
冷やしトマト
@tomato_hiehie
2025年6月19日

現代思想(2025 6(vol.53-7)
伊勢田哲治,
山敷庸亮,
岡本慎平,
木村大治,
木澤佐登志,
松井哲也,
石井由梨佳,
藤原辰史
読んでる
"のび太とドラえもんは、相手の理解不能な部分、予測ができない部分はそのままに受け止め、いま・ここで目の前にいる相手と向き合うという、極めて倫理的な立場を持ってお互いと付き合っている。対して、私たちの多くの読者が読み取った素朴な友情とは、人間であるのび太の呼びかけに、ロボットであるドラえもんが常に応答してくれる、というものであった。これは、現在のロボット工学者が「友達のようなロボットを作る」という時の友情観と同じである。そこで想定されているのは「ユーザが友情を求めた時に、常に返してくれるロボット」であり、本質的に「ユーザが性行為を求めた時に決して拒まないセックスロボット」と何ら変わらないのではないだろうか。"
── 『私たちはロボットとの恋を描けなかった』 松井哲也




冷やしトマト
@tomato_hiehie
ドラえもんを例えに出しながらロボットが《異類》であるとしている。ただ応答するだけのものは《異類》にはなれない。時には不機嫌になったり, 拒否したりする緊張感こそが真の友情ロボットへの道だというこの考えは, 山本弘『アイの物語』とは真反対のアプローチだ。というのも, それはつまり《異類=他者としての人間》という構図にある。ヒトとロボットの思考が全くもって異なり, 決して完全に理解し合うことはない, というSF的発想とはまた違っているということだ。《異類》とはなにか。それは非対称な関係ではないのだろうか。ドラえもんが《異類》であるならば, 読者やのび太が感情表現としてみているものは一種のロールプレイであり, インターフェースのはずだ。本来のドラえもんの思考とリンクしているとは限らない。この点において, 山本弘の「理解できないものは退けるのではなく、ただ許容すればいいだけのこと」というAI観と似ているようで異なることが分かる。

冷やしトマト
@tomato_hiehie
- ナンセンスさの根源:
- SF作家は「物語の創造」を通じて人間像やAIの視点を模索するが、思想家は「理論の構築」を目指す。山本弘の詩音は物語の文脈で「許容」を学ぶが、松井のドラえもんは倫理的コミュニケーションのモデルとして解釈される。
- 両者を直接対比するのは、フィクションの想像力(感性・文脈依存)と哲学の論理(普遍性・抽象性)の「土俵の違い」を無視することになる。@tomato_hiehieの比較は面白いけど、SFと哲学の「ジャンルの壁」がナンセンス感を生む。
例:
山本の「許容」は、AIが人間に奉仕する現実的な技術ビジョン(介護ロボット)に通じる。松井の「対等性」は、AIに主体性を求める未来の理想像(SFの夢)に繋がる。この対比は、現代のAI倫理やロボット開発の議論(例:ユーザ中心設計 vs. 自主性)に光を当てる。