
阿久津隆
@akttkc
2025年7月21日

ダロウェイ夫人
ヴァージニア・ウルフ,
丹治愛
読んでる
フライドポテトときゅうりのおつまみと焼き鳥を頼んで届いたビールをひと口飲んで本を開くと「世の中にはいろんな悪党がいるだろうが、列車で少女の脳天をたたきつぶした罪で縛り首になる悪党も、全体としてみれば、ヒュー・ウィットブレッドとあいつの親切ごかしほどの害をなすわけではないんだ」とベルンハルトみたいなことが書かれていたので朗らかな気持ちになった。
ピーターがパーティを見ている。クラリッサを見ている。フライドポテトはバターソースというもので、バターソースは僕は好ましくない。ひと口ひと口、バターが垂れないか気をつけなければいけない。これがマヨネーズやケチャップだったらこうはならない。ノールックでOKだ。バターソースだとそうはならない。味も僕はマヨネーズやケチャップが好きだ。これは残念だ。しかし小説は面白くてダロウェイ夫人はパーティの心配を案じたり成功を信じたりしている。ブラドショー夫妻のことが気に食わない。「ああ! わたしのパーティのまっただなかに死が入りこんできた」と彼女は考える。それから小部屋に入っていった。
p.328,329
わたしたち(今日一日、たえずブアトンのこと、ピーターのこと、サリーのことを思い出していた)、わたしたちは年をとってゆく。だけど大切なものがある―おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされてゆくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これをその青年はまもったのだ。死は挑戦だ。人びとは中心に到達することの不可能を感じ、その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、孤独な自分がとり残されるのを感じている―だから死はコミュニケーションのこころみなのだ。死には抱擁があるのだ。
ぐんぐん加速するというかぎゅっとしていく。緊迫感が高じていく。フライドポテトは終わって、きゅうりはつまんでもつまんでも減らないように見えて助かる。「両親から両手でうけたこの人生という贈り物を最後まで生き抜くことが、心穏やかに歩きとおすことができない」という恐怖心。リチャードがいなければ自分は破滅していただろう、とクラリッサは考える。チーズつくねと煮卵を追加する。「そして空は。厳かな空だろう、と彼女は予想していた」。ビールは3杯目。繰り返されるあの言葉。「もはや恐れるな、灼熱の太陽を」。
p.332,333
どういうわけか自分が彼に似ている気がする―自殺をしたその青年に。彼がそうしたことをうれしく思う。生命を投げだしてしまったことをうれしく思う。時計が打っている。鉛の輪が空中に溶けてゆく。彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた。だけどもどらなければ。人びとのもとへ集わなければ。サリーとピーターを見つけなければ。彼女は小部屋から出ていった。
しかしクラリッサはなかなか姿を見せず、僕は川に入ったウルフのことを思い、ウルフの日記を読んでいた元代々木の部屋を思い、彼がそうしたことをうれしく思う、生命を投げだしてしまったことをうれしく思う、彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた、という言葉を思い、その言葉の静けさと強さを思い、ピーターとサリーが話すのを見つめ、ここにはいないクラリッサのことをやはり何度も思い、若いクラリッサ、年を経たクラリッサ、そこに流れた年月、それらの全体を思い、そして小説が終わるのを見届けた。