
本屋lighthouse
@books-lighthouse
2025年6月17日

まだ読んでる
カリブ海諸国は西洋各国の統治によって、異なる言語経験を持っている。しかしそのことによってカリブ海文化が完全に消滅したわけではなく、それらはブラスウェイトの言う「海面下」に「沈み込む」ことによって生き延びている。そしてグリッサンが言うには、カリブ海は「分散する海」であり、「集中する海」としての地中海≒西洋的思想と区別する。統一ではなく分散。しかし同時にブラスウェイトの言う「統一は海面下にある」という理論にもグリッサンは共鳴し、「カリブ海における海面下的統一は、集中による一ではなく、分散による多なのである」(p.119)と宣言する。
これまでに見てきた景色といま見ている景色は各々異なっていて当然である。ゆえにそれらの積み重ねにも違いはあらわれ、各々が判断する正しさにも違いが生じる。だからこそ正しさを追求する者どうしでも軋轢が生じるわけで、その軋轢を乗り越えるには各々の見てきた/見ている景色を、そしてその違いから生じるさまざまな解答や方法論の違いを、批判しつつも認めあうことが必要になるのだろう。しかし、各々の「景色」は海面下に沈み込んでいるため共有されにくい。集中による一ではなく分散による多を実現するためには、各々の持つ「景色」を海面下から引き上げる必要がある。しかしそれは簡単ではない。沈み込ませたままにしたい景色もある。だからこそ、海面下に沈んだままのなにかがそこにあることを、我々は想像しなくてはならない。意見(=海面上に表出したもの)の相違は、積み重ねてきた経験(=海面下に沈み込んでいるもの)の相違であり、後者にこそ意識を集中させなくてはならない。そして前者の否定は後者の否定にも繋がる。だからこそ、我々は深く傷つくのかもしれない。否定されたのは「いまあらわれた意見」ではなく、「これまで積み重ねてきた経験」だからだ。








