
Ayako
@aya_rb
2025年6月29日

中動態の世界
國分功一郎
読み始めた
(メモ)
第3章 バンウェニストの議論の参照
能動態と中動態の対立に見出されるのは、主語が、動詞によって示される過程の外にあるか内にあるかの区別である。
第4章 デリダによるバンウェニストの批判を検証する
バンウェニストは、言語は思考ではなくて思考の可能性を規定するとした。
p202 フーコーの権力論
権力は人々が行為するのを妨げるのではない。権力は行為に働きかけ、人がある行為をするように、もしくはその行為のあり方を規定するように作用する。言い換えれば、権力は人がもつ行為する力を利用する。
それに対し暴力は、身体に直接に働きかけるという意味で権力から区別される。
権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。
暴力関係は能動と受動の対立のなかにある。
暴力は行為を引き出すことはできない。暴力はあらゆる可能性を閉ざす。
ここで注意しなければならないのは、権力関係において権力を行使される側にいるものは、ある意味で能動的だということである。
権力行使における行為者の有り様は、「する」と「される」の対立では説明できない。
ただし、権力は暴力を利用する。だからしばしばこのふたつは混同される。
権力の関係は、能動性と中動性での関係でこそ、説明できる。
アレントの権力の定義
権力は集団的なものであり、複数の人間が一致して行為するところに存在する。暴力はそのような一致は持たない。
フーコーは暴力は権力によって利用可能とする。
しかし、アレントの理論では、暴力は権力を破壊し、権力が暴力を利用することはありえない、と。
非自発的同意、というカテゴリー(能動と受動の対立の図式では、上手く位置付けられない)
