ぼくがスカートをはく日

4件の記録
サブレとポッポの往復書簡@snowflake2026年8月7日読み終わった心に残る一節読書日記実際、この広い世の中には、グレイソンのような性的マイノリティーに属する人たちのことを、ライアンやアミリアのように、そもそも心が受け付けないという人は少なからずいるということは事実で、実際、心無い言葉や好奇の目線というのは、目立たなくはなりましたが、事実として今も存在します。悲しいことですが。 また、そういった世間の心無い偏見から守ろうとする親心から、却って本人の思いをそのまま受け止めてあげられず、その狭間で深く葛藤してしまうサリー叔母さんのような人もいます。 それでも、ペイジーやフィン先生、エヴァン叔父さんのように、グレイソンの回りにもこうして温かくありのままの自分のことを受け止めてくれる人たちもまた確かに存在しています。 またジャックやセバスチャン、校長先生のように、はじめは懐疑的な思いを持っていても、本人の真摯な姿勢を実際に見ることで、これまでの見方や価値観が変わる人たちもいます。 だから、もし自分がグレイソンだったなら、そういう、受け止めてくれる人たちとの繋がりや思いを大切に育みつつ、真摯な姿勢であろうとすること。一方でライアンのような気持ちを持ってしまう人がどうしても存在するということも事実として受け止めた上で、ならばせめて互いが傷つけ合わないよう、互いの心が波立たないだけの距離を保ちつつ共存していけたらいいな、というのが、私の考える多様性の尊重のスタイルです。それは、マイノリティーだからって無条件に全て受け入れて欲しい、ではなくて、時には受け入れられない自由もあっていい。その時は互いに大人の対応をするのみ。 つまり性自認も、その人の持つ個性のひとつだと思うのです。だって、それだけを切り取ったところで、その人の人となりと誰が好きか、自分がどっちかなんてのは、なにも関係がないわけだしね。 グレイソンが演劇の最後、光に包まれたようにとても穏やかな笑顔でペルセポネを演じきったんだろうなって光景が、読了してしばらくの間、目蓋の裏に焼き付いているかのようでした。 あと、裏表紙の鏡に映る二人のグレイソンのイラストも優しげな雰囲気で素敵でした。
ノエタロス@Di_Noel022025年7月12日読み終わったタイトルから察しがつく通り、トランス女性(と思われる)の子ども・グレイソンが主人公。学校の演劇のオーディションで、女神ペルセポネの役を志願したことをきっかけに、彼女が勇気を持つようになる物語。 「こうでありたい」という理想の姿と現実の自分を比べてモヤモヤしたり、まわりの人の発言で気持ちが浮き沈みしたりするグレイソンに、シンパシーを感じる。 そしてただただ、彼女の勇気に敬服する。とはいえ、解説でも書かれていたように、一番大切なのは、誰にも悩みを打ち明けられずに一人で抱え込んでいる人が、自分のまわりにいるかもしれない、という想像力を、一人ひとりが持つことなんだよな。カミングアウトする/しないは当人の自由だし、勇気=絶対ではない。いろんな生き方があるけれど、それを否定したり貶めたりすることは誰にもできない、その人だけの生き方だ。 上に「シンパシー」と書いたが、この場合必要になるのは「エンパシー」なんだろう。もちろんまったく同じ人間ではないから、想像しても分からないことだってあるとは思う。完全に理解するのも、それはそれで難しい。 でもだからこそ、暴言や暴力に頼るのではなく、対話して、ちょっとでも相手の意志を尊重しようとする力が大切になってくる。といってもそれはまさにマジョリティ側の問題であって、マイノリティにこれ以上マジョリティの前提を押し付けるのも違うと思うけれど。 大半の人は、マジョリティ性とマイノリティ性のどちらも併せ持つ。その中で、他者の痛みや苦しみから目を逸らさず、自身の立場を見つめて、何ができるのか模索していくしかないんじゃないだろうか。時間がかかるし、めんどくさいことだってあるけれど、きっとそれしかない。 排外主義は手っ取り早いが、何もかもを失うハメになるし、何も解決しない。 それに対抗するためのエンパシーを、僕も持って生きていきたい。
