パピアニューピピア "本が読めない33歳が国語の教..." 2025年7月19日

本が読めない33歳が国語の教科書を読む やまなし・少年の日の思い出・山月記・枕草子
みくのしんが賢治とか(この本の中にはないけど)基次郎とかに「わかるよ!」とか「お前すげえな!」とか言ったり、悔しがったりしているのを見ると、この人にとって作者とは文豪ではなくて「この文章を書いた人」であり、読書もコミュニケーションのうちの一つなんだなあとよくよく感じる。 いまの今まで読み継がれている名著の作者は大概(なんらかの文壇の派閥に属している場合もあるけど)どこかしらに世間から浮いたところを感じていたような人が多いから、みくのしんからスコーンと抜けた青空みたいに手放しにすげー! とかわかんねー! とか言われたらさぞ嬉しかろうなあと思ってしまう。 いつだったか、オツベルと象の記事が出た時にか、Twitter(当時はまだTwitterだったのだっけ?)で見た「文豪たちがみくのしんくんに読んで欲しくて枕元に行列を作っていますよ」という趣旨のツイートが忘れられないからだと思う。 わたしは文豪でもなけりゃ関係者でもないのだが、ナイーブな人々がみくのしんから熱くハグされているのを見ると、どうしても、よかったねえと親戚のおばさんのような気持ちになってしまうんである。 みくのしんくんは私の目の前にはいないし、文豪たちの目の前にもいなくて、ただかまどくんの真向かいに座って本を読んでいるだけなのに。
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