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2025年6月28日

拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)
トム・ジョーンズ
本と日記のある人生
大好きなトム・ジョーンズの短編集を久しぶりに読み直した。小説たち自体も岸本佐知子さんの翻訳もバッチリ最高で、やっぱり大好きだった。
とはいえ、再読までの間の時間は、読みながら考えることを増やしたり変えたりもさせるわけで。今回は、海兵隊に入隊しながらもベトナムに行か(け)なかった作家の描く、ベトナムに従軍した海兵隊員の物語にアメリカにある海兵隊の「呪い」(海兵隊員は死ぬまで海兵隊員だ、とか)がある気がしてきたり、この作家にもルシア・ベルリンと同じような「あきらめ」を感じて、ここにある小説たちはそのうえで書かれている、そしてそれはデニス・ジョンソンの「海の乙女の惜しみなさ」の帯に書かれていた作品に漂う「死」とも同じようなものではないか、とか思ったり。
それがとても濃厚な、普段は意識しない(ようにしている)ような自らの死を強烈に確実に意識しながら死に向かっていく女性の話は、テーマも小説としても凄まじかった。同じように病床で完全に自覚したうえで死に向かっていった父親は何を考えていたのだろうか……そんなことを考えたりstoryやReadsに書きちらかしながら読んでいた。
巻末の岸本さんの訳者あとがき(オリジナルの方)も、本編に劣らずとても素晴らしくて。そこで「ここに集められた物語に登場する人々の多くは、どこかこわれた人たちである。」と書かれていたけれど、彼女、彼らがこわれているとするなら、わたしたちの多く、少なくともわたしも同じようにどこかこわれているのではないか、と気がつく。そのうえで彼女、彼らの物語を読めば、そこにはこわれていることも「あきらめ」た、その先にしかないようなタフな希望を感じることが出来る、出来た、そんな気がした。そして、その「どこかこわれた人たち」の何人かの傍には犬が居た。これもとても重要。犬は人にとっての希望、あるいは大袈裟にいえば生きる意味にもなり得るんですよ、などとも思ってみる。
と、今も言葉足らずのまとまらない文章を書いているけれど、日中には岸本さんのあとがきを踏まえてもう一度読み、考え直すしかない、と30年前のサマージャムにもあおられながら、文庫本をポケットに入れて「解ってんのに炎天下に全然意味なく 家出たりして」。そうしたら6月にして「夏本番」で汗をかきながら歩いて「まずは本屋」に向かってみた。
チェックしたかった本は置いていなかったから、もうすぐ切れそうなボールペンのリフィルだけ買って、次は古本屋だ。また歩く、汗をかく。「生きているのを実感するぜ」。これはとあるラッパーのライブでのMC。2軒目にして少し前から欲しかった本を発見して溜飲を下げる。歩いた甲斐があった、と店の前の信号を待ちながら適当に捲ったページの文章に完全にフィールした。もうこの時点でこの本は最高だ。そしてこの瞬間はトム・ジョーンズの短編で、記憶を失った徘徊症の広告屋がムンバイのビーチで年老いた白い馬に出会ったような、特別な偶然、魔法のような瞬間なのではないか。そう思い込む。
ボビー・ハッチャーソンのビブラフォンを聴きながら夕焼けを眺めた帰路に、結局短編集は1ページも開かなかった(けれど、休憩した木陰のベンチで写真は撮った)し、考えも文章もまとまらなかったことを思い出したけれど、1日としては全部OKになった気がしていた。そしてこの文章はまとまらないまま、いつのまにか日記のように着地しようとしている。これもきっと「夏のせい」、かもしれない。


