
読書猫
@YYG_3
2025年7月2日

読み終わった
(他文献からの引用)
“美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている。
マルセル・プルースト「サント=ブーヴに反論する」”
“ある言語で小説を書くということは、その言語が現在多くの人によって使われている姿をなるべく真似するということではない。同時代の人たちが美しいと信じている姿をなぞってみせるということでもない。むしろ、その言語の中に潜在しながらまだ誰も見たことのない姿を引き出して見せることの方が重要だろう。そのことによって言語表現の可能性と不可能性という問題に迫るためには、母語の外部に出ることが一つの有力な戦略になる。もちろん、外に出る方法はいろいろあり、外国語の中に入ってみるというのは、そのうちの一つの方法に過ぎない。
多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』”
“木のようなにおいがしていた。部屋のすみは暗かったけど、ボクは窓を見ることができた。ボクはそこにしゃがんで、スリッパを持っていた。ボクはスリッパを見ることができなかったけど、ボクの手は見ることができ、ボクは夜が来るのを聞くことができ、手はスリッパを見ていたけどボクは自分では見ることができなかったけど、手はスリッパを見ることができて、ボクはしゃがんで夜が来るのを聞いていた。
フォークナー『響きと怒り』”
(本文抜粋)
“これはあくまでも私見なのですが、多くの読者を惹きつける「ストーリー」はとっくの昔に飽和しており、ほぼ完全にパターン化されてしまっていると思います(だからこそ「指南」が可能になるわけです)。それはそれでいいのだけど、読者が読むことをやめられず、最後まで読み通させる「技術」はストーリーテリングだけではない。物語とは別の、ことば自体の力というものがあると思うのです。”
“私はよく「他者の重要性」について語っています。
ここでの「他者」とは、観念的な意味ではなく、文字通りの「自分ではない人たち」のことです。要するに「他人」です。「他者=他人」を書けるようになることこそが「書くこと」を学ぶうえで最重要課題のひとつだと、私は思っています。
この世界に「自分」以外のものが無数に存在しているという事実を、そんなことは当然でしょうと嗤ってスルーせず、あらためてもう一度、何度となく、できるだけ真に受けて考えてみること、それこそが「書くこと」の根元に触れることだと私は思います。”
