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2025年7月14日

長い一日
滝口悠生
サルバドール・プラセンシアの『紙の民』で、作家である元パートナーに自分の今とは違った人生を小説に書かれた女性の話を読んでいたら、この小説の「夫」に書かれた「妻」の納得のいかなさに関する部分を思い出した。読み直して「妻」の意見に納得する。この部分を書くこともまた、という気も少ししてくるけれど、それでもこの小説は誠実だと思う。
小説(以外の日記やエッセイでも)、それが出版され書店に並ぶようなものなら特に、それが「(唯一の)事実」とされてしまう「大きな物語」になってしまうことがある、ということには注意が必要だ。それでも、小説は作者以外のそれぞれにあるはずの「小さな物語」を書くことが出来る、とは信じていたいし、それは書かれるべきだ。
その注意というのは読み手もするべきことで。小説でもなんでも誰かが書いた文章というのは、形はどうあれ、詰まるところその人が「世界」をどう観ているかであって、人に関してもそういうことだ。それは必ずしも、読み手や書かれた対象の視線と重なる訳ではない、みたいなことは意識しておきたい。ということは前にも思った気がする、と帰りに道の水辺のベンチに座って、まとまらないながらにも考えてみた。



