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2025年7月1日

本は読めないものだから心配するな
管啓次郎
本と日記のある人生
『コヨーテ読書』という同じ著者の本を読んでからずっと読みたいと思っていた一冊を先日古本屋でみつけた。やったぜ!の気持ちのまま店を出て、目の前の信号が変わるのを待ちながら何気なく開いたページ、そこにあった文章、著者の読書の好みに一目で完全にフィールした。もうこの瞬間からこの本は既に最高だ、と確信した。更にこの瞬間は信じるべき偶然、魔法のような瞬間だった、と思い込んでいた。ああ、これは先日も書いたことか……と今気が付いたけれど、そんな瞬間は何度でも書き残しておきたい。そういうことにしておく。
改めて最初から読み進めていくと、数ページ目には、今度はわたしとは違った、真逆と言ってもいいような「読書感」が書かれていた。
「ぼくはきわめて偏狭な、読書の実用論者だ。ただ楽しいからおもしろいから気持ちがいいから本を読み時を忘れ物語に没入するということは、ぼくにはまるでない。未来において「何か」の役にたつと思うから、読むのだ。」
わたしは読書に「実用」や「役に立つ」ことをあまりを求めていない、逆に無用で役に立たないこと、時間を求めて(それは実用的なことや役に立つこと“だけ”が求められるような世界からの逃避かもしれない、あるいは反抗)読んでいる気がしている。引用した文に倣うなら読書の快楽論者だ。それでも、読書をしていけば「未来において「何か」の役にたつ」ものが残っていることがある。よくある。それらに助けられている。きっとこの本を読み終わったときにも、そんなものが幾つも残っている気がしている。今はまだ著作の強固な思想、あつい語り口、かっこいい文章を、ゆっくりと楽しんでいるところだけれど。読書はいつもそんなふうに続いていく。
続いていくと、当然また気になる文章に出会うことになる。歩くことについての文章が特に気になった。というか煽られた。
「われわれは、思想をかけて、歩かなくてはならない。かといって、別に気負う必要もない。無用の歩行、気まぐれな小さな旅を、少しずつ、しかし確実に、自分の暮らしの中にとりもどすことにしよう。そのときふと考えはじめる何かが、ぼくらに思いがけない道を、つねに新しくさししめしてくれるにちがいない。」
「ジーンズのお尻のポケットの、片方には財布、片方には本一冊。これで手ぶらでどこまでも歩いてゆける。」
この本を買った日の古本屋への道すがらもそうだったけれど、わたしの暮らしのなかには「無用の歩行」が既にとりもどされている。時間と体力の許す限り、気まぐれに道を選んでまわり道をしながら、お気に入りや未知の景色を眺め、日々歩きながら色々なことを考えている。その幾つかは部屋に帰ってからも考え続けることになって、新しい道がみつかることもある。あったかもしれない。それが連なっていく。人生。
そして、今日はジーンズは履いていない(暑くて履けないよ)し、他のポケットには(カーゴポケットにも)色々な物が入っているけれど、手ぶらだし左のお尻のポケットには文庫本が入っていた。なるほどこれでどこまでも歩いていけるわけか、と煽られる。また思い込む。
ということで、と少し遠いダイソーまで歩くことにする。この季節にお尻のポケットに文庫本を入れるときにも(普段も使っている)マストなアイテム、クリアブックカバーを買いに行くのだ。ポケットに染み込んだ汗で湿っちゃうこともあるからね。
そこからさらに遠回りして久しぶりのブックオフにも勿論寄る。ここでは読みたかった「白背」を一冊。再びやったぜ!の気持ちのまま、今日は隣のコンビニで最近のお気に入りの美味しいアイスを買う。パルム ジェラード ショコラ&深紅ベリー。外シャリ中しっとり系。果実とチョコの絶妙な関係。このタイプが好き。お気に入りのTシャツに染みをつけないように食べながら帰路。音楽はGrimey Chopsのboom bap beats。
その間もなにかを考えていた気がするけれど、それらは汗と一緒に流れ出て、いまはバケットハットに染み込んでしまったぽい。
特別ではなかったし、思いがけないこともなかったけれど、それでも心地の良いJust Another Day。今日もOKだった。夕飯を食べたあとは、Nate doggを聴いてゆっくりしよう。
なれない日記調の文章はだらだら書いて、推敲もせずにポストしてしまうけれど、わたしも「書くことで気持ちが安らぐことに気づ」いてきたので、こんな文章も書いていきたい。これはトム・ジョーンズの小説の登場人物からの影響。



