、民族楽器のタブラを叩き、お気に入りの歌手はアフマド・ザヒールと答えるようなアフガニスタン人の一員でもないわけだが、ゲーム史上で一番の伝説となり、芸術の観点からしても重要なシリーズ最後の舞台が一九八○年代のアフガニスタンときたものだから、いざそれを手にするきみはいっそうワクワクしていて、それもそのはず、きみは長いこと『コール オブ デューティ』(一人称視点のシューティングゲームの一つ)でアフガン人たちを撃ち殺してきたわけで、父さんによく似た顔の軍人たちが次から次へと襲い来るのを初めて虐殺したときには自己嫌悪にも陥ったけど、今では不思議と免疫がついてしまった。(p.13)
💭ハグリッドのくだりは正直おもしろいと思ってしまった(私も11歳になったらホグワーツに行けると期待していた時期があったので)が、私たち(どこまで含むのか曖昧な言葉!)が普段触れる「世界で人気のエンタメ作品」の多くは西側諸国の考え方を基盤に作られており、でも西側諸国の筆頭であるアメリカにも異なる文化圏から来た人が暮らしており、「世界で人気のエンタメ作品」を楽しんでおり、でもそこには自分と作り手の差異を感じるような表現も含まれており、逃げ切れるものではないのだろうと思う。私(これは他の誰でもない自分自身のこと)だって、不意打ちのように作り手との差異を気づかされることはあるし、そもそもこの本を読むこと自体がそういう体験になっている。
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✍️夜、闇にまぎれてきみは父さんの屋敷へと潜入(スニーク)して、十五フィートの土壁をよじ登って屋根の上を這って進み、屋敷の一番高い位置に到着すると、そこでは父さんが戦闘機や爆撃に備える警戒任務にあたっていて、その背中にきみは麻酔銃を二発撃ち、父さんが気絶して倒れていくところを両手で抱きとめて、父さんを、といってもこの場合は今のきみと同い年くらいなわけだけど、闇の中で、この戦争でこれから失われることになる屋敷の屋根の上で、きみは父さんを抱きしめて、その体はまだ強くて元気で、心も壊れていないのを感じながら、そっと静かに寝かせてあげる。空に飲み込まれてしまわないように。(p.12)
💭「ファントムペイン」とは「幻肢痛(すでに切断された手や足がまだあるように思われ、痛みを感じる状態※)」のことだから、父の故郷であるアフガニスタンのマップをゲーム内で進めながら、喪われた痛みを追体験する物語を描いたのかな。
※デジタル大辞林(小学館)より
