ノエラプトル "ぼくがスカートをはく日" 2025年7月12日

ぼくがスカートをはく日
ぼくがスカートをはく日
まめふく,
エイミ・ポロンスキー,
松中権,
西田佳子
タイトルから察しがつく通り、トランス女性(と思われる)の子ども・グレイソンが主人公。学校の演劇のオーディションで、女神ペルセポネの役を志願したことをきっかけに、彼女が勇気を持つようになる物語。 「こうでありたい」という理想の姿と現実の自分を比べてモヤモヤしたり、まわりの人の発言で気持ちが浮き沈みしたりするグレイソンに、シンパシーを感じる。 そしてただただ、彼女の勇気に敬服する。とはいえ、解説でも書かれていたように、一番大切なのは、誰にも悩みを打ち明けられずに一人で抱え込んでいる人が、自分のまわりにいるかもしれない、という想像力を、一人ひとりが持つことなんだよな。カミングアウトする/しないは当人の自由だし、勇気=絶対ではない。いろんな生き方があるけれど、それを否定したり貶めたりすることは誰にもできない、その人だけの生き方だ。 上に「シンパシー」と書いたが、この場合必要になるのは「エンパシー」なんだろう。もちろんまったく同じ人間ではないから、想像しても分からないことだってあるとは思う。完全に理解するのも、それはそれで難しい。 でもだからこそ、暴言や暴力に頼るのではなく、対話して、ちょっとでも相手の意志を尊重しようとする力が大切になってくる。といってもそれはまさにマジョリティ側の問題であって、マイノリティにこれ以上マジョリティの前提を押し付けるのも違うと思うけれど。 大半の人は、マジョリティ性とマイノリティ性のどちらも併せ持つ。その中で、他者の痛みや苦しみから目を逸らさず、自身の立場を見つめて、何ができるのか模索していくしかないんじゃないだろうか。時間がかかるし、めんどくさいことだってあるけれど、きっとそれしかない。 排外主義は手っ取り早いが、何もかもを失うハメになるし、何も解決しない。 それに対抗するためのエンパシーを、僕も持って生きていきたい。
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