長い一日

35件の記録
- poe@poe_eoq2025年7月5日読んでるP212まで (二)だけ読んだ。いい話だった。 スポンジの話しかり、何かに対する愛着がその何かの特性ではなく、それと過ごした時間や環境に起因している、だからその何かの良さを説明することは難しい、という話をこの小説ではよくしている気がする。そしてそれは共感できる。わかりやすく説明できないことってあるから。
- mkt@mkthnsk2025年7月2日かつて読んだここで見かけて。登録?してなかったのに気づいて追加ボタン(ボタン?)を押す(タップするかな?) 下北に住んでた時のことが思い出されて自分の記憶と混ざり合って不思議な気分になりながら読んだ
- DN/HP@DN_HP2025年6月6日図書館で借りて最初に読んだとき。 2022 6/26 「なるほど、小説というのはそうやって全てを記録できないこの現実を、言葉で書き換えて読んだり話したりできる形にするものなのか」 幾つもの視点も思考も、場面や時間も溶け合うように繋がっていく。誰かのことを想う。自分と会っていないときのその人のことを考える、その人に想われていることを想像する。その連なり。心地の良い違和感を感じるようなそれらの記録出来ない部分、現実でそれがみえてしまったら心地良いとは思えないかもしれないけれど、人の想いも記憶も過去も未来も溶け合ったものが、やっぱり世界ということなのかもしれなくて、それを「読んだり話したりできる形に」に出来るのが小説。なるほど。やっぱり、小説にしか出来ない世界の描きかたというのはあるのだな。と思いながら、よく風の通る公園のベンチで「ゆっくり読む」ときに使う特別な栞を見開きに挟んで本を閉じて、昨日配信されたGofishのアルバムを再生した。少し長めのイントロのあとに歌われる歌詞を聴いていたら、ああ、この音楽も同じように世界を描いているのかもしれないと思った。これはこの本のジャケにも最近買ったGofishのシャツにも一平さんのアートワークが使われていたことにも勿論繋がっていて、というかその連想で聴き出したのだけど、その繋がりにも、なるほどと頷く。それに、この小説は「死んでいない者」と一緒に教えて貰ったのだけど、その2冊の間に読んだ植本一子さんとの往復書簡と「高架線」(この小説もタイミングも含めて本当に特別になりました)、また別の方から教えて貰った柴崎友香さんの「春の庭」も全部ここに繋がっていた気がしていて、そういう偶然かもしれないけれど絶対に特別なタイミングと繋がりも、世界というには少し違うかもしれないけれど、言葉を使って形にしていきたい。今年の夏の日記にはそんなことを書けたら良いなと思った。 冒頭の引用もそうなのだけど、“妻”にいちばんfeel出来た気がしました。あと、“夫”のオオゼキへの想いと窓目君の加齢とチャック全開エピソードが完全に最高。
- DN/HP@DN_HP2025年6月6日クリスマス・イヴに改めて新品の本を買った日の日記、ぽい。 2022 12/24 クリスマス・イヴに今年読んだベストの一冊を改めて新品で買った。去年末くらいから少しづつ教えて貰ったりプレゼントで頂いたりして読み始めた日本語で書かれた小説はどれも素晴らしかったのだけど、それらも全部この小説に繋がっていた。と、少し大袈裟なことを言いたくなるくらい素晴らしい小説だった。これは、そのとき考えていた友人のことや苦手な日記を書いていた時期に読んだことも関係していると思うけど、この小説を読んだあとには、日常を言葉、文章にして残す(それを読む)ということをとても意識するようになったりもして。書くことで日常に意味を見出す。もちろんそれにも納得出来るけれど、別にそこに意味なんかなくても良いんじゃ無いかなと思ったりもするし、その意味のなさを大切にしたいとも思ったりもする。それでも、それぞれの日常、ずっと続けば良いなという日常も、なにも考えず過ぎていく日常も、そこから抜け出したいと思ってしまうような日常でも、それをそれぞれのかたちで書き残すこと自体にはやっぱりなにかしらの意味があるとも思っていて…。 最初にこの小説を読み終わったのは、6月にしてはとても暑かった日のいつもは行かない駅の公園のベンチで、その日のことは誘って頂いたzineにも書いたけれど、さっき長いエスカレーターを降りた先のベンチで冷たい風を感じながら、見返しに付箋を貼り付けて、あのときも使っていたお気に入りの栞を挟んだことや、そのとき考えていたこと、それに乗り込んだ電車の隣の車両にサンタがいたことなんかもやっぱり書き残しておきたい気がして、帰りに小さな日記帳を買いました。来年は少しづつ日常も書き残していきたい。
- DN/HP@DN_HP2022年12月24日買ったかつて読んだまたいつか読書日記@ 世田谷代田駅2022 6/26 「なるほど、小説というのはそうやって全てを記録できないこの現実を、言葉で書き換えて読んだり話したりできる形にするものなのか」 幾つもの視点も思考も、場面や時間も溶け合うように繋がっていく。誰かのことを想う。自分と会っていないときのその人のことを考える、その人に想われていることを想像する。その連なり。心地の良い違和感を感じるようなそれらの記録出来ない部分、現実でそれがみえてしまったら心地良いとは思えないかもしれないけれど、人の想いも記憶も過去も未来も溶け合ったものが、やっぱり世界ということなのかもしれなくて、それを「読んだり話したりできる形に」に出来るのが小説。なるほど。やっぱり、小説にしか出来ない世界の描きかたというのはあるのだな。と思いながら、よく風の通る公園のベンチで「ゆっくり読む」ときに使う特別な栞を見開きに挟んで本を閉じて、昨日配信されたGofishのアルバムを再生した。少し長めのイントロのあとに歌われる歌詞を聴いていたら、ああ、この音楽も同じように世界を描いているのかもしれないと思った。これはこの本のジャケにも最近買ったGofishのシャツにも松井一平さんのアートワークが使われていたことにも勿論繋がっていて、というかその連想で聴き出したのだけど、その繋がりにも、なるほどと頷く。それに、この小説は「死んでいない者」と一緒に教えて貰ったのだけど、その2冊の間に読んだ植本一子さんとの往復書簡と「高架線」(この小説もタイミングも含めて本当に特別になりました)、また別の方から教えて貰った柴崎友香さんの「春の庭」も全部ここに繋がっていた気がしていて、そういう偶然かもしれないけれど絶対に特別なタイミングと繋がりも、世界というには少し違うかもしれないけれど、言葉を使って形にしていきたい。いつかの日記にはそんなことを書けたら良いなと思った。 2022 12/24 クリスマス・イヴに今年読んだベストの一冊を改めて新品で買った。去年末くらいから少しづつ教えて貰ったりプレゼントで頂いたりして読み始めた日本語で書かれた小説はどれも素晴らしかったのだけど、それらも全部この小説に繋がっていた。と、少し大袈裟なことを言いたくなるくらい素晴らしい小説だった。これは、そのとき考えていた友人のことや苦手な日記を書いていた時期に読んだことも関係していると思うけど、この小説を読んだあとには、日常を言葉、文章にして残す(それを読む)ということをとても意識するようになったりもして。書くことで日常に意味を見出す。もちろんそれにも納得出来るけれど、別にそこに意味なんかなくても良いんじゃ無いかなと思ったりもするし、その意味のなさを大切にしたいとも思ったりもする。それでも、それぞれの日常、ずっと続けば良いなという日常も、なにも考えず過ぎていく日常も、そこから抜け出したいと思ってしまうような日常でも、それをそれぞれのかたちで書き残すこと自体にはやっぱりなにかしらの意味があるとも思っていて…。 最初にこの小説を読み終わったのは、6月にしてはとても暑かった日のいつもは行かない駅の公園のベンチで、その日のことはあるzineにも書いたけれど、さっき長いエスカレーターを降りた先のベンチで冷たい風を感じながら、見返しに付箋を貼り付けて、あのときも使っていたお気に入りの栞を挟んだことや、そのとき考えていたこと、それに乗り込んだ電車の隣の車両にサンタがいたことなんかもやっぱり書き残しておきたい気がして、帰りに小さな日記帳を買いました。来年は少しづつ日常も書き残していきたい。 冒頭の引用もそうなのだけど、“妻”にいちばんfeel出来た気がしました。あと、“夫”のオオゼキへの想いと窓目君の加齢とチャック全開エピソードが完全に最高。 もう一度読みたいな、と思ったタイミングで初読と2度目に読んだときに書いた文章を読んでみたら結構良かったのでアーカイブ的に載せておきたい。少し話は違うけれど、このところ「新潮」に掲載されている滝口さんの短編は、めちゃくちゃ凄いと思う。