
noko
@nokonoko
2025年7月12日

「利他」とは何か
中島岳志,
伊藤亜紗,
國分功一郎,
磯崎憲一郎,
若松英輔
買った
読み終わった
心に残る一節
よき利他には必ず「自分が変わること」が含まれている
ケアというのは、「なんのために?」という問いが失効するところでなされるものだ、…他者を意味の外につれだして、目的も必要もないところで、ただ相手を「享ける」ことがケアなのだ
ただ心臓が動いていることとか、免疫細胞の働きだとか、私たちの意思に還元されないものによってこそ、世界の大半のものが動いている、そしてその力を人間はもっとコントロールできる、あるいは、その力を認知できるという発想が強かった。けれども、そんなものをはるかに超えたところでいろいろなものがオートマティカルに動いていること、その大きな力自体を私たちが直視することから解体されていく世界があるのではないでしょうか。そこにあらわれているもここそ「利他」としか名づけやうのないものなのではないでしょうか。
これまでの話で、柳が考える利他の淵源が「美」であることはすでに見ました。そうした認識は濱田も同じです。「美」は彼らにとって何かを「生む」ちからそのものです。詩人にとって言葉が記号以上のちからの顕現であるのと同じです。
現代では、論理上の矛盾がないことが正しさの証であるかのようになっていますが、現実世界の説明としては非常に脆弱です。現実は矛盾に満ちています。むしろ、矛盾が矛盾のまま表現できているほうが、よほど現実的です。
柳宗悦にとって、人間の争いを食い止めるものが美でした。美は人を沈黙させ、融和に導く。さまざまなことについて対話し、その彼方に何かを見出していくというよりも、沈黙を経た彼方での対話ということを、彼は考えていたのでしょう。
意志の概念によって人に押しつけられる「責任」のなんとみすぼらしいことか。「責任」と口にしたときにこんなものしか思いつくことができない現代の僕らはなんと貧しい思想の持ち主であることか。
利他はこのサマリア人が感じたような義の心を一つのモデルにできると思います。


